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毎日出てゐる青い空

日々雑感をつづります。ホームページでは本の紹介などもしています。

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一度切りであるということ

一度切りであるということについて考えている。

 

これを考えるようになったのは、我が家の猫たちの生き方や、動物に関する本などから学んだからであった。

 

動物たちの生き方は、まさに一度切りの事象の積み重ねである。親子の関係にしても、他の個体との関係にしても、なわばり争いにしても、それぞれ異なる状況に合わせてそれぞれの個体がそれなりの答えを見つけて生きている。「親子」という言葉もなければ、「兄弟」という言葉もなく、オス・メスという言葉もないが、集まり、分かれ、交尾し、争い、襲い、逃げ、食い食われて、それなりの調和を作って生きている。

 

親とはこういうものであるとか、子はこういうものであると誰も教えてなどいない。私たちと猫たちの関係にせよ、ヨソの猫たちとの関係にせよ、誰にも教わらない中で状況に合わせて築いている。

 

私たちの暮らしもそうではないか、それぞれがそれぞれに工夫して生きているのだという人もあるだろう。しかし、動物たちと私たちには決定的な違いが存在している。それは私たちは、自分で答えを見つけだすのではなく、社会によって生き方の基本が定められているという点である。

 

国民として、成人として、社会人として、私たちは、生き方を規定されている。

 

たとえば、私たちは学校に通うことを義務付けられ、学校で教え込まれる知識が予め決められている。紛争を解決するには決められた手続きに従わなければならず、勝手に川遊びをすることも、貝を掘ることもできない。

 

もっと、根本的な問題となるのは、私たちがこのように枠にはめられて生きることについて問うことを、私たちの暮らす文明社会は嫌っているという点である。

 

たとえば、狩猟採集者たちには許されている、生まれた子を育てないという決断や、老いた親を見捨ててキャンプ地を移動するのだという決断は、私たちには許されていないが、許されていない理由を私たちは知らない。

 

もし私たちが動物たちのように生きていくのであれば、私たちは決められた枠組みに解決策を求めるのではなく、当事者として納得のいくように解決することができ、自分なりの価値観を作って暮らしていくことができるはずだ。しかし、現実は違っている。私たちには動物たちのような本来の当事者としての自由は持ち合わせていないのである。

 

抽象概念は詐欺師への第一歩で記したように、私たちの生活を規定している理論など、実際には詐欺師の言葉と大差のない嘘ばかりである。それなのに、当事者である私たちに大きな制限を加え、私たちの生きる時間の大半を、医療費、住居費、学費、水道光熱費、税金、年金、義務教育、勤労義務などの形で奪っている。私たちは当事者として重要なのではなく、大規模な経済活動を展開し、利益の大半を吐き出してくれるコマとして必要とされているだけになっている。

 

別の視点から見てみよう。生命の本質を見つめていくと、多様な生命が誕生し、毎回白紙の状態から答えを見つけながら生き、次の世代にその答えを伝えることなく死んでいくことの繰り返しが、生命であって、ただいつかは消滅する過程でしかないことがわかってくる。目的などなく、完成することもない。ときの経過によって変わっていく登場人物たちに合わせて二度と繰り返されることのない模様を変えながら続いているにすぎないのだ。

 

生命の本質が変化だとすれば、私たちには、外から与えられる価値観など無意味である。私たちが向き合う状況は一度限りの普遍性のない状況なのであり、誰かが見つけた処方箋は役に立たないのだ。しかもその処方箋は私たちから当事者能力を奪うだけの処方箋であったりもしている。

 

私たちが必要としているのは、作りあげられた枠組みや、これを裏付ける理論体系などでも、そのような理論体系を覚えこむよう要求する社会でもない。当事者として関わることができ、実情に合わせて柔軟に変化する社会である。それに近いのは、強制力を持つリーダーも裁判所や警察もないピグミーら狩猟採集者の社会である。また、知識を一方的に与えられる社会ではなく、『子どもの文化人類学』に描かれたヘアーインディアンのように誰もが「自分で覚えた」と意識するような社会である。

 

 

 

 

 

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