動物たちが教えてくれる、言葉の怖さ
カレンダーや時計に従って考えることに慣れてしまった私たち。
本当は、日曜日も月曜日もなければ、単調に刻まれる時間もない(私たちにとって重要なのは物理的な時間ではない)。自分が何歳であるのかを知る必要もない。
「罪」という言葉がなければ「罪悪感」を持つ必要もない。
「悪」も「善」も「美」も言葉があるから、私たちは言葉にとらわれる。
動物たちは、こうした概念を生み出すことも、伝えることもできないことで、大きな恩恵を受けている。
法律に縛られることもなければ、金銭労働も必要なく、世界観を植え付けられもしない。
私たちは命であり、命は本来的に身勝手である。わずかな隙間にももぐりこみ、生き残りを図る植物の様子に命の姿が現れている。どこまでも自らの力を拡大しようとする命。そうした命に、技術力が大きな力を与えれば、火災旋風をまきおこしてすべてを滅ぼしてしまいかねない。
そんな命が言葉を持ち、理性、権利、民主主義などの概念を作り上げつつ、技術力を得てできあがったのが文明社会だった。つまり、文明社会には、実態を隠す嘘にあふれている。文明社会を支配する命たちは、自らの勢力拡大のために、事実を隠して嘘をふりまく情報だけを広く流通させていく。
日本が世界システムに組み込まれた時期である明治維新に、政府が急いだのは、学校教育と新聞社の設立だった。教育とマスコミで嘘を教えるためであった。
そうして嘘を教え込まれたことで、私たちは、命の本来の姿を見えなくされている。人は、他の動物たちと同じように命であり、理性によって大きな社会を運営するなどといった芸当は決してできない存在なのだ。
言葉があることで私たちは嘘を信じ込み、義務を負わされ、生き方を決められる。個々に言葉の怖さがある。言葉などないほうがましなのだ。