毎日出てゐる青い空

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わずかな国が世界を占領していた戦前の地図が、現実の姿である

「世界は少数の支配者たちによって支配されている」という言葉は突拍子もないウソのように思えるかもしれない。しかし、帝国主義の数か国が世界を支配していた頃の地図を見れば、それが事実であったということがわかる。

 

日本の主権について真剣に考えたことがある者であれば、日本がアメリカのいいなりになっていることを痛切に感じ、しかし、敗戦国であるという歴史がもたらした日本の特殊事情がこのような主権を制限されたような状況を生んでしまっていると判断して、他の国々はもっとしっかりとした主権を持っていると考えてしまうことだろう。

 

実際には、戦前の植民地各国の状況は日本と変わるところはない。旧宗主国に不平等な条件を押し付けられたうえでの独立であり、旧宗主国の息のかかった政治家によって政治が行われている。

 

中国やロシアは違うだろうというのも間違いである。これらの国々の成立過程において、資金提供を行った人々が存在しており、そうした人々の影響力が続いているはずである。その点で、日本の明治維新は、中華人民共和国の成立やソ連の成立と通じるものがある。

 

法が守るのは、国家の主権や市民の権利ではなく、支配者たちの活動である。邪魔な政治家を独裁者と決めつけて排除しても罰せられることはなく、父祖から伝わる土地を守ろうとした先住民たちが殺されても、開発が止められることはない。

 

こういう世界に私たちは生きている。

 

 

マスコミが戦争を作ったことを忘れてはいけない

マスコミがコロナ騒動を作り、それを利用して危険な薬物を多くの人々の体内に注入させたことを忘れてはいけない。

検索エンジンも動画サイトも共犯者であったことを忘れてはいけない。

 

支配者の本性は古代から変わってなどいない。

 

自由な動物として生きる「未開人」は、支配者にとって無価値である。未開人は支配者に富をもたらさない。

 

人工環境という少し安全で快適な環境を提供することで、支配者は民をつなぎとめる。しかし、自由をなくした民に、「自然な」幸せは訪れない。

 

支配者の命じるところに従って労働にいそしみ、できるだけ多くの富を差し出すことによってのみ、生存を許される「家畜」となるのである。

 

コロナ騒動は、支配者たちの正体をほとんどあからさまにした。

けれど、まだ民は家畜であるほうを選ぼうとする。「自然」な厳しい生き方よりも、家畜として人工環境の中で生かされることのほうが、野獣や寄生虫や病原菌にさらされたり、気象や気候の影響を直接的に受けたりする「自然」な生き方よりもずっとましだからである。

 

しかし、人工環境に生きることは、無慈悲な支配者たちの作る世界に生かされる家畜として生きることでしかない。

 

支配者たちが所有するマスコミやネットの流す情報によって行動を制限された中で、不「自然」な努力を強いられて、かつての奴隷や中世ヨーロッパの貧しい農民と同じように、ぎりぎりのところまで利用されるというわけである。

 

私たちは生物であり、利己性のほうが利他性よりも勝らなければ子孫を残せない宿命を負っている。そうした生物が、言語能力を発達させ、言語が人工環境を作りあげ、人の生に対する人工環境への依存が高まることで、富を蓄えた者が、人工環境の所有者となり、すなわち人々を家畜にする用意が整った。

 

民は人工環境を象徴するところの「マネー」を得るために、支配者たちの提供する法律、インフラ、金融システム、情報を使って活動し、支配者たちをさらに富ませることになる。

 

コロナ騒動もウクライナ戦争も、地球温暖化詐欺も、SDGsもみな、上記の世界で起きている。

 

政治活動も、宗教活動も、サイエンスも、支配を逃れる術にはならず、人工環境への束縛を高めるだけである。

 

利己的な存在である私たちにとって、言語能力の発達は、人工環境という快適に見えて最終的には家畜として生きることしかできなくなる世界の幕開けでしかなかったのである。

 

マスコミは支配者たちの道具であり、戦争を作ること、コロナ騒動を使って家畜の管理を強めること、支配者の利益につながる価値観を広めることしかできない。

 

人間は幸せにならないようにできている

Yahooニュースを見ていたら、清水ミチコの記事に面白いことが書かれていた。

 

https://news.yahoo.co.jp/articles/72b0cd621c237cd2697dd10aa1134029701b5f23?page=2

ガムのように噛み続ける「人間は幸せにならないようにできている」という言葉

 

この話と関係するのかどうかわからないが、人の本来のあり方を考えてみると、人も含め、生命は、幸せにならないのが当たり前なんだなという結論に行き着く。

 

生命の自然な状態というのは、他の生命とせめぎあい、他の生命を資源としながら、運が良ければ子孫を残すが、基本的に短命であり、幸せであるように思えても、不幸が待ち構えている状態である。

 

この100年ほどの間に、人は乳幼児死亡率をうんと低下させ、老年期になる前に命を落とす人も随分減って、信じられないほど平均寿命が延びた。ただ、これは、生命のあり方としては不自然であり、この先長く続くとは到底信じられない状況である。人類の平均寿命は縄文時代も江戸時代もさほど変わらず、チンパンジーやゴリラであっても、大差ないような状況が続いていた。

 

この部分を除けば、子を亡くす親も珍しくなければ、夫婦のどちらかが若くして亡くなり、再婚相手を迎えるような状況も多かったはずである。70歳を超えるまで生きる人も少なく、生命は、自然な状態であれば、多くの不幸に囲まれており、幸せにならないようにできているといってよいだろう。

 

生命は幸せにならないようにできている。けれど生命は、その事実に頓着せずに進んでいく。

 

「自然」な生き方

動物にとっての自然ということは

・よく遊んで、体の能力を高める

・好奇心旺盛に生きて、生存能力を上げる

・体に備わった能力によって病原菌や害虫に抵抗する

・多様な生物に囲まれて生きる

・ピラミッド型の年齢分布ができる

・老年期に達する前に死ぬ

・労働はない

 

人も動物ではあるが、その生き方は上に述べたような自然なあり方から次第に離れてきた。火を使い、煮炊きすることや、道具を使い、家や衣服を利用することは、肉体を次第に弱めていった。けれど、人の生き方が基本的に他の動物たちと同様であり続けていたことは、狩猟採集者たちの生き方が教えてくれる。

 

狩猟採集者たちは、遊動生活を送り、その都合上、多くの物を所有することはできず、巨大権力も生まれない。そうした社会にあっては、人の暮らしは、他の動物たちと似たものである。もっとも典型的な生き方は、ブッシュマン(グウィ・コイサンマン)らの生き方である。それは、他の動物たちが、厳しい自然の中でも、日々を気ままに生きているのとまったく同じように、気ままな生き方である。『サバンナの動物親子に学ぶ』(羽仁 進)にあるように、死と隣り合わせでありながら、軽やかな生の世界である。

 

人は、つい最近まで、そうした自然な生き方を送ることができていた。けれど、1万2千年前に定住化し、農耕を生み出したことが、人の世界を不自然な世界に変え、人はその不自然さに苦しむことになった。農耕は権力者を作り、権力者の支配する社会に属することによってしか生存の基盤を得られなくなった。文明社会は利便性を提供する一方で、より不自然な生き方を要求する。文明社会の宗教は、そうした人々の苦しみに付け込み、幻想を植え付けて、人々を文明に縛り付けていく。

 

自然な世界は人にとって不都合な世界である。腹が減ったからといってすぐに食べ物が手に入ることもなければ、夜の暗闇を照らす光もない。危険な生き物が身近にいて、肉を得るにも危険が伴う。暑さや寒さを和らげるにも限度がある。

 

けれど、そうした利便性に騙されて文明社会に属してしまうと、人は、生きる基盤を他人に奪われた奴隷になってしまう。

 

その結果

・メディアは支配者たちの都合に合わせたニュースを流し

・教育は侵略者たちを先進文明であると礼讃し

・経済学はでたらめを権威付けし

・たくさんの抽象概念が作られて事実を隠していく

 

フーリガンを生みだすような文明が、紳士であり

経済最優先の企業が環境保護に積極的であると称し

民主的であるはずの国が生み出したサービスが言論を弾圧する

 

定住の開始以来、人工環境を拡大してきた人類は、支配者の影響力を強めてきた一方であり、その最終局面が、コロナ騒動やマイナンバーカードの今である。

 

明るい未来などなく、不自然な生が作り出す苦しみだけが待っている。

 

 

 

去勢していないオス猫の欲望は半端ない

兄弟猫だから仲良くするだろうなどというのは大間違いだ。

互いを敵視し、毛を散らして戦う。

縄張り争いなのか、頻繁に尿をスプレーし、家中くさくてたまらない。

 

雌猫を探しに遠出をしようと、2階の窓から道路に飛び降りたときはさすがに痛かったらしいが、けがをしてはれ上がった前足を使って、カーテンと桟の間を移動して抜け出そうとしたのにも恐れ入った。

 

とにもかくにも、オスとして生きるということは、メスを得る衝動に突き動かされて、乱暴に、凶暴に、力強く、無計画に行動することなのだと、オス猫たちは見せつけてくれた。

 

私たちが、従順に生き、経済活動にいそしむ姿と何と違うことか。彼らこそが、生きている。腹が減ったとか、暑いとか、寒いとか。そんな欲求よりも、オスとしての本能が勝っている。

 

こんなオス猫たちも、去勢手術を経てすっかりおとなしくなった。

 

以前ならあり得ないことだが、同じソファーに並んで寝ていたり、鼻を合わせて挨拶をかわそうとしたりしている。正確が温和になって、殺気立つことがなくなった。お陰でずいぶんと飼いやすくはなっている。

 

メス猫は発情を迎えるとオス猫を呼んで数日間鳴きまくるため、これも避妊手術をしてしまわないと、とても室内飼いになどできない。

 

こうした猫の様子を見ていると、収入を得るために日々働き、おとなしく規則を受け入れている私たちの現在の状況というのは、あまりにも不自然であるとしか私には思えない。

 

おそらくは私たちのも去勢/避妊前の猫たちと同じように命に突き動かされている。けれど、その自然な状態は、私たちの生きる世界では隠すべきものとされて、去勢/避妊された猫たちのような従順さ/扱いやすさが要求される。宗教は、おもに人を従順にさせるために作られたのではないだろうか。

 

動物たちにしても、ある程度のルールはあり、日々を円滑に過ごすためには、あまりに勝手な行動を繰り返すわけにはいかない。しかし、私たちの暮らしとは違い、基本は、命に動かされる自然な状態を維持していくことができている。

 

私たちは文明が熟するほどに命に従う自然な状態から遠ざけられているとしか私には思えないのだ。人は自由をなくし、地域は自治をなくし、国家は主権をなくし、不自然なウソばかりがまかり通る。

 

抽象概念を積み重ねて語られるような理想は、自然な状態からの乖離をひどくして人を追い詰めるばかりであり、民を従順にして利用しやすくする支配者たちの息がかかった言葉でしかないのである。

 

 

「パラサイト 半地下の家族」は西洋文明(世界システム)に支配されるアジアの現在地を描く

久しぶりに映画を見たいと思っていたところ、ネットカフェで韓国映画「パラサイト 半地下の家族」を見ることができました。

 

半地下のアパートに住む中年の両親と青年期にある息子・娘の家族4人が皆失業し、貧しい暮らしを送る中、家庭教師の口を得ていた友人が留学するとのことで、息子を後任として推薦してもらえることになりました。息子は入試浪人中であるものの学生証を偽造して、高級住宅地にある、若い高所得一家の高校生の娘の家庭教師として採用されることになりました。この家は有名な韓国人建築家が自ら設計し住んでいた家で、いかにも西洋趣味の作りになっており、一面ガラスの大きな開口部が芝生の庭に面しています。日本各地の一級商業地に建てられるブランド店の入居するビルと同じ美意識です。主人夫婦は少し金持ちという程度ではなく、高級住宅地に広大な敷地の家を所有できるほどの裕福さであり、年齢も比較的若いようです。就職難の韓国で高給を得るために必要なものが「英語」であることが、夫人の会話に何度も不自然に挟まれる英語や、さまざまな人の優秀さを示すために米国での留学や仕事の経験が語られることによって示されています。

 

息子が就職口を得た一家は、策略を使い、他人同士のふりをしながら、この若い成功者の家に家政婦(母)、運転手(父)、主人一家の息子を教える絵画療法の先生(娘)として職を得ます。ここでもベンツが強調されて、私たちが暮らすのは、西洋基準の文明の中であることが示されています。

 

こうしてうまく職にありついたかのように見える一家でしたが、半地下の家に沁みついた嫌な匂が、成功者である若夫婦にとって、許容しがたいものとして強い嫌悪感をもって語られ、貧しさ故にそうした匂をしみこませた運転手である父から、主人に対する憎しみが大きくなっていく様子が描写されています。

 

韓国社会の貧困の状況が、次第に深刻さを増してもう個人の力では対処できないものであることを象徴するように、一家の住む半地下の家にある日大雨の影響で水が流れ込み、場面が変わるごとに水かさが増していき、荷物を持ち出そうと奮闘する父親は、最後には、ほとんど首近くまで水に没してしまいます。

 

一方成功者であるはずの夫婦も、決して幸せではないことを象徴するように、急遽開くことになった夫婦の息子の誕生日パーティに、突然にもかかわらず多くの若い成功者仲間が(おそらくは予定を中止して)集い、プレゼントや歌で見栄をはり、そつなく社交を演じる様子に、家庭教師としてパーティに招かれながらも集団に加わることができない息子が、自分には彼らのように振る舞うことはできないと語る場面が挟まれています。招待客が運転してくる車にももちろん外車が選ばれています。

 

ネタバレになりますが、この大邸宅は、殺人事件により主を失います。韓国社会での成功者と、貧しさにあえぐ人々の上に、西洋社会が君臨していることを示すように、その後の住人としては、ドイツ人が設定されています。西洋的な美意識で設計された家に暮らす西洋人という、しっくりした暮らしぶりが少しだけ映されています。

 

こうして、西洋から始まった経済一体化という世界システムに飲み込まれていく世界という視点と重ね合わせながらこの映画を見ると、この映画には、自由や民主主義を旗印としてながら広められた世界システムが、現実にはカネの力で自由を奪い、貧富の格差を拡大しつつ、奴隷制や植民地支配と同じく、優位性を背景とした不平等な取引を通じて、世界が西洋化されていく過程の中の一場面が描かれていることがわかってきます。人々は西洋的属性を強めるために過酷な競争を求められ、それに負ければ地底の貧困に落ち、勝っても安らぎは得られず、アジア人には暮らしにくい世界が作られていきます。

悪と正義を意図的に描き分けて戦争へと導く

ウクライナ情勢と東チモール独立運動は事実上、同じ出来事である。

 

現地で実際に起きていることは、

資本家の後ろ盾を受けた勢力が、

独立運動を起こしているという事象であったとしよう。

 

これを正当な独立運動として描くのか、

不当な反政府活動であるとして描くのかは、

マスコミと独立運動の両方に資金を提供している人々の都合によって決まる。

 

東チモールのように独立をさせたい場合には、

全世界的に正当な独立運動として報じられる。

 

ウクライナのように紛争を作り出したいときには、

どちらか一方の勢力に偏った2種類の情報を流すことになるのである。

そして人々は正義と悪が対立していると信じ込み、

正義のための戦争に賛同していくことになってしまう。

 

こうして、言葉を使うことで、戦争が作られ、国際金融資本がその戦争を利用して

社会を作り替え、金を儲けることで、現代の歴史が作られてきたのである。

 

 

 

 

 

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