毎日出てゐる青い空

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体の芯に自然を抱えた私たちが自然を征服しようとする愚かさ

私たちの体の最も深い部分には、私たちにはどうすることもできない自然がある。(「覚醒する心体」)

 

身体性を問い続ける仏教が、身体性を前提としない一神教よりも本質的である理由がここにある(「阿修羅の呼吸と身体」)。

 

身体性を前提としない一神教は、世界中から自然の象徴である森を消し、世界中を人の能力によって変えていこうとする。

 

天然痘を撲滅し、マラリアを撲滅しようとし、遺伝病をなくすことを目論み、臓器移植でも、遺伝子組み合えでもおかまいなしである。

 

そうしてできあがった世界は、身近な環境から食べ物を得るもできず、気分や天気に合わせて一日の行動を変えることもできない、不毛な世界だ。

 

森の猟人ピグミーは森に目覚めていてもらいさえすれば、万事うまくいくと云う。一神教の世界は、森を壊し、万事うまくいかなくしてしまう。

 

万事うまくいくとは、病気や飢えのなくなることではなく、適度に病気にかかり、適度に飢えて、適度に死んでいくことだった。

 

 

森の目覚めを願う狩猟採集者たちの目から農耕と牧畜のもたらした結果を検査してみれば、農耕・牧畜とは、多種多少な生物によって構成されていた豊かな環境を破壊して少ない種類の生物ばかりを集めた貧しい空間を増やし、人口密度を上げて争いを激化させる害悪であった。

 

森に従って生きる狩猟採集者たちの暮らしは「万事うまく」いっている。寿命が短く、危険に溢れ、厳しい自然と直に接しているが、税金も会社も学校もマスコミもない、素晴らしい暮らしであり、自らの力の続く限り精一杯生きることのできる暮らしであり、長く続けることのできる暮らしである。

 

そんな暮らしを捨てて、農耕民である私たちが築き上げたのは、あらゆる活動が環境破壊を招き、富の偏在を招き、一切の自由のない暮らしである。しかも、続かないとわかっている暮らしである(一神教や仏教などの宗教は、森を捨て農耕に走った人々の生きる辛さが生んだ)。

 

森は自然を抱え込んだ人を、自然を破壊する文明から守ってくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺伝子組換えの本当の目的

 

かいつまんでいうと、遺伝子組み換えは、生産量を上げることや、理想的な品種をつくることを目的としているのではない。遺伝子組み換え技術を持つ特定の企業(つまりは特定の株主たち)に、利益をもたらす仕組みを作り上げることを目的としているのだというのが私の分析だ。

 

 

たとえば、大きさが均一で、長く保存でき、病害虫に強く、除草剤をかけても枯れない遺伝子組み換えトマトができて、他の品種ではたちうちできないとしよう。通常、このトマトはうま味において従来の品種に劣るのだが、輸送や加工、安定供給という点で優れていることから、あっというまに市場を席巻することになる。

 

そうなると、農家はこのトマトを作らざるをえなくなってしまう。

 

もちろん自家採種などできないから毎年苗を買うことになる。その上で、除草剤も同じ企業から買うのである。

 

こうした手法によって、遺伝子組み換え企業は、莫大な利益を得ることになる。

 

そして、これこそが、遺伝子組み換えの本当の目的だ。

 

 

私たちは、命という本来的に利己主義な存在であり、私たちが手にいれた能力は、命の利己性によって利用されている。遺伝子組み換えに関していうと、増産と改良を目指すというのは表向きの理由でしかなく、本当の目的は上にあげたような独占とそれによる利益の獲得であるということになる。

 

この視点から遺伝子組み換えをめぐる歴史を見直してみれば、責めるべきは、遺伝子組み換え食品の危険性ではなく、食の独占に持っていこうとする意図のほうであるということが見えてくるのである。

 

 

保守/革新という嘘

国家という枠組みは虚構だ。

 

日本が世界システムに組み込まれた明治維新を契機として、義務教育が開始された。

これが、虚構としての国家の始まりだった。

 

日本は、戦力の圧倒的な差の前に降伏した国家であり、世界システムの要請に応じて物を作り、物を買い、戦争をしかけ、戦争に負ける役割を負わされた。

 

虚構国家は、民主主義と義務教育を象徴として、国民を一人残らず徹底的に管理し、人々の生き方を決めるようになった。

 

そんな虚構国家を、まるで自分自身であるかのように必死で守ろうとする保守勢力も、国家の枠組みを超えて地球規模の連帯を目指す革新勢力も、従って、哀れなピエロでしかなかった。

 

ピダハンや、ブッシュマンや、ピグミーたちは、国家に組み込まれた囚人としてではなく、自らの意志で生きる動物として生きることができた。それも、世界システムへの組み込み、すなわち選挙権を与えられ、義務教育を受けさせられることによって終わっていく。

 

人類学は、民主主義や国民主権に最も近かったのは、遊動する狩猟採集社会であったという事実を教えてくれる。世界各地に、利己主義者たちの作る平等社会ができていたのである。

 

未開社会では、部族ごとに一定の範囲を住処とし、そこに別の部族の男たちが集団を作ってやってくれば、それは侵略の意図を意味する。

 

ブッシュマンもピグミーも農耕民との付き合いに余計な理想を持たず、したたかに交渉しようとする。

 

そうしたあり方は、世界システムに組み込まれて世界システムにとって都合のよい教育を受けさせられている私たちに、本当のことを教えてくれる。

 

西洋文明を讃美することではなく、西洋文明を讃美させる世界システムの本質を知ることによって、私たちは世界システムから脱却する可能性を手に入れる。

 

保守/革新は嘘である。

 

 

 

 

 

文明と自然

「自然」を題名に含む本を割と多く読みました。まとめて紹介させていただきます。

  

1. 自然農法 わら一本の革命

これは有名な本なので読まれた方も多いかと思います。ただ、福岡さん自身、農耕に疑問を持たれていたのではないかと私は見ています。この場合の「自然」は、自然界から学び、自然界に近い状態を作ることを意味していると思われます。

 

2. 自然に聴く―生命を守る根元的智慧

書評を書く予定でしたがまだ書けていない本です。この本も『わら一本の革命』と同じく、化学肥料を大量に使い、土を殺す農業に疑問を感じた結果生まれた本です。共感できる部分が実のところあまりないのですが自然界に従う以外にないという思想に私は強く共感しました。

 

3. あと40年健康を保つ 自然食の効力

私がこのような本を読む目的は、人の本来の食べ物を知ることに重点があります。この本は、小魚やエビなどを丸ごと食べること、野菜なども生で食べることの大切さなどを教えてくれました。肉や魚を食べることが悪いのではなく、家畜や養殖された魚介類、栽培された果物・野菜が健康に悪いのではないかという考えを私が持つに至った出発点になった本かもしれません。

 

4. 虫はごちそう(自然といきる)

これはしばらく手元に置いてあって、もっと早く読めばよかったと感じた本でした。この本が、「自然」という言葉から私たちが思い描く、野山の広がる世界というイメージに一番近い本であると思います。 自然の中で生きることの楽しさが伝わってきます。

 

5. 動物たちの自然健康法

この本を読むと、動物と私たちとの近さを感じることになります。動物も健康法を持っていることを知ると、動物たちと人間とを隔てる垣根が低くなり、連続性が感じられてきます。一度は読んでおきたい本の一冊です。

 

6. 家庭でできる自然療法: 

一般の書店にないので、この本を知っている人は少ないでしょう。私が、風邪薬を飲む必要がないと知ったのは、この本に記載されている熱さましの方法で妻が熱を冷ましてくれたことがきっかけでした。それまで、病気といえばすぐに薬局の薬に頼っていたのが、今では、妻よりも私のほうが自然療法に傾いています。肉体の力によって対処できない病気には負けるほうがよい。そのような考えも生まれてきました。

 

7. 本物の自然療法

動物たちの自然健康法』で動物たちも薬草を使うことを知ったり、『あと40年健康を保つ 自然食の効力』で病気のときは断食して休むのがよいと知った上で読むと、この本の内容は、それらと矛盾する内容であったりします。それにも関わらず、『自然に聴く―生命を守る根元的智慧』と同様に、自然界に従う以外にないという思想が根底にある点で大いに評価したい本です。特に、私たちは、他の生命と切り離された命として存在することはできないと明確に指摘してあるところに、現代を生きるすべての人類に対するメッセージを私は読み取ります。

 

8. 覚醒する心体―こころの自然/からだの自然

この本全体に込められたメッセージは、私の考えるところとは大きく異なっています。また、内容も難しく十分に読み取ることができていない本です。それにも関わらず、ここに上げた本の中で最も重要性を持つ本であると私は受け止めています。

 

<私>という存在のもっとも本質の部分に横たわっているもの(本質そのもの)は「<私>のコントロールできないもの」である」という重要な事実を教えてくれた本であるからです。

 

私たちは、私たちの意志によって、世界を作り変えていくことができると考えがちですが、人の本来の生き方を探る読書を通じて見えてくることは、「私たちには、地上で生まれ地上で死ぬ生物としての生き方以外に生き方はない」という事実です。

 

肉体から離れることもできなければ、寄生虫やウイルスを全滅させることも、精神だけの存在になることもできません。本書では、こうして、自然として存在する人生を「わたしの人生」として受け入れる主体が生まれるといっています。そこに、言葉によって当事者性を奪われた私たちが当事者性を取り戻すチャンスがあり、生物として束縛された生を受け入れていく、人類が地球環境を破壊しない唯一の道があると私は受け止めています。

 

「自然」という言葉を私たちが思い描くとき、それは母なる自然であり、優しく温かい自然であることが多いような気がします。他方で、自然に聴く―生命を守る根元的智慧』、本物の自然療法』、『覚醒する心体―こころの自然/からだの自然』で指摘されているような、私たちの生を束縛するものとしての自然はほとんど意識されでいないでしょう。

 

しかし、「自然」の持つ真の重要性は、これらの本で指摘されている、私たちの生を束縛し、私たちのコントロールできないものとしての自然であり、動物たちのように、それに身を委ねることで私たちはようやく大きな安心感を得られ、自然界に包まれたまま生きることができるのではないかと思います。

 

文明は、この私たちの体の中心にある自然を不都合なものとしてとらえ、法を作って自然を罰し、技術力で自然を縛りつけます。

 

そうして文明人は精神を病み、正義を振りかざしたり、理性を叫んだりしながら、体の中の自然をむしばんでいっているのです。

「文明社会こそが人の本来のあり方である」と信じることはトンデモである

私たちの今の価値観は、文明社会を前提として作られている。

 

多くの物を持ち、多くの人が集まり、食糧を生産し、定住して、体の機能がある程度衰えても生き続けることのできる状態を前提として作られている。

 

でも、これは、ヒトの本来のあり方とはほど遠いあり方である。

 

ホモサピエンスが生まれたのが20万年前としても、定住生活が始まった1万5千年前からの年月は、ホモサピエンス史の10分の1にも満たない期間しか持たない。まずは、期間的に見て、文明社会は正常ではありえない。

 

定住生活と農耕が人類に及ぼした影響は、人口が増え、集団の規模が拡大して、争いが激化したことであったり、貯蔵や蓄積が可能になったことで、格差が生まれ、高度な技術の開発が可能なったことであったり、農耕を基盤とすることで地球環境への影響が拡大したことであったり、炭水化物を主体とする食や、加工方法の変化を受けた肉体の退化であったりする。

 

私たちが本来の状態であると考えている文明社会は、それこそが、環境破壊の元凶であり、戦争の元凶であり、格差の元凶であり、遺伝子組み換え食品、巨大資本、巨大金融、AI、監視社会など、次々と新しい問題を生み出す元凶になっている。文明社会が生んだ問題を、文明の進歩によって解決しようとすればするほど、問題は深刻化していくというわけである。

 

私が、多くのトンデモ本を読んで学んだことは、トンデモ本の著者たちは、それなりに根拠となる情報を集めて、自分なりに筋道の通っていると考える主張を繰り広げているということであった。

 

同じことは、文明社会を「正常なあり方」であると勝手に仮定して、福祉や、民主主義や、技術の進歩を語る、現在のほとんどの主張にも言える。このあり方が正常であると仮定することは、トンデモないことなのだ。

 

文明社会が生んだ、民主主義、福祉の充実、国家主権、男女同権などという概念は、ヒトの本来のあり方を一切問い直していないトンデモな説の上に打ち立てられた概念でしかない。

 

 

 

 

 

言葉と命

人類を説明する鍵はこの二つに尽きるというのが私の現時点での結論だ。くり返しになるが、まとめておきたい。

 

言葉は

農耕の開始も、水産資源の通年利用も実現した。言葉を持ち定住したことで、サルの一種であった人類は、さまざまな道具を利用して世界を大きく変えることが可能になり、脳のサイズから推測される最大150人の集団を超える集団を形成できるようになった。

 

言葉を得た人は

「愛」「正義」「道徳」などの概念を作りだし、これを社会全体に広めた。その結果、人は、世界の把握の仕方を規定されて生きる存在になり、自ら答えを出す変わりに、社会制度として現実に力を持つ、こういった概念に縛られる存在になった。

 

命は

言葉の持つこれらの力を利用している。

 

命は

愛でも正義でも道徳でもなく、続いてきたという実績、続いていくという可能性によってのみ意味を持つ。とにもかくにも、子孫を残したものが勝ちなのだ。

 

人類学(人間学)は人間の自己疎外を背景として、人間性を取り戻そうとして生まれた。どうやら、これらの事実を明るみに出すことが、この学問の成果であったようだ。

 

言葉による影響を余り受けておらず、活動に多くの制限がかかる狩猟採集社会では、人は動物に近い生き方を貫き、自己疎外とは無縁である。他方で、言葉による影響を強く受け、社会制度に反映された文明社会では、人は自己疎外に陥るしかない。

 

たとえば、生まれた子を精霊として天に返すことが許されるヤノマミは、私たちよりもずっと幸せに生きている。

 

闇の権力とか、陰謀論という言葉をご存じだろうか。

 

まともな常識を備えた大人にとって、これらの言葉は荒唐無稽な妄想であり、避けるべき世界である。しかし、奴隷解放の目的、中央銀行制度の意味、マスコミの資本関係などを知っていくと、学校やマスコミを通じて教えられる歴史や現代社会の姿は、実像とは程遠いことがわかってくる。それこそ、闇の権力が教育やマスコミを支配しているという証拠なのである。

 

命と言葉の本質を知ってしまえば、闇の権力が存在することを疑う理由は一切なくなる。命が言葉を使い作り上げたのが文明社会であり、文明社会には支配者が途切れたためしなどないのである。

 

命と言葉が手を結んだとき、姿を隠しながら社会を支配する権力が生まれてくることが当然であった。植物があれば草食動物が生まれ、草食動物がいれば肉食動物が生まれることとまったく同じである。あるいは、巨大なコロニーをつくるツムギアリの巣に、他のアリが寄生することとも同じである。

 

裁判所は、権力側の立場に立って判決を下し、住民の権利よりも経済開発が優先される。情報は独占され、隠ぺいされ、歪曲される。利権は汚職を生む。それが命の本質である。

 

人類もまた命であり、命は勢力を広げて子を残そうとするものであるという視点からマスコミ報道に触れていると、正義を振りかざしてみたり、母性や共感能力ばかり強調してみたりと、てんで話にならない情報ばかりであることがわかる。そうして、「素晴らしい私たち」という人間像をつくることで、闇の権力者たちは人々を支配でき、仕事にいそしま、消費に駆り立てて富を築くのである。

 

言葉によって作り上げられた支配者たちにとって都合のよい社会が人を疎外させていく。疎外を防ぐには、命と言葉の限界を知り、動物たちのように生きるしかないのだが、言葉を持ってしまった命が動物に戻ることは、不可能なのかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「トウチャン一家と13年―わがアマゾン (朝日ノンフィクション) 」を通じて知る「法」「生計」

トウチャン一家と13年―わがアマゾン (朝日ノンフィクション)』は、『アフリカを知る事典』に記された狩猟採集者の特徴や、『人類史のなかの定住革命』に記された定住しないことの利点を具体的に知ることのできる良書だ。

 

アマゾンのマチゲンガ族は、サゴヤシを育てるとはいえ、都合に合わせて住処を移す生活を送っているため、遊動する狩猟採集者たちに近い特長を備えている。

 

強制力を持つ首長はおらず、儀礼も未発達である。

 

彼らは持ち物は少なく貧しいが、時間と空間は豊富に持っている。そして、この二つの資源を問題解決のために有効活用している。

 

つまり、対人関係で問題が生じた時には、その場を立ち去り、家を移して、長期間出会わなくすることで、問題を風化させていくのだ。

 

実は、動物たちも含めて、問題を解決する最良の手法は、この方法なのだと私は知った。文明社会では、言葉を尽くし、議論を戦わせて、最終的には「法」によって問題を解決することになっている。しかし、その手法は、最低の手法でしかない。理論はどんな形にでも曲げることができ、法は資金力のある側にとって有利になるように作られているからだ。法による解決は勝者を固定してしまう。

 

法の不都合を示す別の事例は、一夫多妻制のありかただ。マチゲンガ族の生活は、女性にかかる負荷が高いため、女手は多いほうがありがたい。そのため、一夫多妻を女性側も歓迎することになる。

 

こうした世界を知ると、一妻一夫に限定されていることに違和感が生じる。もっと柔軟であっていいはずなのだ。私たちが複数の配偶者を持てば重婚の罪に問われることになる。しかし、複数の妻子を養う財力さえあれば事実上の一夫多妻制は可能である。こうしてみると、法によって制限されるのは庶民だけであることが見えてくるのである。

 

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マチゲンガ族は、自らの力で自然界から必要なものを得ることができる。しかも、大人になりきる前の年齢のうちに、そうした知恵を身に付ける。そのため、たとえば娘が、父親の決めた結婚相手を受け入れられない場合、娘はジャングルに逃げ込んでしまえばよいことになる。

 

そうしたあり方と比べて私たちが置かれている状況は、長期間に渡って教育を受けた上で、逃げ場もない環境に身を投じてようやく次世代を育むことが可能になるという収容所のような状況である。

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警察も裁判所も軍隊もない社会で人々はどのようにして秩序を維持しているのか。そのためにはどのような条件が必要なのか。それを推測するのに恰好の資料になるのが、この本なのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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