毎日出てゐる青い空

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ハマウドと洞門のある海岸

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2020年6月21日(日曜日)、県南の海岸まで行ってきました。

同じ県内ではあるものの、外海に面した海岸であるうえに、ずいぶんと温暖な気候になっているため、目にする植物も大きく違っていました。

落葉広葉樹は目につかず、厚い葉を持つ常緑広葉樹や、乾燥に強い松、多肉植物のような植物が目立ちます。さらに目立つのは、吹き付ける風のためなのか、樹高を低くして張り付いたように生える樹木で構成された森です。まるでパーマ頭のように低い樹冠で覆われた山がありました。

海は外海なので、波が高く海水浴には向かないようですが、南米系らしい外国人たちは水着に着替えて、浅い場所まで海につかったり、テントを広げて楽しんだりしていました。

いったん海岸を離れて、山の中腹にある神社まで歩きました。このあたりまでくると、海岸沿いとは違って高い木も多くなっていましたが、相変わらず常緑広葉樹の多い森は、日の光がさえぎられていました。私が子供の頃からなじんでいた杉やヒノキ、落葉広葉樹の森と比べるとずっと暗く、縄文の昔にここに住んでいた人々を想像にしくいように感じました。

家に帰って調べてみたところ、日本史の考え方5「縄文時代における東西の違い」というページが見つかりました。人類学者・考古学者である小山修三氏の推定によると、縄文中期における日本の人口は西日本9500人に対し、東日本25万1800人で人口の95%以上が東日本に住んでいました。このような圧倒的な人口差の背景には、気候の温暖化によって、西日本には照葉樹林が広がったことがありました。東日本には落葉広葉樹林が広がり、明るいうえに、クリ、クルミ、トチなどの食料が多く、サケ・マスも豊富に存在していました。西日本は森が暗く住みにくかっただけでなく、こうした食料にも恵まれなかったのです。

長江下流域に住んでいた稲作民たち(倭人)が到来し始めたころの日本列島も、東高西低の状態が続いていたことでしょう。縄文末期から弥生時代にかけての日本で何が起きていたのかを推測するには、こうした森の違いを踏まえる必要があると改めて感じることになりました。

神社に参拝した後は、山を越えて海岸沿いに戻りました。道路わきに駐車場が作られた場所のそばから記念碑のある場所へと降りる階段がありました。ここを降りてみようということになり、下っていくと、記念碑からさらに階段は下っており、数十メートル下の海岸まで下りることができました。

 

海岸は、砂浜が広がった端のところが、今おりてきた崖になっており、巨岩が波に削られて、美しい光景を作りだしていました。青森の仏が浦など、こうした光景は各地にあるようですが、初体験でしたので印象深い体験になりました。

 

こうした場所に行くと、日本人は少なく外国人が多くなっています。一方、この近くの場所でも、車で乗り付けて食べ物を食べるような施設にいくと、たくさんの人たちが食事を楽しんでいて、その多くが日本人です。私は、金を使わない楽しみかたを外国人のほうがよく知っているのではないかと思います。

 

残念ながら、この日の午後にあったはずの部分日食についてはすっかり忘れていました。

 

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