毎日出てゐる青い空

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肉体について

肉体は鍛えれば強くなり、子孫たちにも受け継がれていく。

楽をすれば衰え、子孫たちにも受け継がれていく。

(本質を見れば獲得形質も遺伝すると考えてよい)

 

 

たとえば、サバンナの草食獣たちは肉食獣を恐れて

2時間ほどしか寝ないのかもしれないが

睡眠不足でフラフラになったりはしない。

 

猫は一日中寝ているが、

体長の何倍もの高さまで飛び上がることができる。

 

 

いずれも、祖先たちの暮らしが

与えてくれた能力である。

 

 

 

 

 

この視点から人類史を振り返ると、

人は工夫を重ねることで

肉体を衰えさせてきたことが

はっきりする(脳も含む)。

 

 

たとえば、農耕を知らないピグミーやブッシュマンはお産が軽いのだ。

味覚もタフで、渋みの強い果実をおいしく食べることができる。

5000年前のアイスマンが今に蘇ったなら彼は最も賢い部類に入っただろうという

論文もある。(ただし、それは別種の、より洗練された知性を身につけたためだと主張する研究者もいる。)

If Modern Humans Are So Smart, Why Are Our Brains Shrinking? | DiscoverMagazine.com

人類の脳が3万年で、1割縮小していた。 | 2011-02-07 | Time-AZ

 

 

 

 

 

 

 

これが事実だ。

 

ヒトが工夫を重ねるほどに

ヒトは多様性にあふれる環境を失い、

肉体を鍛える環境を失い、

知的にも身体的にも衰えていくのだ。

 

 

 

肉体には別の意味もある。

それは人の知能も感情も

肉体の体験を通じて発達するということである。

 

あいまいで複雑な自然環境に囲まれ、

親と密着しながら生後三年間を過ごすことで

人の知能と感情は発達する。

 

これが可能なのも

動物的な暮らしである。

 

 

 

人はなぜ山に登るのか、

文明社会が失った生がそこにあるからだ。

 

参考文献

アルピニズムと死

自然を愛しているからという理由だけで踏み入れるのではない。まして自己表現のために高みを望むものでもない。 限界線から一歩踏み出すたびに、生命が躍動した。安住できる土地を離れ、不安や孤独を感じながらも、克服することがより困難で切りたった場所に向っていった。

 

 

 

 

目覚め

命の真実を
知らないままで
過ごしてきた日々

 

命は慈悲に包まれた
柔らかな存在であった。

 

 

天寿を全うし
安らかに永遠の眠りにつくことが
命の本来の姿であると
どこかで思い込んでいた。

 

 

 

 

 

この思い込みが誤っていることを
教えてくれたのは、
動物たちであり、
人類学であり、
陰謀論に基づく文明論った。

 

 

ドール、リカオンなど
群れで狩るイヌ科動物たちは
獲物を絶命させる術を知らず
思い思いに獲物にかみついては
肉を食いちぎっていく。

 

餌食となる動物は
生きたまま少しずつ肉を噛み取られて
いくのだ。

 

残酷な光景だが、
これがこの世の生の事実でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちが
生命を謳歌するということは
このような世界の中で
はかない生を生きるということである。

 

 

 

疲れを知らないように遊ぶ子ども時代。
私たちは肉体を通じて心を成長させていく。

肉体的にも精神的にも充実した中で
子育てに勤しむ成年時代。
人生の最良のときである。

 

肉体が衰える老年期。
もう長居は無用だ。
十分楽しみ、運よく今日まで生きてきたのだ。
もうこの世を去るときである。

 

 

 

このような本来の生を過ごすためには、
学校に行く時間も
会社に行く時間も
存在してはいけなかった。

 

狩猟採集者たちのように
生きていかなければならなかった。

 

 

老後の楽しみを期待するのではなく
今を楽しむしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

目覚めてみれば、
私たちは
どこまで行っても動物だった。

 

 

 

「飢えをなくそう」
「病気をなくそう」
「助け合おう」

 

 

生物として
絶対に実現できず
実現しようとすることも許されない
夢に挑戦した人類は、

 

格差を作り
文明の支配者を作り
ついに
世界中が支配者の手中に収められようとしている。

 

 

 

 

 

 

目覚めてみれば
本来のあり方を否定したことが
この悪夢の始まりだったのだ。

 

 

 

 

 

本来の暮らしに戻ろう。
ヒトがヒトらしくいられた、
狩猟採集者たちの暮らしに戻ろう。

 

 

そのとき、
ヒトは最も幸せなのだ。

 

 

 

参考文献

サバンナの動物親子に学ぶ

 

動物も人も死を避けるために、いろいろ工夫をします。 しかし、その工夫は「生」全体のあくまで一部なのです。 そんなことばかり工夫していては、「生」の楽しみを忘れて しまいます。 死はせつないけれども、必要なもの、大切なものなのです。 いまこそ、私たち人間は、「生」と「死」を見つめ直す時間 なのかもしれません。

 

言葉について考える(神、共産主義、民主主義、福祉、国家、平和、人類)

猫たちと暮らしていると

言葉などいらないことを思い知らされる。

 

交尾、子育て、なわばり争い。

人との関係の作り方。

 

相手のあるさまざまな活動を、

言葉のない世界で遂行しながら

全体として見れば、

ほどよい状態が保たれている。

 

猫たちは言葉を持たず、

言葉によって教わることなく、

体験から学ぶことや、

体の声を聞くことで

自分の取るべき行動を決めていく。

 

義務や権利、道徳や倫理、

正義や悪といった判断に基づいてではなく

ただ、実情に応じて

逃げたり、戦ったり、

甘えたり、怒ったり、

舐めあったりしている。

 

すべての個体が

その個体なりの経験を積み、

その個体なりに答えを出して

生きており、

こうしなければいけないという

基準は一切存在していない。

 

それだけのことなのに

結局のところ

全体としては

問題のない状況が

維持されていく。

 

ちょうど、

体全体のことを知る細胞は

一つとして存在せず

どの細胞も

それぞれの役割を果たしているだけなのに

結局は体全体が調和を保って機能する

肉体と同じようである。

 

このような言葉のいらない

世界を知った上で、

人間の世界を振り返ると、

「言葉」が人間界を

救いのない状況にしていることがわかってくる。

 

 

猫たちが

個体ごとに

導き出す答えは

常に土台があって

導かれた答えである。

 

親子だからとか

飼主だからとか

異種だからという

判断基準はない。

 

人はどうだろう。

 

猫たちのように

経験に学び

体からの声に耳を傾ける代わりに

人間は動物とは違うのだとか、

現代人は以前の人間とは違うのだとか、

道徳が必要だとか決めつけていく。

 

それだけではない。

言葉は人を共謀させ、

脅迫し、

法で縛りもする。

 

本来のヒトのあり方を知っていくことで

見えてくるのは、

言葉によって作りあげられた社会が、

自然界に生きる以上の

苦痛を私たちに与えているという事実だ。

 

自然界の影響の強い生き方をしている間、

言葉はそれほど大きな影響を持たなかった。

 

言葉が作りあげる世界よりも、

自然界の影響のほうが強いために、

人は何とか現実を受け入れて暮らしていた。

 

間引きも姥捨ても、

独裁者の暗殺も

当然のことと考えていた。

 

今は違う。

言葉で作られた世界に

「法」があって

現実の世界にある

無言の法は無視されている。

 

たとえば、

共産主義キリスト教

人と動物の違いは労働にあるという。

義務教育でも労働は国民の義務であると教える。

 

宗教や人間性を信じる者が

この言葉に嘘があると受け入れることは

とてつもなく困難である。

 

しかし、

言葉の世界は

そんなものばかりにあふれている。

 

 

言葉がない世界で

総体的にいえば何も問題がなかった

人類は、

言葉を持ったことで

真実から遠ざかり、

動物らしく

本来らしく

生きることを許されなくなっていく。

 

 

言葉が 

ヒトを

ヒトではなくしていく。 

 

文明には支配者がいる

古代シュメールから連綿と続くという

人類支配者の系譜。

 

それを信じるか信じないかはともかく、

 

「民主主義」という言葉のまやかしから覚めてみれば、

文明の歴史は常に少数の支配者と大多数の被支配者の歴史であった。

 

多くの人が一顧だにしない陰謀論が暴いているのは、

実はこの一点である。

 

 

農耕が土地の私有を生み、

土地を持つ者が「利子」を取って貸すことで

今と同じように

生きるためには

権力者のいいなりになる

しかない状況が生まれた。

 

 

現代社会も実態は一切変ってはいない。

 

人は次第に進歩していると思い込ませる教育を真に受けている限り

現実に気付くことは難しいが、 

中央銀行の不可解な位置づけや

911テロの不思議

開発への投資を正当化し、国民の目を不満からそらさせるオリンピックの機能など

まじめに向き合って目覚めた目で見て見れば、

文明の支配者の存在をはっきりと認識できるのだ。

 

 

 

 

遊動する狩猟採集者たちを定住させることで、

文明はついに人類史上初めて世界中のすべての人々を

支配下に入れようとしている。

大衆は、どこかに本来の暮らしがあるはずだと気付いたときに

教えを請うことのできる人々を失い、

ついにすべての希望を失おうとしているのだ。

 

 

大規模組織もそれを支える科学技術も否定して

脱文明をめざせと私が主張する理由がここにある。

 

 

参考文献

金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った

偽情報退散! マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている

人間にとってスイカとは何か カラハリ狩猟民と考える

風邪薬を飲まず、靴下をはかず、扇風機もエアコンも使わないこと

風邪を引けば当たり前のように飲んでいた風邪薬を

妻の薦めで服用しないで過ごしてみた。

服用した場合とまったく同じ経過をたどって完治した。

 

自分の体に対する信頼感が生まれた。

 

 

昨年の冬、靴下なしで過ごしてみた。

一年で足の皮膚が随分厚みを増した。

 

昔、皆こんな足をしていたことを思い出した。

 

 

今年の夏、さすがに夜間は扇風機を使ったが、

昼間はカーテンを引き、窓を細く開けて過ごしてみた

(勝手に中東方式と名付けた)。

今年の夏は酷暑ではなかったこともあり、

いまのところ仕事にも支障を出さず、

問題なく過ごせている。

 

やりすごすことの大切さを学んだ。

 

 

こうして、一つ一つ確認を重ね、

私は鍛えれば快適になり、

保護することで苦痛の増す

肉体の機能を実感していく。

 

 

文明否定とは、このことの拡大解釈でもある。

 

『本当は怖い動物の子育て』

動物の世界は過酷です。

 

豊かな世界を維持したければ個体数を制限しなければならない。

 

自分の子を確実に残したければ、育ちそうにない子、育てられない子の命は救えない。

 

平等に乳を与えることよりも、特定の子を優遇することで、
生き残りのチャンスを少しでも広げたい。

 

 

テレビや学校教育では、ヒトはこんな差別、人命軽視、人権無視はしないと
教え込んでいます。

 

 

でも、先住民の暮らしと私たちの暮らしとを比較してみれば、
動物たちと同じ価値観を持って生きている先住民たちのほうが
資源の保護、人間疎外の回避、充実した生など多くの面で本来的
永続的であることがわかってきます。

 

この本は、今の価値観が完全に誤っていることを知るための
出発点としておすすめできる本です。

 

名著紹介『本当は怖い動物の子育て』

 

 

生物と「豊かさ」

『アボリジナル オーストラリアに生きた先住民族の知恵』より

ボリジナル・グループのほとんどが、介助を必要とする仲間を看護できなかったことは、彼らの豊かな暮らしの欠陥のひとつといってよかろう。だがその比較的高い死亡率は、おそらく彼らの豊かな暮らしを守るために不可欠だったのだ。

 

ボリジナルの暮らしは、豊かであるだけでなく、子どもに対する愛情も深い。
しかし、育てられないとみなされた新生児(双子の一方など)は命を奪われてしまう。

 

同じことは動物界では当たり前のように行われている。

 

これを回避しようとすれば、何が起きてくるのか。
食糧不足、耕地拡大、住環境の悪化、介護の押しつけ、金銭的負担の押しつけと
金銭管理部門の腐敗、不満を貯める養育者、子どもの虐待、
虐待されて育った親が子を虐待する連鎖・・・

 

こうして健康に生まれてきた個体までもが、ストレスと不満に満ちた暮らしを
送らされることになり、豊かな老後の夢だけを見させられて裏切られることに
なる。文明社会では人は文明のいいなりとなるしかなく、自主独立は失われる。

 

 

こうしてみてくると、私たちは大きな思い違いをしているのではないかという
考えが浮かんでくる。捨て猫を拾い続けることができないように、
人も自然の掟に従って生きるしかない存在なのだはないか。
だとすれば、介助のできない状態こそが本来なのだ。

 

陰謀論を中心に文明の正体を知る活動を続けていけば、

甘い言葉の裏には人類家畜化の罠が待っていることが

はっきりと見えてくるのである。 

 

www.asahi-net.or.jp

 

 

名著紹介『アボリジナル オーストラリアに生きた先住民族の知恵』

 

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