コロナ騒動に、戦争への道ならしに邁進した戦前マスコミを思う
コロナ情報を整理してみると、マスコミが与える印象とはずいぶんと違う真実が見えてきます。
1. PCR検査の科学的根拠は示されていない
これについては田中宇氏のメルマガによくまとめられています。
「★新型コロナのウイルスは存在する?」と題された記事を参照していただきたい。
これを読むと、新型コロナウイルスを特定した研究はまだ行われていないことがはっきりと示されています。
2. 本当に新型コロナによって死亡したかどうかはわからない
PCR検査の根拠事態がゆらいでいることはもちろん、死者の大多数が高齢者であるということからすれば、他の死因による死者も、新型コロナによるものとして集計されている可能性が高いと思われます。
今後、超過死亡率が計算され、この時期の死者数が推定よりも多くなっていることが示されるかもしれません。それが新型コロナによる影響であると言えるかどうかというと、新型コロナ対策によって、医療現場が混乱した影響や、外出自粛の影響などの要因が考えられるため、超過死亡率の上昇があったとしても新型コロナの影響であると早急に結論することはできません。
3. ぶりかえしや後遺症など、通常の風邪やインフルエンザでも起こることが、あたかも新型コロナ特有の症状のように喧伝されている
私も当初はだまされかけましたが、いったん治った後に病気がぶり返すことや、肺炎からの回復後に体に影響が残っていることは、当たり前のことであり、新型コロナ特有の事象ではありません。しかし、油断をしていると、新型コロナだけが特別怖い病気であるという印象を与えるような報道の仕方に影響されて、誤解してしまうことになります。
4. 対処方法を一方的に命じられることは「民主的」ではない
学校教育は西洋文明の都合に合わせた内容を教えています。そのため、封建的で、自由のない江戸時代を壊して、民主的な現代へと次第に変えてきたのだという歴史観を植え付けようとします。けれど、明治以降の国家は、かつての社会にあった、地域共同体を壊し、地域の人々に大きく許されていた決定権をはく奪したというのが事実です。このコロナ騒動においても、異論を主張することは許されず、マスコミや国、国際機関による指示に従うことしか許されていません。
本来であれば、上の1~3にあげたような情報を基に、もっと多面的に判断し、また実情に合わせて柔軟に対応することが必要なはずですが、その自由は事実上奪われています。
ツイッターの覗いてみると、多くの人々が、不安にかられて、政府やマスコミが誘導するままに、新型コロナを恐れ、厳重な対策をとれと主張しています。外出すると、マスクの着用率は上がる一方に感じられ、商店の対応も厳しくなっていっていると感じます。
こうした、事態は戦前の様相を思わせます。
『偽情報退散! マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』にあるように、戦前の主婦向け雑誌では、日米両国で、相手国からの侵略を恐れさせるような記事が掲載され、家庭から戦争へのみちならしが行われました。
コロナ騒動は、その当時から変わることのない世界の姿を示しているように思えます。マスコミは、真実を隠し、人々の不安を煽って世論を動かし、国家も国際機関も、特定勢力の都合に合わせて世界を変えていこうとしているようです。
そうでなければ、ここまで団結するはずがないのです。危険なのは、コロナウイルスではなく、騒動を作ろうとする人々の狙いに乗ってしまうことなのではないでしょうか。
ハマウドと洞門のある海岸
2020年6月21日(日曜日)、県南の海岸まで行ってきました。
同じ県内ではあるものの、外海に面した海岸であるうえに、ずいぶんと温暖な気候になっているため、目にする植物も大きく違っていました。
落葉広葉樹は目につかず、厚い葉を持つ常緑広葉樹や、乾燥に強い松、多肉植物のような植物が目立ちます。さらに目立つのは、吹き付ける風のためなのか、樹高を低くして張り付いたように生える樹木で構成された森です。まるでパーマ頭のように低い樹冠で覆われた山がありました。
海は外海なので、波が高く海水浴には向かないようですが、南米系らしい外国人たちは水着に着替えて、浅い場所まで海につかったり、テントを広げて楽しんだりしていました。
いったん海岸を離れて、山の中腹にある神社まで歩きました。このあたりまでくると、海岸沿いとは違って高い木も多くなっていましたが、相変わらず常緑広葉樹の多い森は、日の光がさえぎられていました。私が子供の頃からなじんでいた杉やヒノキ、落葉広葉樹の森と比べるとずっと暗く、縄文の昔にここに住んでいた人々を想像にしくいように感じました。
家に帰って調べてみたところ、日本史の考え方5「縄文時代における東西の違い」というページが見つかりました。人類学者・考古学者である小山修三氏の推定によると、縄文中期における日本の人口は西日本9500人に対し、東日本25万1800人で人口の95%以上が東日本に住んでいました。このような圧倒的な人口差の背景には、気候の温暖化によって、西日本には照葉樹林が広がったことがありました。東日本には落葉広葉樹林が広がり、明るいうえに、クリ、クルミ、トチなどの食料が多く、サケ・マスも豊富に存在していました。西日本は森が暗く住みにくかっただけでなく、こうした食料にも恵まれなかったのです。
長江下流域に住んでいた稲作民たち(倭人)が到来し始めたころの日本列島も、東高西低の状態が続いていたことでしょう。縄文末期から弥生時代にかけての日本で何が起きていたのかを推測するには、こうした森の違いを踏まえる必要があると改めて感じることになりました。
神社に参拝した後は、山を越えて海岸沿いに戻りました。道路わきに駐車場が作られた場所のそばから記念碑のある場所へと降りる階段がありました。ここを降りてみようということになり、下っていくと、記念碑からさらに階段は下っており、数十メートル下の海岸まで下りることができました。
海岸は、砂浜が広がった端のところが、今おりてきた崖になっており、巨岩が波に削られて、美しい光景を作りだしていました。青森の仏が浦など、こうした光景は各地にあるようですが、初体験でしたので印象深い体験になりました。
こうした場所に行くと、日本人は少なく外国人が多くなっています。一方、この近くの場所でも、車で乗り付けて食べ物を食べるような施設にいくと、たくさんの人たちが食事を楽しんでいて、その多くが日本人です。私は、金を使わない楽しみかたを外国人のほうがよく知っているのではないかと思います。
残念ながら、この日の午後にあったはずの部分日食についてはすっかり忘れていました。
赤とんぼ橋(国道22号線新名西橋)から庄内川を覗く
2020年5月29日、用事ででかけたついでに、国道22号線の新名西橋、別名赤とんぼ橋から庄内川を覗いてみたところ、岸辺に小魚が集まっていたので撮影してきました。
赤とんぼ橋(国道22号線新名西橋)から庄内川を覗く(2020年5月29日)
水面はるか上からスマホで撮影したため、はっきりとは映っていませんが、小魚が群れていた、ときどき何かに驚いてさっと動く様子が確認できます。小魚の群れは、ここから上流側へ20~30メートルほどの長さに渡って岸辺にできていました。調べてみましたが魚の種類を知ることができるような情報は見つかりませんでした。オイカワ、コイ、ウグイあたりのいずれかでしょうか。岸辺に残されている靴跡の大きさと比べてみると、体長5cmほどの魚のようです。
コイらしい大きな魚と、岸辺に群れた小魚のほかに、7~8匹くらいの集まって少し深い部分を泳ぐ中型の魚の群れがいくつかありました。これも魚の種類は不明です。
庄内川には下流に堰のような場所があるのでボラなどは上がってきているかどうかわかりません。もっと河口近くではシーバス釣りなども行われているようです。
生まれて初めて川にいるナマズを見ました
2020年5月17日、昼食後の腹ごなしに散歩に行ってきました。
家から少し歩くと、市街化調整区域があり、水田が広がっています。そんな中を新川の支流の水場川が流れています。水質が良いとはいえませんが、新川よりは小さい川なので、流れがはっきりとしていたり、新川と比べて整備が少し緩かったりして、幾分自然な感じがあります。
橋があったので、川の様子をのぞき込んでいると、少し上流で魚のたてる大きな水音がして浅い川の水面が波立ちました。長く伸びた草を踏み分けながら波立っていたあたりまで近づいて撮影したのが下の動画です。
動画には映っていませんが、大きなコイの周りを少し小さめのコイたちが取り囲んでいたために、小競り合いのようになって音が上がっていたようです。コイの産卵期は春から初夏にかけてというこのなので、水草もないような場所ですが、繁殖活動をしていたのでしょう。
鯉やカメの様子をしばらく見ているうちに、小さめのコイと同じくらいの大きさですが、少しやせて、動きの少ない魚がいることに気付きました。最初は病気でもしてやせたコイなのかと思っていましたが、どうやら他のコイよりも水底に近い場所にいて、水流にもほとんど影響を受けていないようでした。そこで、もしかしたら、ナマズなのだろうかと思いつきました。
家にかえって調べてみたところ、やはり水場川にはナマズが住んでいるようです。私が子供時代を過ごした山国ではナマズを見たことはありませんでしたから、この目で天然のナマズを見て感激でした。もう一匹、ナマズのような形をしていましたが、頭が大きく体長の短い魚も見かけました。こちらは外来種かもしれません。
帰り道では、家の近くではすっかり聞かなくなったカエルたちの声がたくさんしていました。そのうち、ヘビにもお目にかかれるかもしれません。その日を楽しみに、散歩を続けようかなと思っています。
「凶悪犯と同じようなメンタリティを持った人々が文明社会を作り上げた」と想定すべき
日本や世界で起きた凶悪犯罪に関する動画を作ってYoutubeに投稿している人たちがいます。チャンネルは特定しませんが、いくつもあるので、「尼崎事件」「埼玉 愛犬家」「山口母子殺人事件」などで検索すれば見つかります。気分のよいことではないですが、これらを初めとするいくつかの凶悪事件について動画を見ていただければと思います。
私は、これまであまりこうした事件について詳しく知らなかったのですが、いくつもの事件に関する動画を見ていくうちに、次第に思い浮かんできた考えがありました。それは、こうした事件を起こした犯人と似たようなメンタリティを持つ人々こそが、文明社会を作り上げてきたのではないかということです。
民主主義だとか、魂の進歩だという幻想を捨てて、いったん問題意識を持って文明社会の正体を探ろうとしてみると、この文明社会は悪意に基づいて構築されたものであることが見えてきます。私たちは文明の恩恵を享受していますが、その恩恵は、この悪意にとって利益となる範囲においてだけ与えられています。
たとえば、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所という3段階が用意されている司法制度は、最高裁の裁判官として任命される人物、つまり出世させる裁判官を、文明を作りあげた凶悪犯たちに反抗しない者だけに限るようにするための仕組みであると見ることができます。
国という枠組みはあっても、凶悪犯たちの整備した国際機関をその上位において、国際機関によって定められた規範を守らざるを得なくしておけば国家は意味をなくします。
明治や戦後につくられた様々な法律は、環境の保護や地方自治を優先するのではなく、凶悪犯たちの経済活動を促進するように定められています。そうして生じた不都合のしりぬぐいは広く庶民に押し付けられます。
そのようなありとあらゆる工夫が文明社会には施されているということが、この視点をいったん手にいれると次々と見えてくるのです。
多くの人は、かつての私がそうであったように、そんなはずはないと考えたくなるでしょう。そうしたときに、最初にあげたような凶悪な事件を起こした犯人たちを思い返して欲しいのです。
ジョン=レノンは「The world is dominated by madman(世界は狂人によって支配されている)」といいました。このmadmanを具体的に想像するのに最適なのが、凶悪犯罪の犯人たちです。もちろん、ぴったり同じであるとはいいませんが、重なる部分は極めて大きいと思われます。他者を自らの歪んだ欲望を満たすための道具にすぎないと考えている人たちが、自分たちの利益のために文明社会を作り上げた。人類史とは、こうしたメンタリティを持った人たちの影響力が強まっていく一方の歴史なのではないでしょうか。そして、特に、ルネッサンスの頃に影響力を強め始めた一派が、地球全体を覆ったのが現代であるということができそうに私は思います。
人が定住できるようになったことが、現在私たちが直面している苦難の始まりだったのか?
人類史の中で何を最も重要な出来事であったのかと問われたら、言語能力の獲得であると答えることができるだろう。
他の動物たちも、警告を伝えたり、仲間を読んだりといった程度のメッセージを音声やジェスチャーによって伝えることはできるが、具体的な詳細を伝えたり、抽象的な概念を説明したりすることはできない。このような能力を持つ言語を使うことができる人類であるからこそ、複雑な工作を行ったり、技術を伝達したり、将来の計画について示したりすることができ、それ故に、大型漁具を使って魚をとったり、長い計画的な行動を重ねて作物を育てたりすることができるのである。つまり、このような言語能力がなければ、人は、他の大型霊長類たちと同じように、主に食べ物を求めて遊動しながら、自然界から得たものだけを利用して暮らしていたはずなのだ。
今からおよそ1万2千年前、一部の人は大型漁具や舟を作ることで水辺に定住する生活を開始した。そうして定住しているうちに、利用価値の高い植物を身近な場所に栽培する形で農耕が始まった。定住して農耕を開始した社会では、労働力を投下することで、より多くの価値を得ることができる環境が生まれ、大型漁具の持ち主や舟の持ち主、より多くの土地を耕した者たちなどが、他者を支配できる状況が生まれていった。保存可能な食品、特に穀物は、労働力の価値を高めることになった。
他方では、それまで通り、遊動生活を続けていた狩猟採集者たちがいて、制度や儀礼が未発達な平等性の高い社会に暮らしていた。彼らは、農耕民と関りあいながら、数を減らしつつ、今でもまだこの地球上に残っている。
さて、農耕民に戻ろう。農耕民たちは、土地を耕し、技術を開発して、人工的な環境を広げていった。少しずつ人は増えていき、少しずつ耕地が拡大され、道が作られ、町が作られていった。そうして、その影響によって狩猟採取によって暮らすことのできる場場所は急激に減っていった。
農耕民たちは、やがて、狩猟採集者たちのように自然界で暮らす知識を失い、自然界の厳しさに立ち向かうだけの強さもなくしながら、土地に縛り付けられていった。それが弱みとなって支配者のいいなりになっていったのだ。
そこで活躍し始めたのが、サイコパスたちである。サイコパスたちは、連続殺人者たちと似た、冷酷でありながら、演技力に優れた性質を持つ。連続殺人者たちとの違いは、もっと賢く立ち回って、へまを打たないことである。サイコパスたちは、人々を人工環境に取り込み、そこに依存するしかない状態にしておいて、さまざまな手法によって、自分たちの利益になるように社会制度を作り上げていったのである。
貨幣という仕組みを考案し、法人という概念を作り、三権分立というまやかしを広め、中央銀行を作り…
今や、あらゆる国家は企業の下位に位置付けられてしまった。あらゆる共同体は企業活動によってのっとられてしまった。すべての人は、生活の糧を得るためには、こうした社会の中でコマとなって利用されるしかなくなってしまった。メディアもすべてサイコパスたちの意思に沿った情報ばかりを流すようになってしまった。
サイコパスたちは、人々に幻想を見させることで、さまざまな技術を開発させ、彼ら望む経済活動させており、多くの人々はそうした幻想を信じ込んでいる自分こそが、知的で分別があり、適切な生き方を選んだ人間であると思い込んでいる。
霊長類たちの暮らし方と似た遊動する狩猟採集社会において人は平等であり、資源は共有であり、人は本当の意味で主権者だった。社会制度も儀礼も未発達であることは、サイコパスたちの活躍する余地がないことを示していた。
漁具や耕地の持ち主とは桁ちがいの権力を持つサイコパス達に支配されて、しかし、この人工環境から抜け出す手立てなどいっさいない文明人は、サイコパスたちの見せてくれる幻想を信じていきるしかないのだろうか。
もしも、人類が言語能力をなくしたならば、この悪夢から解放されることは間違いないのだが。
昼寝にもってこいの日 2020年4月25日
昼ごはんの後、散歩をしてきました。
できるだけ手入れのされていない自然のある場所を探して歩き、水田の間を流れてきた水が新川に流れ込む場所にある、排水機場の脇の土手を選びました。
水鳥たちが集まっていましたが私の出現に驚いて飛び去ってしまい、2羽のカモだけが残りました。土手の草むらに隠れていたスズメたちも飛んでいってしまいました。
浅い水の中を大きなコイ3匹が泳いできてまた泳ぎ去り、対岸の菜の花の間を時折チョウが飛びます。
ずっと続いているのは、近くで工事でもしているのか、機械の音。
目の前の流れは、新川にそそぐ手前でせせらぎとなっていて、音だけ聞いていれば、清流の快感を与えてくれます。道路の下をくぐった先で新川に合流していますが、そこにはいつもたくさんの鳥たちが集まっていて、今日も、鳥たちの争う声が時折聞こえてきていました。
汚く濁った水とはいえ、岸辺の泥の中には、それでも何かエサになる生き物がいるらしく、そんな泥をつつく鳥の姿もありました。
すぐ後ろの歩道を自転車に乗った家族が楽しそうに通りすぎていくのも、良く晴れた今日にふさわしい情景であったことでしょう。
春の温かい日差しも手伝って、土手に寝転んで昼寝をしたいと思えるような時間でした。
江戸時代以降の社会の変化を調べてみると、一番大きな変化は、自然が失われていったことなのではないかと思えてきます。
田舎で暮らしていたときは、へビもカエルも当たり前にいましたが、今住んでいる場所では、まったく見かけません。もともといなかったのではなく、川に近いこの場所には、当たり前のようにたくさんのヘビやカエルが住んでいたはずです。それが、いつの間にかいなくなってしまいました。
ヘビやカエルがいなくなるとともに、人はヘビやカエルのことを気にしなくなり、水の汚れにも無頓着になって、鳥の声や水の流れる音を聞きながら過ごす当たり前にあった時間を失ってしまい、それに伴って、暮らしの大部分をむなしさが覆うようになったのではないでしょうか。
命にとって大切なのは、水の音や鳥の声、風の匂い。そんなものだけなのではないでしょうか。