毎日出てゐる青い空

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動物たちは遊び、死を知り、判断し、個性を持つ、命である

 「死」の概念を人が知ったのはネアンデルタール人になってからだという。しかし、アフリカスイギュウたちが孤立したライオンを襲う様子を見ていると、アフリカスイギュウたちは、仲間を殺すライオンに復讐していることがわかる。

 

人が声を出すことができるのは、水中生活を経て呼吸を調整できるようになったからだという人もいる。しかし、ホッキョクグマの様子や、ライオンを溺れさせようとするシマウマの様子を見ていると、水中では息ができないことを十分にわかっている。しかも、呼吸を調整する方法は多くの動物が生来持つ能力のようである。

 

チーターやヒョウは、怪我を負わせた獲物を子どもにまかせて狩りを教える。それは本能というよりも、自らの記憶や、子どもたちの能力を踏まえた行動のように見える。道路や川を渡るサルは子ザルの通行を補助する。動物たちは相手の能力を推測する能力を持つように見える。

 

ベンガルトラがゾウの上に乗った人を襲う動画がある。ベンガルトラには、人がゾウを操っていることがわかっている。

 

猫たちは互いに舐めあい、匂いを嗅ぎ合って関係を作る。我が家の猫たちは、それぞれに個性を持ち、私たちとの関係の持ちようもそれぞれに異なっている。「猫」としてよりも、個性を持つ命として、強い存在感を感じさせ「猫」という分類に入るのかどうかさえあやふやに思わせるほどである。

 

カラスたちは餌を見つけると声を上げて仲間を集める。カラスたちがそんな行動をとるのは、カラスもまた個性を持ち、個々に生きる存在だからなのだろう。ゆるやかな集団を作り、キャンプ地を移動しながら暮らすブッシュマンたちと同様なのだ。

 

人をホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)と名付けようとする人がいる。しかし動物たちを見ていると、遊びはヒトだけのものではないことがわかる。ホッキョクグマも、カラスも、ネコたちも、おどろくほど遊び好きで、新しい遊び方を考え出す工夫の天才だ。

 

動物たちの本当の姿を知ってみれば、人と他の動物たちに本質的な違いはまるでない。

 

自然に囲まれた暮らしの中で、人は動物たちと人に本質的な区別をつけず、むしろ優れた能力を持つ者たちとして憧れを抱いたり、祖先に位置づけたりしていた。

 

ところが、農地を作り、家畜を飼い、集落ができ、都市が生まれて拡大するに連れて、拡大した人口環境は、人と動物の距離を広げ、人は動物と人を区別した。さらには、人だけは優れた存在であるとうそぶくようになった。

 

事実は、人も動物も本質的に変わらない存在である。素晴らしく見える面もあれば、愚かに見えたり、野蛮に見えたりする面もある。死を知り、敵を知り、時に助け合い、時に裏切り、何よりもまずご都合主義的で利己的な存在である。

 

 

私たちの生きる世界もまた、人工環境と文明によって本質を見えなくされている。

 

生まれて間もなく肉食獣の餌食になる草食獣の子どもや、海に向かう途中に次々と食べられていくウミガメの姿を見れば、命のむごさを思う。しかし、そうした生き方の中にしか命の本質はなく、ヒトの作り上げた人工環境のほうが幻想である。

 

肉体の美しさは物理的な厳しさのたまものであり、生き物の種類の豊富さは、せめぎあいの中から生まれて来る。平和で豊かな世界などどこにも存在してはいない。

 

こうした命の本質を知って見れば、権利や義務などという言葉を生み出す一方で、架空の金融システムやグローバル企業に支配された文明社会はむなしいだけの生き方だ。動物や植物の生態を知り、生と死の近さを知って生きていた未開生活にこそ本物の生き方がある。

 

文明社会に暮らす中で、このことが忘れられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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