毎日出てゐる青い空

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文明は人を経済活動のための家畜にして利用する

お付き合いいただきありがとうございます。

前回の続きです。

 

現在のトップ画像はアフリカのカラハリ砂漠に住んで狩猟採集生活を送っていたブッシュマンの姿です。

 

定住化を強いられる前のブッシュマンは、ピグミーと並ぶ代表的な狩猟採集者たちであり、多くの人類学者が研究のために彼らの村を訪れていました。そして、彼らのような生き方がまだ地上にあることに、人はこのような生き方もできるのだと安堵をおぼえてもいました。

 

文字も、貨幣も、大規模な集落もない彼らの生活は、動物的な生活といえます。生活の大半は、日々の食べ物を得ることと、生活に必要なものを作ったり、周囲の農耕民との物々交換によって手に入れたりすること、そして、動物の群れのように、家族や小集団で移動しながら子孫を残していくことに費やされます。カレンダーもなければ、税金もなく、会社も、学校もありません。ライオンがうろつき、ヒョウが樹上から狙って来るとしても、一方的に恐れるだけではなく、ライオンの獲物を横取りしたりもする暮らしです。野生のスイカが蓄える水に頼って乾季を乗り越えてきました。

 

私たちの暮らしからは、彼らの暮らしにあるさまざまなものが失われています。職場に親が通うことで奪われる家族の時間。同じ年齢の子どもたちを閉じ込めて教え込まれる価値観と、それによって奪われる遊びまわれる子ども時代。民主主義といいつつ実際には与えられていない裁量権。時計とカレンダーに縛られる日々。法律によってがんじがらめにされた行動。

 

かつてのブッシュマンの暮らしは、集団のサイズや、決まりごとも、動物たちの生き方に近い、本来的なあり方でした。労働時間は1日3時間ほどだったといいます。

 

 

なぜ、文明の進歩とともに人は苦労を背負いこんでしまったでしょうか。私が出した答えは、「文明は経済的な観点から人の資源としての価値を高めることを目指す存在だ」ということです。

 

 

文明社会は、きままな生き方を許さず、貨幣経済に組み込んで、さまざまな決めごとを押し付けていきます。人としてのあるべき生き方は、ブッシュマンやピグミーのような人の本来の生き方とはまるで違った生き方であると教え込んできます。よりよい収入を目指す生き方であったり、文明社会をさらに発展させることに努力する生き方であったり、文明生活を最大限楽しもうとする生活であったりします。生命の豊かな環境で、体を動かし、自然を感じながら、人の都合が通らない世界を受け入れるという生の本質にしたがって生き方ではありません。倫理観や理性や愛や神の意志などといった抽象概念に縛られて、これに従うことを目指す生活です。

 

元々、部族が共有していた土地は、文明社会では、国家のものとなり、企業の経済活動のための利用されていきました。土地から無償で得られていた食べ物は、労働の対価として手に入れるしかなくなりました。職を得る心配など不要だった日々は去り、職を得るために教育を受け、資格を得るために努力しなければなりません。医療も、住居も、生も死も、すべてがカネに結び付けられて、人は一生をカネを追って暮らすことになりました。

 

ここで、罪という概念を考えてみます。人は人を殺せば罪を犯したと見なされ罰せられます。しかし、動物の世界に本来罪はありません。猫が猫を殺しても罪にはなりません。一方、文明社会では土地を個人が所有することや、電気を使うことは罪になりません。しかし、理論上はいずれも人を殺す以上の罪に問うことが可能です。

 

土地は部族の皆のものであり、それを私有しようとする者は暗殺されたとしても当然であったりします。電力の利用は、環境破壊につながり、部族に必要な食べ物や家を建てるための葉や、燃料を枯渇させることになるとなれば、電力を利用する者は、厳しく罰せられることになります。

 

これはほんの一例ですが、文明社会の規則は、さまざまな理屈付けの中の一つだけを正しいと規定することによって、人の生き方をカネに結び付けています。たとえば、医療を免許制にすることと、誰でも自分の責任で医療行為を行って良いこととどちらが本来的なのかといえば、実は後者です。土地を私有することや、貨幣を使うことも、本来はいけないことかもしれません。放送免許や、学校制度もそうです。

 

生命の利己性に、言語の持つ技術を高める能力、抽象概念を作る能力、意図を具体的に伝える能力が結びついたことで、文明が生まれました。文明の支配者たちは、人の資源としての価値を高めるように、理屈を作り、技術を利用し、制度を作りあげてきました。そのため、時代が下るほどに人は多忙になり、要求される能力が高度化し、生き方を制限されるようになっています。

 

この状態をどうすれば脱することができるのかについては、改めて考えたいと思います。

 

本日もお読みいただきありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ヘビをたべるヘビ

ヘビを食べるにはヘビになるに限る

 

ヘビが細長い体と手足なしに移動できる能力を手に入れて、この能力を生かして繁栄しはじめると、繁栄したヘビ類をエサとする別種のヘビ(コブラ)が誕生する。ヘビを食べるには、獲物のヘビ同じように細い体と手足なしに移動できる能力を持っていることが有利に働く。

 

空を飛ぶ鳥が増えれば、鳥を食べる鳥(ハヤブサ)が登場する。

 

海に進出したクジラがイカを餌にして増えていくと、クジラを食べるクジラ(シャチ)が生まれる。

 

蚊の仲間にも他の蚊のボウフラを食べる種類(オオカ、カクイカ)がいるらしい。

 

ことほどさように、生命の肉体は資源(エサ)となって、捕食動物を生むのである。

 

肉体は資源であり、資源(エサ)が豊富になればこれを利用しようとするものが(特に同じような能力を持つものの中から)生まれてくることがわかる。

 

肉体という資源に関しては、共食いという行動もある。 

 

共食いは種の繁栄に逆行する行動のように見えるが、合理的だから起きるはずである。それを説明するには、人間の行う牧畜から話を始めるとよさそうだ。人間は自分では食べることのできないような植物を肉に変える方法を発見した。高緯度地方に住む人々は、夏の豊富な緑を餌に動物を飼い、冬を前に殺して肉にする。こうして、農耕に向かない寒い土地でも、植物を肉に変えて生きることができる。ヨーロッパで肉食が進んだ理由である。

 

インドネシアのコモド島だけに住むコモドオオトカゲは成獣が幼獣を襲って食べてしまう。ヨーロッパにおける牧畜との類推から、このような行動も、自分では食べることのできない食物を間接的に取り入れることになっている可能性が考えられる。つまり、成獣の餌になる大型動物の少ないコモド島で、虫や小型の爬虫類を食べて育ったコモドオオトカゲの幼獣が、成獣のエサになることで種を維持しているかもしれないのである。

 

同じようなことが、ホッキョクグマの共食いにも考えられる。ホッキョクグマの共食いは、地球温暖化の影響でエサが少ないせいで起きているように伝えられることが多いが、元々食糧の季節変動の多い地域に暮らすために、アザラシの豊富に得られる季節に太った仲間を、アザラシの捕れない季節にエサとして利用することでホッキョクグマは種を維持してきた可能性があるのだ。

 

こうして資源としての命とその利用について考察してみると、資源が増えればそれを狙うものが生まれ、しかも、獲物と似た性質を持つものから生まれやすく、そのうえ、資源の利用には倫理など無関係であることが見えてくる。その上で人類を考えると、ヒトは肉体という資源であるだけではない。労働力として、消費者として、研究者として、芸術家としてなど、ヒト特有の価値を持つ存在でもある。文明は、こうしたヒト独自の資源としての価値を高めるように、ヒトを家畜化する方向に発展してきたのだと、私は考えている。

 

その話は長くなるので、次回に回したい。

 

 

 

 

 

若おかみは小学生は大人も見たいアニメ映画だった

児童文学を原作とする映画「若おかみは小学生」が上映されています。

 

ポスターも子ども向けの絵柄になっていて自分には縁のない映画だと思っていましたが、今世紀最高の映画だったというブログを読んで気になり、たまたま時間があったので見てきました。

 

prehyou2015.hatenablog.com

 

死について

 

このアニメには、身近な人たちの死が描かれています。若くしてこの世を去った人たちがいて、残された人たちがいます。

 

動物たちにとって、死は身近なものです。一回に数頭の子を生む肉食獣であれば、子育ての途中で子を失うことのほうが当たり前です。子を失ったからといって、嘆き悲しんでいては、残った子どもたちを育てられません。

 

この映画に登場する、若い死者たちは、そんなことを思い出させてくれました。

 

かといって、このアニメには、主人公が身近な人の死と向き合い、絶望し、苦しむ様子は、あまり描かれてはいません。実際に身近な人の死を経験した人は、描かれていない点に落胆し、非現実的であると感じるかもしれません。しかし、それは、身近な人の死を受け入れることができないでいる主人公の姿を正確に描いた描写であるともいえると私は感じました。

 

目に見えない世界について

 

この映画のもう一つの見どころは、見えない世界の存在です。私は唯物論者で、死んでしまえばそれで終りだと考えています。一方で、私たちの肉体は、世界を生命として理解するようにできており、科学的にいえば生命を持たない物に生命を感じ取り、死者の声を聞き、木の精を見るようにできています。そうした意味では、物理的な世界は私たちにとって嘘の世界で、私たちの肉体が感じ取った生命の存在する世界こそが本物の世界です。

 

この映画に描かれているのは、そうした目に見えない生命の世界であると言えます。もちろん、物語ですから、上に書いたような説明を超える具体性を持っています。その点は、創作物である以上どうにもならないでしょう。

 

ピダハンは、精霊の姿を集団で目撃するといいます。その精霊のすがたを白人であるエヴェレットは目にすることができません。私は、動物と同じような暮らしを続けるならば、人も大人になっても精霊を目にし続けることができるのではないかと考えています。

 

このアニメには、神社が頻繁に登場します。私たちにとって神社という場所は、大きな木に囲まれてフクロウやヘビやムササビが住むところです。日本人にとって宗教は、そうした自然環境と切り離せないものです。目に見えない世界と目に見える世界をつなぐ場所として、神社は欠かせないものであることを思い出させてもくれます。

 

小さな生きものたち/医食同源/ライトアップにご注意/占い師

 

このアニメでは、他にも、よく考えて作られているなというシーンがたくさんあります。それが上にあげた点です。

 

 

まとめ

 

何よりも、シリアスになりすぎないように、コミカルなシーンが挟まれていることで、涙をながしながらもすぐに笑いに戻れるところが最高でした。

 

 

多くの死をとりあげながら、忘れさられ、商業化され、否定されていく、日本人が昔から大切にしてきた見えない世界の大切さを伝えてくれている映画だと私は受けとめました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

祟りと権利

ネットから拾った文章を2種類

 

『井戸を壊したり埋めると、末代迄呪われる怖い話は本当です!!』 - 欠陥建築バスターズ

 

『井戸を壊したり埋めたりすると、死人、病人、破産、自殺者…』

 

建築に関わる人なら、誰でもこう言います!!

『井戸を壊したり埋めたりしたらアカン!』

『末代迄、呪われ、祟られる!』

 

…こんなの迷信だと思いますか? でも、私は信じます!

『実際に、多くの悲劇を見て来たからです!』

 

実例その1

…ある場所で、先祖代々地主として富を得て、市会議員を4期も勤めた上に、マンションを2棟にパチンコ店1件を持ち、大豪邸に住んでいた男性が居りました。

ところが…

…庭にあった、先祖から代々使用して来た井戸に蓋をしてから、悲劇は起こりました。

『井戸の蓋には、通気用の穴があったのですが、こんなのは、気休めでしかありません! ついに、呪いは実行されたのです。』

 

…この元市会議員は、22億円を越える資産があったのですが、井戸に蓋をしてから、たった2年で破産してしまいました。

『現在、この元市会議員の居所さえも不明です。風の噂では、ヤクザに殺されて埋められたのではないかとも言われています。』

 


実例その2

…ある旧家が遺産相続で、宅地400坪が売却されました。そして、その土地にマンションが建設されたのですが、その時に古い井戸を壊して埋めました。

『マンションは完成し、分譲されましたが、完成した年だけで、2人の飛び降り自殺があり、翌年には、マンションの一室で焼身自殺までありました。』

『更に、このマンションを販売した会社の社長も、不可解な死に方をして、マンションの施工業者の社長も、川に飛び込んで自殺しました。』

 


実例その3

…ある会社の敷地に、古い井戸があったので、この会社の社長は、神社の神主にお祓いをしてもらってから、空気抜きのパイプをさした状態で、砂で井戸を埋めました。

『すると、それまで、景気が良くて、会社は右肩上がりに売り上げを伸ばしていたのに、井戸を埋めてからは、一転して経営危機が続き、社長と社長の妻、それに娘2人が精神病になり、会社も倒産しました。』

 


…これらは、全て、私が良く知る人達の悲劇です!

『私は、必死に、井戸を壊したり埋めたりしない様に、アドバイスしたのですが…』

 

結論…

『井戸は絶対に、壊したり埋めたりしてはいけない。』

『蓋をしたり、空気抜きをしても、井戸の呪いや祟りからは逃げられない!』

『神主のお祓いも、何の効果もない!』

 

 

 

 

小学校社会 6学年 下巻 - Wikibooks

裁判所の仕事[編集]

 
裁判所のしくみ。判決に納得できない場合は、何回か上級の裁判所にうったえることができます。
裁判所の種類
 最高裁判所 




高等裁判所
地方裁判所
家庭裁判所
簡易裁判所

裁判(さいばん)では、国民どうしのあらそいごとを解決させたり、犯罪をうたがわれている人の罪のあるなしを決める。

裁判(さいばん)を行うことができるのは裁判所(さいばんしょ)だけである。

裁判を行う権利を司法権(しほうけん)と言う。司法権は裁判所しか持つことが出来ません。


国民は、だれでも、裁判を受けられる権利をもっている。しかし、裁判をひらくことのできる権利をもつ組織は、日本では裁判所だけである。

裁判を受けるということは、けっして罪(つみ)や罰(ばつ)ではなく、権利なのです。
たとえば、もし裁判を受ける権利がないと、どうなるかというと、いきなり、だれか偉い人から「オマエは死刑だ!」とか「あしたからオマエの払う税金が年間に1000億円だ!」とかアナタが言われても、もし裁判がなければ、さからうことができません。
でも、裁判の制度があるから、「私には、そんな義務はありません! 税金を1000億円も払う義務は、私には、ありません! 死刑にされる義務なんて、ありません!」と、裁判所で主張する事ができるわけです。
だから裁判を受けることは、権利なのです。


さて、さきほど言ったように、裁判を行う権利のことを司法権(しほうけん)と言います。司法権は、裁判所しか持つことが出来ません。

国会も内閣も、裁判には口出しできないのです。

 

「祟り」も「権利」も抽象概念です。

「祟り」があると信じることと、「権利」があると信じることは、

どこに違いがあるのでしょう。

 

祟りを信じる人々を、愚かで、合理性のない人々であると考えるなら、

権利を信じる人々も、同じく愚かで合理性のない人々です。

 

「権利」があるように見えるのは、

「権利」があるかのように社会制度が

仕立て上げられているからにすぎません。

 

 

 

現実を見て見れば、「権利」という言葉は、

人間を労働力として利用することに使われました。

解放されたはずの女性は労働者になり、

夫も家事に育児にと多忙になり、

睡眠時間は経る一方です。

 

権利という言葉は、土地を奪って経済活動に利用するために

発明された言葉のようにも思えます。

裁判を起こして国や企業にとって都合のよい判決を下せば、

合法的に土地を占有できます。

かつて存在していた土地の総有という概念は一顧もされませんでした。

『平等と不平等をめぐる人類学的研究』

 

 

また、『イシュマエル―ヒトに、まだ希望はあるか』にあるように

この世界は人の都合に合わせて作られてなどいません。

そのため人の都合で「権利」などという言葉を作りあげてみても

現実には意味を持ちません。

むしろ、権利などという言葉のなかったときのほうが、

平等性が高かったり、

生命の不都合さに沿った

本来的な生き方ができていたりもします。

 

 

「祟り」と「権利」という2例が示すように、

抽象概念を発明し、物語を作ることで、人は

事実がどうであるのかを見るのではなく

描かれた絵のほうを信じ込んでしまっています。

 

 

 

抽象概念の有害性を利用して、

支配者は大衆を操作していきます。

 

 

 

 

 

 

 

海で

30年ぶりの海水浴

 

前回泳いだときのことは覚えていない。

 

今回は、シュノーケルを付けて、あまりよくは見えない海底をみながら、1メートルほどの深さの岸辺で泳ぐ時間を多くすごした。

 

100円ショップで売っている小さな浮き輪を頼りに水に浮き、ゆっくりと移動する。

 

バタ足の力は思った以上に弱く、手の力も加えてやらないと進むこともままならない。

 

水に顔を付けてしまえば、どちらが陸でどちらが沖なのかも判然としなくなり、沖のほうに行きすぎたかもしれないと不安に顔を上げ、足を伸ばして見れば、かえって陸に近付いているという落ちが付く。

 

私が顔を付けて泳いでいるそばを別の海水浴客が通って水底に落ちる光をさえぎると、巨大な魚が迫ってきて暗くなったように錯覚し、ここでも気弱になるのである。

 

しかし、水につかってさまざまに動きを楽しんでいると、1、2時間の予定だったはずの海水浴が、あっという間に3時間を超えてしまっている。それは、肉体が新しい運動を覚えていく楽しい時間でもある。

 

さっきより少し深いところへ行ってみたり、速く泳ぐ工夫をしたり、もぐってみたり、ただ浮いてバランスをとってみたり。

 

そういえば、海底から真水がわき出す場所でもあったようで、部分的に海水の温度が低かったのも面白かった。

 

日常生活では感じない、自分の体に備わっている能力の程度を感じ、命に対する不安感を覚え、子どもの頃のようあっという間に時間が過ぎ、空腹も忘れている。

 

 

 

ヒトが文明を発達させるまでは、ヒトも動物として生き、こうした時間の過ごし方だけが存在していたはずだ。

 

楽しみの中で食べ物を得、厳しい自然と対峙することもまた楽しく、遊びの中に暮らしがあり、厳しさの中に楽しさがあったはずだ。

 

 

身体の人類学 カラハリ狩猟採集民グウィの日常行動」には、自然の恵みに全面的に依存して生きる人々がいることに感動と驚きを覚え、人間はもっとべつな生き方ができると感じ、母国の生活で衰弱した自分が「元気」をもらえるのだという内容が記されている。

 

 

現代社会は、実際には、奴隷制、植民地支配の延長線上にある。金融システムや、著作権、法人、特許、裁判制度などによって人は金に縛りつけられている。しかし、学校教育やマスコミは、民主的な社会へと向かう現在を強調し、自由や自己実現が可能な社会であると思い込ませていく。人は、社会に貢献することや、富を手に入れることを目指し、自ら進んでこの牢獄を強化・発展させていき、支配者たちの利益追求に利用されていく。そしてますます多忙になり、根本を思索する時間をなくし、動物たちの持つ自由を失っている。

 

 

こうした支配社会に疲れた私たちだから、支配をのがれていた狩猟採集者たちから元気をもらえるのだ。

 

 

私たちを幸せにするのは、長寿や文明の利器ではなく、動物的な生き方が可能な、小さな社会である。

教育とマスコミが見えなくしている現実

本来、人は金のために生きる存在ではない。

 

人が金のために生きる存在になったのは、

奴隷が解放され、憲法が制定され、裁判所ができてからだ。

 

人が金のために生きる存在になったのは

伝統社会が否定され個人の権利が尊重されるようになってからだ。

 

人が金のために生きる存在になったのは

医師が免許制になり、医療が進歩してからだ。

 

人が金のために生きる存在になったのは

世界中の人々がカレンダーと時計に従って生きるようになってからだ。

 

人が金のために生きる存在になったのは

著作権や特許や、法人や、相続税といった概念が作りだされてからだ。

 

 

 

 

今の私に、生物としての本来の生き方を教えてくれる存在が2つある。

円山動物円のホッキョクグマたちと、

人間が好き―アマゾン先住民からの伝言』に記された言葉である。

 

 

ホッキョクグマたちは、高齢を迎えても遊び好きで、

新しい遊びを工夫しては楽しんでいる。

 

そうしたあり方をみていると、

生物は遊びの中で体を鍛え、

楽しみながら食べ物を探したり、

子育てをしたりしていたという

当たり前のことが見えてくる。

 

『人間が好き―アマゾン先住民からの伝言』には、

印象深い言葉が記されている。

たくさん遊び、走り、楽しんだ。

わたしはもう、休む時間だ。

インディオの残した遺産を、

忘れないように。

これは、老人たちの言葉だ。

動物たちと同じように、遊び、走り、楽しんだ人生を

終えようとしているのだ。

 

 

私たちが目指すべきは、

私たちにカレンダーに従った生き方を強要しない社会

私たちに企業に従うことを強要しない社会

私たちに金を使うことを強要しない社会

私たちに仕事や勉強を押し付けない社会

著作権や特許のない社会

遠方に住む者たちに大地をほじくり返されない社会

遠方に住む者たちに海岸を占拠されて工場を作られない社会

外部からの価値観で私たちを縛りつけない社会だ。

 

私たちに押しつけられている価値観は、

どんなに立派な理屈に見えても

本質は、企業(金融家)たちの力で

支配できるようにするための価値観である。

 

だから人は一生を金のためにあくせく過ごすことになり、

多忙さが増していく一方なのだ。

 

コリン・ターンブルが『豚と精霊』を書いたとき、

彼は国際金融家たちの仕業によって、

大きな社会の住民が「豚」になるのだとは気づいてはいなかっただろう。

 

動物たちも、小さな社会の住民たちも

言葉によりも事実を重んじる。

権利という言葉があることではなく、

嫌な相手から逃げることが可能だという

現実があることが大切なのだ。

 

私たちは金のために生きる存在ではない。

金のために生きないためには、

大きな社会を作らないようにして、

大きな力を持つ存在を生まない必要がある。

 

教育とマスコミが見えなくしているのは、

時代が下るほどに

私たちは金の世界に組み込まれて

どうにもならなくなっているという

現実である。

 

そこには、遊び、走り、楽しむ人生はない。

 

「「おばあさん」がいるのは人間だけ」なのか「人間だけが「おばあさん」になる」のか

「人間以外の動物は、繁殖可能な状態ではなくなると死んでしまう。人間だけが「おばあさん」になっても生きているのは、おばあさんの知恵があることが生存に有利に働いたからだ」という。

 

JOG(447) 「おばあさん」がいるのは人間だけ!?

 

 

ところが事実はどうやら逆であるらしい。

 

動物たちは、いつまでも生殖能力を失わない。人間でいえば70歳を超えた犬もメンスを迎える。植物も、たとえば老木になっても花を咲かせ、実を付ける。

 

もし、ヒトだけが生殖能力を早めに失ってしまうとすれば何が原因なのだろうか。

 

自然食の効力」で、「人間本来の食事さえとっていたら、精力がなくなることもメンスが止まることもない。(118-119)」とある。(自然の食べ物に頼って生きる狩猟採集者たちは、50歳を超えても生きるものが少ないだけに、この記述が当てはまるのかどうかわからない。)

 

 

「自然食の効力」から類推してみると、食べ物を加工することが影響しているようにも思える。焼いたり、煮たり、発酵させたりした食品である。ヒトだけでなく、肉食動物でも草食動物でも、加工された食品を食べることができる。そのままでは食べることのできない穀類も、加工を加えることで食物になる。

 

加工された食品された食品は、消化しやすくなっており、寄生虫や、細菌も少ないため、肉体に対する負荷が低くなっている。肉体は負荷をかけられることで強靭になり、負荷が低ければ弱くなる。

 

長い間、食べ物を加工して食べ続けた結果、人は早くに精力を失うようになってしまったのではないだろうか。

 

 

別の説もある。それはヒトだけが短い周期でメンスを迎え、一年中生殖可能であるということである。その結果、早くに卵子が枯渇してしまうのかもしれない。調べてみると、思春期を迎える頃の卵子の数は20万個ほどらしい。その後、月経を迎えるたびに1000個程度減っていく。であれば、200回の月経で枯渇することになる。規則正しく月経を迎え、一度も妊娠しなければ、17年ほどでなくなってしまう。

 

 

人だけが月経を持つようになったのはいつ頃のことなのか不明だが、もしかすると7万年ほど前に2000人程度まで減少してしまった時期なのかもしれない(「パンドラの種子」)。

 

 

いずれにしても、人間だけが生殖能力を失っても生き続けるというよりは、人間だけが早くに生殖能力を失うようになってしまったと考えるほうがよさそうである。

 

 

人間だけが早期に生殖能力を失うとすれば、それは人間の異常性を象徴しているようにも私には思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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