毎日出てゐる青い空

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島人の居場所を奪い、海を汚して、小さな幸せを破壊するキリスト教「民主主義」

フィジー留学で体験したお金で買えない価値。現地の生活が勉強になりすぎた話。 | 俺やで、バナやで。”マンツーマン美容師 ばなのブログ”より

 

『なぁ、若僧。フィジーってどうゆう国だったか知ってるか?

 

そう遠くない昔まで、人食ってたんだぜ?!カニバリズムって奴さ。

 

だけどある時イギリス人がやってきて此処は俺たちの植民地だって言い出したんだ。

 

その時からさ、うちらが人食いを辞めてキリスト教徒になったのは。

 

そんで次はサトウキビ畑作るからそこで働けって言ってきてさ、イギリス人が遠くから連れてきた、インド人と一緒にね。

 

今じゃ彼等(インド人)はかなり増えてしまった。

 

うちらフィジアンが53%、インディアンが45%、残りが中国人って感じだね。

 

なんで中国人が増えてるか知ってるかい??

政府との癒着さ。

 

今や国のトップはインディアンに持ってかれちまった。

 

そしたら彼等(インディアン)は自分達の良いように国を変えてしまうんだよ、此処は俺たちフィジアンの国なのに。

 

最近は中国人が街やインフラを整備してくれてるんだけど、見返りに政府は中国人にやりたい放題されても黙認なんだ。

 

何を?

 

マグロ漁さ。マグロ漁。

どんどん綺麗な海も奪われてるし、スバ(首都)の沖は中国の漁船で一杯だよ。

 

街にも中華料理店や中国人経営のクラブばかり。

このままだと俺らの国は、俺らの村はどうなる?

今はまだ人口の過半数はフィジアンだ。

 

たけど、これからまた中国人が増えてきたら???

俺たちがマイノリティーになるのか?

 

俺たちの国で?

 

絶対にそれはダメだ、

 

これ以上、インディアンの、(中国人も)好きにはさせてはいけないんだよ。

 

最近じゃ国旗のデザインも変わる事が決まってしまった。凄い勢いで国が変わってきてるんだよ。』

 

 

私たちの暮らしは、資源を採掘すること、海を埋め立てて工場を作ること、ゴミ焼却炉や原発を貧しい田舎に押しつけることなど、「この地を守りたい」という願いを一方的に無視できる法律を作った結果としての、地球を破壊する経済活動を基盤として成り立っている。

 

狩猟採集者や、焼畑農耕、小規模な遊牧生活など、巨大権力から逃れる暮らしを続けてきた人々を調べていくと、人は、小さな島や、険しい山に暮らしながら、不便や、不条理を受け入れながら、小さな幸せに満足して、小さな暮らし故の豊かさを得ていたことが見えてくる。

 

それは、漁師とMBAに語られてた漁師の生活である。医療や、大金や、学問は望めないけれど、自分たちのことを自分たちで決めていくことができ、生きている意味を実感できる生活だった。命である私たちが、命の持つどこまでも浸食していき勢力を拡大しようとする欲望を抑えながら、そうした欲望に突き動かされた他者からの浸食を防ぐという、これ以外に選びようのない生き方だった。

 

私たちが学校で教えられる文明開化の意味を、この観点から捉え直してみれば、文明開化とは、小さな幸せを持ち続けることをできなくして、住民の意志を法の力で排除して、巨大権力の思うままに土地を収奪し、労働を押しつけ、公害を垂れ流すことを可能にするための仕組みの導入でしかなかった。それは、浸食に負けた生き方だった。

 

シベリアの森で、カラハリの砂漠で、オーストラリアで、アメリカで、ブラジルで。人は、生命として生きる幸せを「野蛮だ」「人権無視だ」と非難されて放棄させられ、ほんの一握りの人々を豊かにするようにあらゆる制度が作り上げられた文明社会で、生命活動とは乖離した経済活動にできるかぎり専念する存在として、自決権のない「民主主義」を信じて生きるよう強制される。漁師として生きるのではなく、大規模な会社の従業員として海を汚し、かつての仲間を見捨てて生きることを選択しなければ、子を持つことは難しい。

騙されてはいけない。

 

 

 

6月2日、西枇杷島町の祭りにて

背の高い山車を多数の提灯が照らし、若い衆たちの力でゆっくりと動く。

提灯の明かりは柔らかく、風や山車の動きに連れて動く様は

霊魂が浮遊しているようでもあった。

 

先頭にはカクシャクとした数人の老人たちの正装。

 

山車を押すのは、若い筋肉質の男たち。

 

からくりが動き、山車に乗った奏者たちによるお囃子の音が包む。

 

 

 

土手にかかる坂の下まで来て、山車は止まった。

山車の中から若い女性たちが降りる

続いて男性たちも降りてきた。

お囃子の主である。

 

明日の祭りに備えて一晩明かすのか、

それとも坂の上の保管庫まで上げるのかわからないが、

一旦休憩のようである。

 

 

地元の女性たちによって、

関係者にふるまい酒が薦められ、

山車は明りをともしたまま休息の時を過ごしている。

 

 

呼び物の打ち上げ花火が続き、

いよいよ大玉が盛んに打ち上げられて佳境を迎え

少し落ち着いた頃、

意外にも、お囃子が再開された。

 

お囃子の音とともに、山車も動き始めた。

 

まず、向きを変える。

 

お囃子隊を乗せた山車のかつぎ棒を若者たちが肩に乗せて車輪を上げ、

つっかえ棒を差し込みながら、その場で山車を180度転回させる。

 

方向転換を終えた山車は、

土手の坂を登り始める。

 

機械の力を借りるのかと思っていたが、

すべて人力だ。

 

少しでも軽くするために人が降りるのかとも思ったがそうではなく、

中に人を乗せて演奏を続けながら動かすのだ。

 

曳き綱を付けるわけでも、

わらわらと男たちが押し寄せて押すわけでもなく、

少人数の若者たちが山車を坂の上まで押していく。

 

力の限り押しながら「押してー!、押してー!!」と叫ぶ若者たちに合わせて

自分も思わず声が出る。

若者の声にも、子どもや若い女性が遊び半分に梶棒の端を押すだけであったが、

山車は無事頂上まで登りついた。

 

========

 

私が目にしたのは、

『逝きし世の面影』に描かれたような歌を歌いながらの労働でもあり、

効率性ではなく、祭りとしての有り方を大切にしている場面であり、

賑わいの底から静かな思いが浸みこんでくる、

この地の人々の信じてきた精神世界でもあった、と思う。

 

ただ機械的に押し上げればよいと考えていた私を恥じながら、

どうにも感嘆するほかなかった経験だった。

 

 

 

 

 

動物たちは遊び、死を知り、判断し、個性を持つ、命である

 「死」の概念を人が知ったのはネアンデルタール人になってからだという。しかし、アフリカスイギュウたちが孤立したライオンを襲う様子を見ていると、アフリカスイギュウたちは、仲間を殺すライオンに復讐していることがわかる。

 

人が声を出すことができるのは、水中生活を経て呼吸を調整できるようになったからだという人もいる。しかし、ホッキョクグマの様子や、ライオンを溺れさせようとするシマウマの様子を見ていると、水中では息ができないことを十分にわかっている。しかも、呼吸を調整する方法は多くの動物が生来持つ能力のようである。

 

チーターやヒョウは、怪我を負わせた獲物を子どもにまかせて狩りを教える。それは本能というよりも、自らの記憶や、子どもたちの能力を踏まえた行動のように見える。道路や川を渡るサルは子ザルの通行を補助する。動物たちは相手の能力を推測する能力を持つように見える。

 

ベンガルトラがゾウの上に乗った人を襲う動画がある。ベンガルトラには、人がゾウを操っていることがわかっている。

 

猫たちは互いに舐めあい、匂いを嗅ぎ合って関係を作る。我が家の猫たちは、それぞれに個性を持ち、私たちとの関係の持ちようもそれぞれに異なっている。「猫」としてよりも、個性を持つ命として、強い存在感を感じさせ「猫」という分類に入るのかどうかさえあやふやに思わせるほどである。

 

カラスたちは餌を見つけると声を上げて仲間を集める。カラスたちがそんな行動をとるのは、カラスもまた個性を持ち、個々に生きる存在だからなのだろう。ゆるやかな集団を作り、キャンプ地を移動しながら暮らすブッシュマンたちと同様なのだ。

 

人をホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)と名付けようとする人がいる。しかし動物たちを見ていると、遊びはヒトだけのものではないことがわかる。ホッキョクグマも、カラスも、ネコたちも、おどろくほど遊び好きで、新しい遊び方を考え出す工夫の天才だ。

 

動物たちの本当の姿を知ってみれば、人と他の動物たちに本質的な違いはまるでない。

 

自然に囲まれた暮らしの中で、人は動物たちと人に本質的な区別をつけず、むしろ優れた能力を持つ者たちとして憧れを抱いたり、祖先に位置づけたりしていた。

 

ところが、農地を作り、家畜を飼い、集落ができ、都市が生まれて拡大するに連れて、拡大した人口環境は、人と動物の距離を広げ、人は動物と人を区別した。さらには、人だけは優れた存在であるとうそぶくようになった。

 

事実は、人も動物も本質的に変わらない存在である。素晴らしく見える面もあれば、愚かに見えたり、野蛮に見えたりする面もある。死を知り、敵を知り、時に助け合い、時に裏切り、何よりもまずご都合主義的で利己的な存在である。

 

 

私たちの生きる世界もまた、人工環境と文明によって本質を見えなくされている。

 

生まれて間もなく肉食獣の餌食になる草食獣の子どもや、海に向かう途中に次々と食べられていくウミガメの姿を見れば、命のむごさを思う。しかし、そうした生き方の中にしか命の本質はなく、ヒトの作り上げた人工環境のほうが幻想である。

 

肉体の美しさは物理的な厳しさのたまものであり、生き物の種類の豊富さは、せめぎあいの中から生まれて来る。平和で豊かな世界などどこにも存在してはいない。

 

こうした命の本質を知って見れば、権利や義務などという言葉を生み出す一方で、架空の金融システムやグローバル企業に支配された文明社会はむなしいだけの生き方だ。動物や植物の生態を知り、生と死の近さを知って生きていた未開生活にこそ本物の生き方がある。

 

文明社会に暮らす中で、このことが忘れられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動物たちが教えてくれる、言葉の怖さ

カレンダーや時計に従って考えることに慣れてしまった私たち。

 

本当は、日曜日も月曜日もなければ、単調に刻まれる時間もない(私たちにとって重要なのは物理的な時間ではない)。自分が何歳であるのかを知る必要もない。

 

「罪」という言葉がなければ「罪悪感」を持つ必要もない。

「悪」も「善」も「美」も言葉があるから、私たちは言葉にとらわれる。

 

動物たちは、こうした概念を生み出すことも、伝えることもできないことで、大きな恩恵を受けている。

 

法律に縛られることもなければ、金銭労働も必要なく、世界観を植え付けられもしない。

 

私たちは命であり、命は本来的に身勝手である。わずかな隙間にももぐりこみ、生き残りを図る植物の様子に命の姿が現れている。どこまでも自らの力を拡大しようとする命。そうした命に、技術力が大きな力を与えれば、火災旋風をまきおこしてすべてを滅ぼしてしまいかねない。

 

そんな命が言葉を持ち、理性、権利、民主主義などの概念を作り上げつつ、技術力を得てできあがったのが文明社会だった。つまり、文明社会には、実態を隠す嘘にあふれている。文明社会を支配する命たちは、自らの勢力拡大のために、事実を隠して嘘をふりまく情報だけを広く流通させていく。 

 

日本が世界システムに組み込まれた時期である明治維新に、政府が急いだのは、学校教育と新聞社の設立だった。教育とマスコミで嘘を教えるためであった。

 

そうして嘘を教え込まれたことで、私たちは、命の本来の姿を見えなくされている。人は、他の動物たちと同じように命であり、理性によって大きな社会を運営するなどといった芸当は決してできない存在なのだ。

 

言葉があることで私たちは嘘を信じ込み、義務を負わされ、生き方を決められる。個々に言葉の怖さがある。言葉などないほうがましなのだ。

体の芯に自然を抱えた私たちが自然を征服しようとする愚かさ

私たちの体の最も深い部分には、私たちにはどうすることもできない自然がある。(「覚醒する心体」)

 

身体性を問い続ける仏教が、身体性を前提としない一神教よりも本質的である理由がここにある(「阿修羅の呼吸と身体」)。

 

身体性を前提としない一神教は、世界中から自然の象徴である森を消し、世界中を人の能力によって変えていこうとする。

 

天然痘を撲滅し、マラリアを撲滅しようとし、遺伝病をなくすことを目論み、臓器移植でも、遺伝子組み合えでもおかまいなしである。

 

そうしてできあがった世界は、身近な環境から食べ物を得るもできず、気分や天気に合わせて一日の行動を変えることもできない、不毛な世界だ。

 

森の猟人ピグミーは森に目覚めていてもらいさえすれば、万事うまくいくと云う。一神教の世界は、森を壊し、万事うまくいかなくしてしまう。

 

万事うまくいくとは、病気や飢えのなくなることではなく、適度に病気にかかり、適度に飢えて、適度に死んでいくことだった。

 

 

森の目覚めを願う狩猟採集者たちの目から農耕と牧畜のもたらした結果を検査してみれば、農耕・牧畜とは、多種多少な生物によって構成されていた豊かな環境を破壊して少ない種類の生物ばかりを集めた貧しい空間を増やし、人口密度を上げて争いを激化させる害悪であった。

 

森に従って生きる狩猟採集者たちの暮らしは「万事うまく」いっている。寿命が短く、危険に溢れ、厳しい自然と直に接しているが、税金も会社も学校もマスコミもない、素晴らしい暮らしであり、自らの力の続く限り精一杯生きることのできる暮らしであり、長く続けることのできる暮らしである。

 

そんな暮らしを捨てて、農耕民である私たちが築き上げたのは、あらゆる活動が環境破壊を招き、富の偏在を招き、一切の自由のない暮らしである。しかも、続かないとわかっている暮らしである(一神教や仏教などの宗教は、森を捨て農耕に走った人々の生きる辛さが生んだ)。

 

森は自然を抱え込んだ人を、自然を破壊する文明から守ってくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

遺伝子組換えの本当の目的

 

かいつまんでいうと、遺伝子組み換えは、生産量を上げることや、理想的な品種をつくることを目的としているのではない。遺伝子組み換え技術を持つ特定の企業(つまりは特定の株主たち)に、利益をもたらす仕組みを作り上げることを目的としているのだというのが私の分析だ。

 

 

たとえば、大きさが均一で、長く保存でき、病害虫に強く、除草剤をかけても枯れない遺伝子組み換えトマトができて、他の品種ではたちうちできないとしよう。通常、このトマトはうま味において従来の品種に劣るのだが、輸送や加工、安定供給という点で優れていることから、あっというまに市場を席巻することになる。

 

そうなると、農家はこのトマトを作らざるをえなくなってしまう。

 

もちろん自家採種などできないから毎年苗を買うことになる。その上で、除草剤も同じ企業から買うのである。

 

こうした手法によって、遺伝子組み換え企業は、莫大な利益を得ることになる。

 

そして、これこそが、遺伝子組み換えの本当の目的だ。

 

 

私たちは、命という本来的に利己主義な存在であり、私たちが手にいれた能力は、命の利己性によって利用されている。遺伝子組み換えに関していうと、増産と改良を目指すというのは表向きの理由でしかなく、本当の目的は上にあげたような独占とそれによる利益の獲得であるということになる。

 

この視点から遺伝子組み換えをめぐる歴史を見直してみれば、責めるべきは、遺伝子組み換え食品の危険性ではなく、食の独占に持っていこうとする意図のほうであるということが見えてくるのである。

 

 

保守/革新という嘘

国家という枠組みは虚構だ。

 

日本が世界システムに組み込まれた明治維新を契機として、義務教育が開始された。

これが、虚構としての国家の始まりだった。

 

日本は、戦力の圧倒的な差の前に降伏した国家であり、世界システムの要請に応じて物を作り、物を買い、戦争をしかけ、戦争に負ける役割を負わされた。

 

虚構国家は、民主主義と義務教育を象徴として、国民を一人残らず徹底的に管理し、人々の生き方を決めるようになった。

 

そんな虚構国家を、まるで自分自身であるかのように必死で守ろうとする保守勢力も、国家の枠組みを超えて地球規模の連帯を目指す革新勢力も、従って、哀れなピエロでしかなかった。

 

ピダハンや、ブッシュマンや、ピグミーたちは、国家に組み込まれた囚人としてではなく、自らの意志で生きる動物として生きることができた。それも、世界システムへの組み込み、すなわち選挙権を与えられ、義務教育を受けさせられることによって終わっていく。

 

人類学は、民主主義や国民主権に最も近かったのは、遊動する狩猟採集社会であったという事実を教えてくれる。世界各地に、利己主義者たちの作る平等社会ができていたのである。

 

未開社会では、部族ごとに一定の範囲を住処とし、そこに別の部族の男たちが集団を作ってやってくれば、それは侵略の意図を意味する。

 

ブッシュマンもピグミーも農耕民との付き合いに余計な理想を持たず、したたかに交渉しようとする。

 

そうしたあり方は、世界システムに組み込まれて世界システムにとって都合のよい教育を受けさせられている私たちに、本当のことを教えてくれる。

 

西洋文明を讃美することではなく、西洋文明を讃美させる世界システムの本質を知ることによって、私たちは世界システムから脱却する可能性を手に入れる。

 

保守/革新は嘘である。

 

 

 

 

 

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