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「トウチャン一家と13年―わがアマゾン (朝日ノンフィクション) 」を通じて知る「法」「生計」

トウチャン一家と13年―わがアマゾン (朝日ノンフィクション)』は、『アフリカを知る事典』に記された狩猟採集者の特徴や、『人類史のなかの定住革命』に記された定住しないことの利点を具体的に知ることのできる良書だ。

 

アマゾンのマチゲンガ族は、サゴヤシを育てるとはいえ、都合に合わせて住処を移す生活を送っているため、遊動する狩猟採集者たちに近い特長を備えている。

 

強制力を持つ首長はおらず、儀礼も未発達である。

 

彼らは持ち物は少なく貧しいが、時間と空間は豊富に持っている。そして、この二つの資源を問題解決のために有効活用している。

 

つまり、対人関係で問題が生じた時には、その場を立ち去り、家を移して、長期間出会わなくすることで、問題を風化させていくのだ。

 

実は、動物たちも含めて、問題を解決する最良の手法は、この方法なのだと私は知った。文明社会では、言葉を尽くし、議論を戦わせて、最終的には「法」によって問題を解決することになっている。しかし、その手法は、最低の手法でしかない。理論はどんな形にでも曲げることができ、法は資金力のある側にとって有利になるように作られているからだ。法による解決は勝者を固定してしまう。

 

法の不都合を示す別の事例は、一夫多妻制のありかただ。マチゲンガ族の生活は、女性にかかる負荷が高いため、女手は多いほうがありがたい。そのため、一夫多妻を女性側も歓迎することになる。

 

こうした世界を知ると、一妻一夫に限定されていることに違和感が生じる。もっと柔軟であっていいはずなのだ。私たちが複数の配偶者を持てば重婚の罪に問われることになる。しかし、複数の妻子を養う財力さえあれば事実上の一夫多妻制は可能である。こうしてみると、法によって制限されるのは庶民だけであることが見えてくるのである。

 

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マチゲンガ族は、自らの力で自然界から必要なものを得ることができる。しかも、大人になりきる前の年齢のうちに、そうした知恵を身に付ける。そのため、たとえば娘が、父親の決めた結婚相手を受け入れられない場合、娘はジャングルに逃げ込んでしまえばよいことになる。

 

そうしたあり方と比べて私たちが置かれている状況は、長期間に渡って教育を受けた上で、逃げ場もない環境に身を投じてようやく次世代を育むことが可能になるという収容所のような状況である。

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警察も裁判所も軍隊もない社会で人々はどのようにして秩序を維持しているのか。そのためにはどのような条件が必要なのか。それを推測するのに恰好の資料になるのが、この本なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

虚実 人は命であり、命は火である

神は虚構であり、命が実態だ。

 

理想は虚構であり、命が実態だ。

 

友情は虚構であり、命が実態だ。

 

母性は虚構であり、命が実態だ。

 

誕生の仕組みは解明されていないが、

はるか昔に命が生まれ、

命が環境を変えた。

ただ、子孫をつなぐことのできる生き方をしたかどうかだけが実であり、

神や理想や友情や母性が命をつないだわけではない。

 

 

人間社会をよく見れば、

まさに命がこの社会を作り上げていることがわかる。

 

 

命が放射能の影響を否定する言葉をしゃべらせ、

命が戦争を金儲けの道具にし、

命が巨大なビルを建て、

命が見えをはり、

命が人を排除する。

 

私たちは命として存在しているのであり、

神に似せて作られたのでもなければ、

命の法則を変えることのできる存在でもない。

 

命が、言葉を持ち、命が科学技術を進歩させ、命が経済活動に邁進する。

 

それは、ちょうど火のようだ。

 

言葉を持つ以前の命は、くすぶり続けることしかできない火のようにちいさかった。

それぞれに勢力の拡大、子孫の繁栄に邁進しても、限界の大きさが、命の火を安全なサイズに保っていた。まかり間違っても、大火となって世界を焼きつくすことはなかった。

 

言葉を手に入れたことで、命は、大きな力を得た。命は暴れ、火災旋風を巻き起こし、すべてを焼き払おうとしている。

 

人は神を信じ、理性を信じ、理想を信じることで、火に油を注いでいる。

言葉はいらない

親と子であることも

オスとメスであることも

猫と人であることも

知らないままで

猫たちは秩序を作る。

 

オス猫同士は兄弟なのだが

いまはライバルとして時にケンカをする。

 

しかし、四六時中いがみ合うのではなく、

ほとんどの時間は平安である。

 

兄弟猫の一匹と、押しかけ飼い猫の雌猫は、

教えたわけでもないのにツガイを作る。

メスはときに乱暴に扱われながらも

二匹でくっついて寝ている。

 

私たちと猫たちの間柄も

ご都合主義のようにしてできあがっており、

猫たちは猫たちの都合で甘えてきたり、無視したりする。

 

 

こうした言葉のない世界を一方の端に置き、

言葉によってがんじがらめになった文明社会をもう一方に置く、

 

その間にあるのが、ピダハンやブッシュマンの生きる社会である。

 

ピダハンやブッシュマンには文字はなく、

裁判所もない。

 

言葉によって決められていくことよりも、

事実関係によって決まっていくことのほうが多い。

 

理念や理想ではなく、

現実に即して対処していく。

 

大きな数字を必要とせず、

複雑な抽象概念も少ない。

 

言葉による情報量が少ないほど

本来の命の世界があり、

逆に行くほどに、

言葉が作りだしたウソの世界がある、

 

言葉が作り出す世界は、

あいまいで流動的な現実を枠組みにはめ込んでいく世界である。

その結果、あいまいで流動的な存在である私たちは

言葉に依存すればするほど命から離れていく。

 

 

権利や義務、倫理、経済、進歩などという言葉を生むにつれ、

不自由になっていく。

 

 

言葉を優先してはいけない。 

 

 

 

廃材天国/徒歩でしか行けない集落

お勧めのYoutube動画を2本紹介します。

 

廃材天国

 

五右衛門風呂

ロープ遊び

一輪車の車

子どもが手作りするおもちゃ

 

私が子どもだった頃の暮らしを思い出します。

 

徒歩でしか行けない集落 小谷村真木

 

30年前に一度は廃村になった後、共働学舎の人たちが半自給自足で暮らすようになった集落です。

 

こうした暮らしは私が子どもだったころの田舎の暮らしを思い出させます。先日法要で帰ったとき、義理の叔父が「昔は貧しかったけれど皆が貧しくて幸せだった。今の子はかわいそうだ」と言っていました。私もつくづくそう思います。

 

 

 

 

 

富を求めるエゴイストたちは、人を経済活動へと駆り立てる仕組みを作りました。

税金を納めさせ、医療や教育に金をかけさせ、格差を作り、「お金持ちになりたい」と思わせる情報を流しました。

 

工場排水や、合成洗剤で濁った川や、大規模な工場を作るためにコンクリートで固められて死んだ大地や、資源を採掘するために掘られた巨大な穴については、意識を向けさせないで、経済活動の恩恵にばかり目を向けさせることで、人々は、今の暮らしが何を犠牲にして成りなっているのを考えなくなりました。

 

 

ドライブ、旅行、ファッション、映画、ショッピング、パチンコといった娯楽を楽しみながら、この暮らしは、私たち自身が求めた暮らしなのだとほとんどの人は考えていることでしょう。

 

でも、少し考えてみてください。日本という国の進路について、私たちが私たち自身で選んだものなんて本当にあるのでしょうか。なぜかしらないけれど新聞テレビが騒ぎ始め、うやむやのうちに決まっていくことばかりではないでしょうか。

 

実際にそうなのです。私たちは、私たちがどんな存在であるのかをじっくり考える閑もないままに、学校で価値観を植え付けられ、新聞テレビによってふりまかれる話題にのせられて経済活動を続け、「社会の変化」に取り残されないように安心できる場所を求めて生きるばかりで、社会の方向性を決めることなどまるでできないのです。

 

 

なぜ、そうなるのか。それは、人類の歴史が、学校で教えるような国民主権とも、奴隷解放とも無縁の歴史であるからです。

 

 

生物であるかぎりエゴイストであることは避けられません。そんなエゴイストが肉体の限界を超えて移動したり、他の個体を制御したりできる力を手に入れたなら、どうなるでしょうか。ほんの少数のエゴイストたちが自分たちの都合のよいように他の個体を動かすことになるでしょう。

 

それこそが、文明社会なのです。

 

人々のあらゆる活動が一握りのエゴイストの富へと転化するように文明社会はでき上がっています。資源を独占し、技術を独占し、情報を独占し、制度を作り上げています。文明社会で支配される者として生き残るために人は学歴を求め、地位を求め、富を求めます。そうしないことを選べば、格差社会の底辺に追いやられていき、活路が失われます。

 

私と妻が今の場所に越してきたとき、大きな庭に古い木々の茂る感じのよい家や、たくさんの果樹の植えられた素敵な空き地がありました。今そこには、ファミマができ、マクドナルドができ、賃貸アパートができました。

 

おそらく、固定資産税や相続税のために決断したのでしょう。足るを知る生活を続けたくても制度がそうさせてくれないのです。そして、留意しなくてはいけないのは、そうした制度を作りあげたのが、一握りのエゴイストたちだという事実です。

 

文明社会は私たちのものではなく、一握りのエゴイストたちのものです。現代社会の仕組みを分析していけばそれがわかります。彼らに力を与えたのは、大規模化した社会ででした。ならば、社会の規模を小さくすることで、私たちは支配を脱することができるのです。

 

 

 

 

 

飢えて死ぬものがいるとしても、

飢えて死ぬものがいるとしても、

森を切り開かねば命を救えないのなら、

森を守ることを選べ。

 

森を切り開くことを選べば、

やがて森はなくなり、

空気は乾き、

土は舞い、流れ去り、

命を育む場所はなくなる。

 

殺虫剤を撒き

除草剤を撒き

除菌していけば、

私たちの体は不調を訴え始める。

 

それは、私たちが雑菌のない場所には

住めない存在だから。

 

 

なぜあなたは山に登るのか。

 

山に登るときのつらさや危険は、

生物が生物として存在するために

必要な厳しさだからだ。

 

厳しい中で生きることでしか

生物は生物として存在し続けられないのだ。

 

 

放送局や学校の中は、

こうした現実を無視した

絵空事にあふれている。

 

 

 

 

 

 

 

生命の姿を知って(欲望の水準を下げる)

『葉っぱのフレディー』という有名な本がある。

  春に生まれた葉っぱのフレディが、自分という存在に気づき、成長し、「葉っぱに生まれてよかったな」と思い、「葉っぱの仕事」を終えて冬に土へとかえっていくまでの物語。

   死を怖がるフレディに親友のダニエルが答える。「変化するって自然な事なんだ…死ぬというのも 変わることの1つなのだよ」。フレディの番が来て、地面に降りたとき、初めて自分の命を作った木の全体の姿を見て、そこに永遠の命を感じる。そして、フレディ自身は知らなくても、やがて土にかえり木を育てる力になる――。

 「生まれること」「変化すること」が「永遠の命」へとつながる意味を、フレディとダニエルの会話を通してわかりやすく語りかけている。写真だけでは硬くなりがちのところを、ページをめくるごとにフレディの変化していく様子が、にじみのあるやわらかさで描かれ、バランスをとっている。著者はアメリカの著名な哲学者。子どもから大人まで、すべての年齢層向けの絵本。(加久田秀子)

 私はまだ読んでいない。

 

葉っぱは、仕事を終えて冬になって土へと帰っていくことになっている。でも、私たちの生命の世界はもっとずっと厳しい。

 

たくさん卵を産む魚などは、一回の産卵で何千何万という卵を産んでも親になるのは、ほんの一握りでしかない。

 

魚だけでなく、私たちも同様だ。

 

200年も遡れば、生まれた子どもの半分が成人前に死んでいく世界が存在していた。だから、子どもには本来の名前を付けず、天からの預かり物として、いつ返すよう言われてもよいように覚悟しながら育てていた。

 

今人類は、こういう命の世界を抜けて、大部分の命が成人を迎え、大半はそのまま80歳までも生きるような世界を作ろうとしている。そんな状況が実現しかけて見えてきたのは、命の法則に従うしかないという事実だ。

 

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分譲マンションの自治会で、1階の住民がエレベーターの管理費を平等に分担することに不満を持ち、利用率に応じた負担に変えようとしたことがあったという。自治会にかけたところ、上層階の住民の団結によって、かえって1階の住民の負担を増やす案が通ってしまったという。

 

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文明の進歩によって、たくさんの高齢者が生まれ、たくさんの障害者が生き残るようになったとき、そうした人々の発言を尊重していけば、結局、元気で健康な人たちが一番割を食う。誰も生きることの意味を見いだせなくなり、精神を病んでいく。リベラルであることなどできないのだ。

 

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現代のヨーロッパ人の歯は5万年前のネアンデルタール人に比べて50%も小さく、2万年前のクロマニヨン人と比べて20%小さいという(『食の考古学』19ページ)。食べやすく加工する技術が顎を弱くするのであろう。これに限らず、肉体の外に解決策を見つけだす人類の能力は肉体の劣化を加速していく。

 

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穀物支配という言葉がある。穀物を作るようになって支配者が誕生したのである。支配者の誕生は数字を生み文字を生み法を生んだ。私たちの文明社会を見れば、こうして生まれた法によってがんじがらめにされてかつては可能だった山や辺境へ逃げることさえできなくなったという現実がある。

 

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サバンナの動物親子に学ぶ』には、次のように記されている。

動物も人も死を避けるために、いろいろ工夫をします。 しかし、その工夫は「生」全体のあくまで一部なのです。 そんなことばかり工夫していては、「生」の楽しみを忘れて しまいます。 死はせつないけれども、必要なもの、大切なものなのです。 いまこそ、私たち人間は、「生」と「死」を見つめ直す時間 なのかもしれません。

 

 

本来は、まだ幼いうちに、大部分が失われるはずの命。そうすることで、強い者だけが生き残り、何とか続いてきた命。この世はただ偶然生まれてきた命が、受け継いだ体質や、周囲の状況に応じて、命の絶えるまでのほんの短い間だけ、いられる場所。しかも、ほとんどの命はまだ途上で失われるべきもの。

 

そういった命を受け入れることでしか命が続かないとすれば、私たちはお金持ちになる必要も、経済発展や研究開発に力をいれる必要もない。ただ「生」を精いっぱい楽しむだけでいい。そんな動物的なあり方をしたときに限って、生を楽しむことのできる世界が蘇る。

 

 

 

 

 

熱田神宮と白鳥庭園

熱田神宮と白鳥庭園に行ってきました。

 

大台ケ原に行ったときに感じたようなすがすがしさを味わうことができる場所が熱田神宮です。熱田神宮を象徴する大きな楠があり、他にも多くの常緑広葉樹の大木があって、街の中にありながら、森の冷気を感じることができます。東山動植物園熱田神宮とで迷いましたが、より自然な森を楽しみたくて熱田神宮にしました。

 

ちょうど七五三にあたっていたので、たくさんの参拝者たちで溢れていました。屋台も並んでにぎやかでしたが、やはり落ち着いた雰囲気があるのは、森のおかげでしょう。森の落ち葉は、人の通る場所こそ掃き清めてありますが、森の中ではできるだけそのままにしてあるようで、湿気を保ってくれているようでした。

 

境内にある宮きしめん熱田神宮を訪れる楽しみの一つです。行列はできていましたが順調に進んでいくので、長く待たされることもなく順番が来ます。きしめんの提供速度と食事を終える速度のつり合いもちょうどよく、いつも少しは空席がある状況が続いていました。

 

 

熱田神宮に参拝した後は、白鳥庭園に行きました。熱田神宮から徒歩5分ほどです。平成元年作られた新しい庭園ですが、草や木が適度に雑然としており、また美しい景色を生み出すように巧みに設計されているため、逝きし世の面影に描かれた古い日本の町や郊外を思わせるものがありました。

 

古い本を読むと昭和になっても皇居のお堀の水は澄んでいたといいます。名古屋の堀川でも80歳くらいの人たちが子どもの頃は泳げたといいます。

 

経済発展の背後に、世界システムや国際金融家たちがいて、教育やマスコミも牛耳ながら人々を経済活動に追いやっていたと知ると、失ったものと得たものとでは、失ったものが圧倒的に大きかったことがわかります。

 

今日も熱田神宮では、参道の脇の溝を流れる水をみつけて七五三に参拝に連れてこられた男の子がさっそく遊ぼうとしていました。そんな水の流れる場所ももうめったに見なくなりました。

 

私は、森が蘇ることを熱田の神にお願いしてきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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