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毎日出てゐる青い空

日々雑感をつづります。ホームページでは本の紹介などもしています。

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規模が小さいことが必要

『ことばの起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』(ロビン・ダンバー著、松浦俊輔、服部清美訳、青土社、1998)によると、霊長類の群れの規模は大脳の大きさに比例しており、私たちホモサピエンスにとって適切な規模は150人程度であるという。

 

現実を見れば、私たちは150人を大きく超える群れを作って生活している。私たちが大きな群れを作ることが可能になったのは、毛づくろいという1対1のコミュニケーションではなく、言葉によってコミュニケーションをとることが可能になったからであるらしい。

 

そして、ここに重要な鍵が隠されている。

 

ピダハンは直接経験の原則に基づく世界観を作りあげている。THINKER氏は、マスコミとお金が人間を不幸にしているという。

 

事実、私たちの社会は、マスメディアによる情報の洪水、教育による幼少期からの価値観の植え付け、大学などの権威による知識の独占と取捨選択によって作り上げられているのである。

 

コリン・ターンブルは『豚と精霊』の中で小さな社会でなければ人は精霊として生きられないことを指摘している。

 

つまるところ、私たちが不幸になるのは、間接情報に頼って生きるしかない大きな社会に住んでいるからなのである。

 

人類にとって適切な群れの規模は、その大脳の大きさが示すとおり、150人程度なのである。

 

 

 

 

普段、動物たちの目は穏やかなのかもしれない

羽仁進さんの本にあった、印象的な一説は、

草食動物たちの軽やかさだ。

 

書評 『サバンナの動物親子に学ぶ』

 

生と死が同じ時間の中にあるアフリカで、

食う側は食われる側のパワ ーには絶対にかなわない。

飛び跳ねる草食獣の子どもたちを見れば、

このパワーを感じられるというのだ。

 

この本を読んだとき、それ以上深く考えることはなかった。

しかし、最近になって私は、動物たちの目は、

思っていた以上に穏やかなのではないかと感じ始めている。

 

それは、ピダハンたちが穏やかな表情をしていることと似ている。

 

客観的に見れば厳しい環境に思えても、

耐えられないほどの場所ではないからこそ

世代をつないで生きる命がある。

客観的な状況ではなく主観的な状況が重要なのだ。

そしてまた、余計な心配をしないことで

軽やかにいられる。

 

私たちと同じような心を持った動物たちが

私たちと同じようにおおむね穏やかな日常を送っている。

厳しい環境を穏やかに生きることのできる

たくましさを身につけてもいる。

 

人の世界でも、動物に近い生き方をしている人々は

軽やかで穏やかだ。

 

ピダハンの子どもたちは、いたって肝の据わった、

それでいて柔軟なおとなになる。

そうしたおとなになれば厳しい世界も

楽しく生きていくことができる。

 

ブッシュマンもライオンの出没する土地で

ライオンを恐れながらも生き生きと暮らしていた。

かつては、ハームレス・ピープルと呼ばれてもいた。

 

 

 

 

弱肉強食の印象ばかりが強い

自然界の暮らしは、

ただただ弱肉強食の世界なのではなく、

穏やかな時間の流れることの多い

暮らしなのではないだろうか。

 

 

 

 

 

一方で、肉食獣たちの目は確かに厳しく見えることも事実である。

それはしかし、生活の厳しさを抱えているのは

草食獣ではなく肉食獣であることを示しているのかもしれない。

 

 

 

 

農民の反対を尊重した横暴な殿様と、住民の反対を弾圧する民主的な政府

逝きし世の面影』に、 病院建設のための農地を収用しようとしたが、農地を耕作していた農民が頑強に抵抗し、為政者側はこれを尊重して病院が建設されないままになっていた事例が出てきます。

 

平等と不平等をめぐる人類学的研究』には、その頃の日本では、土地の総有という概念があり、所有者の意志のみによって土地の使い方を決めることはできず、地域住民の同意が必要であったという事実が記されています。

 

こうした事実を踏まえて現在の法律の仕組みや実際に住民の反対を弾圧しながら強行されていく原発建設、基地建設、河口堰建設などの事例を見て見ると、江戸時代のほうが民主的で、法治国家こそが弾圧的であるという実態が見えてきます。

 

その理由を知る上で役立つのが、『世界システム論講義』や、『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』、『偽情報退散! マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』であると私は考えています。

 

マスメディア、教育、宗教が管理され、理屈をこねることで事実とは大きく違う人間像や、生物像、世界観が植え付けられていきます。たとえば、人は理性的な存在であるというウソがまき散らされていきます。こうして、あたかも人類は次第に進歩し、理想に近付いているかの様に思いこませながら、実際には一握りの人々にとってだけ都合のよい社会が作りあげられているのです。

 

江戸時代に農民一揆が弾圧されたという事実があったとしても、江戸時代の農民として生きることが、今の世界に生れて競争にさらされながら生きることと比べて、一方的に不幸ではなかったはずです。権力者の価値観が反映されて庶民にゆとりがあり、世界でも珍しい町民文化が育った江戸時代の日本は、生物として生まれ生物として死んでいく宿命を持ち、つらく悲しいものになりがちな生を、できるだけそのまま受け入れながら、しかも少しでも生きやすくしようしていました。それは、西洋文明が一度も達成できなかった、生物としての在り方に即した生き方を高度に達成した世界でした。

 

 

ともあれ、事実関係を確認していけば、私たちが生きる現代社会は、人々の自治や主体性よりも、巨大な経済や権力が優先され、それに即した生き方だけが許容される、一部のものの利益に合わせて設計された社会でしかないことが見えてくるのです。

 

少なくとも、現代社会が民主的な市民社会であるという嘘を信じることだけはやめたいものです。

脳が発達し、事実を観測して、アニミズムが滅び、人がヒトでいられなくなる

ヒトの脳が他の動物たちよりも発達しているのは事実であるらしい。

 

 

脳の発達は、視覚の発達を伴って周辺の状況を確認する能力を上げる作用や、個体識別と複数個体による協力を可能にする作用、道具を操る能力、言語能力などをもたらしたようである。私たちが視力に頼る動物になったことも、私たちの脳を発達させた一因だったのだ。

 

脳が発達することで、生存に有利になった面があったことは事実だろう。しかし、脳が発達しなければ生き残ることができないわけではなく、脳を発達させるための時間や栄養摂取を省くことで生き残りに成功している種もいることには留意が必要だろう。

 

さて、どうやら脳の発達という点で、現生生物種中では最先端を行っていると思われる人類。これは、素晴らしいことなのだろうか。

 

最近私が感じるのは、生物にとって重要なのは、客観的事実ではなく、主観的な事実であるという点である。子どもが庭の石ころや月、雲のような自然現象、そのほかすべてのものに自分と同じように生命や心があると考えるアニミズムの世界に生きているように、生命は本来、アニミズムの世界に生きる存在なのである。ところが、脳の発達が言葉を生み、定住が知識を蓄積させて、アニミズムの世界を捨てるように私たちに迫っている。

 

それは性能の低いレンズを使って見ていた世界が、おとぎ話の世界のようであったのに、性能の高いレンズに変えたことで、いろいろな不都合がはっきりわかってしまったことに似ているかもしれない。筆の跡も荒々しい絵画には、リアリスティックな絵画にはない味わいがあることにも似ているかもしれない。

 

 

どう表現すればよいのかわからないが、オランウータンやゴリラの家族が楽しそうにすごしている様子をみれば、そこには、私たちが本来持つべき時間があるように見えるのである。ヒトの暮らし方であってみても、科学技術の発達していない社会には、アニミズムが息づき、ヒトはまだ生きる力にあふれているように見えるのだ。

 

精霊を信じ、多くの人々が一緒になって川の対岸に精霊の姿を目撃するというピダハンは、犬と同じ食器から食べて平気でいる。そんな社会で、人は幸福感に満ちて暮らしている。

 

人は物質によって構成されているが、物質として扱い続ければ人ではなくなってしまう。ならば、別のありかたを探るしかないのではないだろうか。

 

 

超高層ビル群 変る景色が意味するものは...

漢字やひらがなで名前の書かれた店の入居する温かみのある建物が立て替えられて、英字で名前の書かれた店ばかり入居するガラス張りの冷たい超高層ビルになる。テレビや新聞は新しい超高層ビルが開業するたびに華々しい出発を報道する。

 

資本が投下されて超高層ビル群ができあがっていく背景を知らなかった頃であれば、私もおなじように街の発展を喜んだかもしれない。しかし、今ではまったく違う風景に見えている。

 

テナントの顔ぶれや価格帯を見てわかるのは、そこにあるのは、一般庶民が安心して利用できる店ではなく、高い給料を得て働いている都市労働者たちをターゲットにした店ばかりであるということである。飲み会や買い物に万札を使うことに抵抗のない、金銭労働者たちが、その地位を確認するために買い求める商品が並び、地に足のついた生活をしたい者たちは置き去りにされている世界である。

 

それは格差を必要とする世界であり、冷たさを選民思想によって合理化した世界である。

 

JP、JR。アルファベットが象徴するのは、それが日本のものではないということだ。国際○○と名の付くビルも目立つ。日本の財閥系の名前を冠したビルもあるが、実のところ日本の財閥自体が明治以降に外国勢力によって育てられた存在でしかないのだ。

 

こうして高層ビル群の姿を見れば、もうそこは日本国内ではなく、この国を実質支配している国外の存在たちがその勢力を誇示する姿でしかなくなってしまうのだ。

 

これを知ってみれば、超高層ビル群の本当の姿が見えるはずだ。

格差を産み、貧困を作り、人を締めだす冷酷な社会を作る者たちが、人権や福祉を叫ぶ矛盾に気づくはずだ。

 

生きること自体が不合理なのだ

『人間に未来はあるか』は、現代をBiological time bombといい、時限爆弾が爆発するように生物学に基づいた科学技術の発展が爆発的に進み出す時期がまもなくくるところで、どのように対処すればよいのかを問うている。

 

たとえば、何十年も前に死亡した男性の精子を使って人工授精によって誕生する子どもをどう扱えばよいのかとか、感情や思考を外部から操作することに対してどう対処すればよいのかという問いである。

 

現実の世界でも、この本で問題にしていたような問題が出初めている。

・整形美人・美男は結婚詐欺といえるのか。

・精神を病んで整形を繰り返す人に対して、要求されるままに整形手術を施すことは許されるのか。

向精神薬の多用は、人の感情の操作を既に実現してはいないか。

・体型がくずれることを嫌って出産や母乳による育児を避けることは生物的危機ではないか。

・帝王切開や出産直後のビタミンK注射など、人類はもう自然な出産ができなくなっていきつつあることの証拠ではないか。

 

動物たちの様子や、動物に近い生活を送る狩猟採集者たちの生活と、私たちの生活とを比べてみたときに、明らかになるのは、生きるということ自体が非人道的で、人権という考えにそぐわないという事実である。

 

私たちは肉体なくしては存在できず、肉体がなければ感情も生れず、記憶もなく、思考もない。肉体は鍛えなければ衰え、生殖を経なければ死滅する。生物は互いに依存し合い、したがって喰い食われたり、寄生されたり、争ったりもする。そのような環境にうまく適合して、相互依存を許す生物だけが生き残る。

 

ヒトが上記のような医療行為を続けていった先にあるのは、奇妙な世界である。

・短命になりがちな男という性を排除するかもしれない。

・妊娠出産の危険を回避するために人工子宮による出産が普通になるかもしれない。

・出産直後から医療機器を装備して一生を送ることになるかもしれない。

・感情の調整を体に装着した機器を通じて行うようになるかもしれない。

・思考もまた外部から制御されることになるかもしれない。

・記憶のメカニズムが解明されて肉体の外部に記憶装置を持つようになるかもしれない。

・体のほとんどを人工臓器に入れ替えて生きることになるかもしれない。

 

私たちが考えなければいけないのは、「文化的な生活」、「人権尊重」、「福祉の充実」という言葉と、本来危険で不衛生で不平等な生物の世界とは相いれず、前者を追究していけば私たちはもう存在する意味をなくしてしまうのだという事実である。

 

文明の恩恵などなさそうな生き方をしている人々の暮らしと、私たちの暮らしを比べたときに見えてくるのは、私たちが、もうかなりの程度まで、存在意義を失ってしまっているということである。それは、私たちが生物として生きることを許さなくしている価値観によって法が作られ社会が作られるようになったからであり、その傾向が強まったのは西洋発の世界システム*が覆い尽くして以降である。

 

私たちは世界システムが用意した学校教育やマスメディアによって価値観を植え付けられてしまったために、生命とはどのようなものであるのかを問う機会を奪われ、私たちが生命であることもときとして忘れ去って生きるようになってしまった。

 

それ自体が不合理な生命を生きるには、生命に囲まれて、生命としての活動に専念していくしかないのだと思えるのだ。

 

* 

 

書評 『世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界』

 

 

 

 

 

 

ソシュールおよびレヴィ=ストロースと言語学、人類学、生物学、人類史

私はホモ・サピエンスに代わる概念としてホモ・ラングアを提唱したが、すでにおなじことを主張していた人物(私の嫌いなレヴィ=ストロース)がおり、彼によるとホモ・ロクエンスと名づけるのが正当らしい。

 

それはそうと、

言語学言語学として学ぶことはやはり無意味である。

言語学は人類学・生物学・人類史とからめて学んでいくしかない。

そうしてみると言語が何であるのかがはっきりとしてくる。

 

まず、言語は累積的な技術を可能にした。

これは、言語を用いて伝達することで初めて、針を作ってから網を作り、漁網を仕掛けるといった作業が可能になったことを意味している。

 

これによって、人は野生動物であった状態から脱して、同じ肉体を持ちながら保温性の高い家を作ったり、服を作ったりすることで、熱帯から寒帯まで分布できる動物になったのであった。

 

言語を利用して作られた船と定置式漁具によって、人は定住が可能になった。桟橋から丸太船をこぎ出して内海や湖、川のよどみで漁をすれば、一年中同じ場所にいながら食料を得続けることができた。

 

定住は道具の発達を可能にし、ハンディキャップを負った仲間(老人・障害者)の介護を可能にした。こうして言葉を持った人類は、はじめて、ほとんどの生物は老いを迎える前に死ぬのだという状態を抜け出した(しかし、本来は若くして死ぬ個体が多くなければ種を維持できないという生物の法則から脱することはできない)。すなわち、言語を持ったことで、人は生物の法則を抜け出したと勘ちがいするようになったのである。

 

遊動する狩猟採集者たちの暮らしは、言語を持ちながらも本来の大型霊長類にほぼ即した生き方であるとみると、定住した人類の暮らし方は、言語を持つことで多くの資産を保有するようになった暮らしであり、言語が作りあげてしまった魔界である。

 

言語がなければ、資産が相続されることもなければ、独占されることもなかっただろうが、言語を持つことで、資産を持つことを正当化する理由が考え出され、人々が悪だくみを働いたり、協力して支配的な集団を構成したりすることが可能になった。言語の大きな役割の一つが、こうした理屈づけと、理屈付けした概念を伝達し合っていく、そして悪だくみに使うことにあるのである。

 

言語を持つことで、世代を超えて続く支配階級が登場する条件が生れたのだが、言語があることだけが作用しているのではなく、定住して畑を耕し、収穫物を保存するという生活の仕方と言語の機能とが相まってこれが実現されていることに注目する必要がある。遊動する狩猟採集者たちには、支配階級は生れないのだ。

 

さて、私たちは言語と生業とが相まって形づくられた現代社会に住んでいるわけであるが、私たちの生活を大きく規定しているのは、動物としての私たちの本性であることを、陰謀論や世界システム論は教えている。つまり、生命は自らの子孫を増やすことにやっきになる存在なのであるが、言葉を持たない生物は、その肉体の限界によって影響範囲が限られているために、全体としてバランスがとれる状態になっている。一方、人類は言語による技術力の進歩と、言語による理屈付けの進歩、そして言語による経済活動の拡大によって、一個体の影響力が人類全体、地球全体に及ぶところまで来てしまった存在なのである。

 

こうして振り返ってみると言語の主要機能は3つある

・累積的な技術を推進する機能

・概念を伝達する機能

・理屈付けによって作りあげた虚構と実社会の相互作用によって虚構を実態化していく機能

 

あくまでも生物としてしか存在できない動物であるヒトが、言語という道具を手に入れた結果どうなっていくのかは明確である。もし、この道具の危険性を放置しておけば、一握りの個人によって生物界全体が牛耳られるデストピアが実現するのである。

 

ソシュールの抽象概念遊びもレヴィ=ストロースの分析する世界もくそくらえなのである。

 

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