毎日出てゐる青い空

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ソシュールおよびレヴィ=ストロースと言語学、人類学、生物学、人類史

私はホモ・サピエンスに代わる概念としてホモ・ラングアを提唱したが、すでにおなじことを主張していた人物(私の嫌いなレヴィ=ストロース)がおり、彼によるとホモ・ロクエンスと名づけるのが正当らしい。

 

それはそうと、

言語学言語学として学ぶことはやはり無意味である。

言語学は人類学・生物学・人類史とからめて学んでいくしかない。

そうしてみると言語が何であるのかがはっきりとしてくる。

 

まず、言語は累積的な技術を可能にした。

これは、言語を用いて伝達することで初めて、針を作ってから網を作り、漁網を仕掛けるといった作業が可能になったことを意味している。

 

これによって、人は野生動物であった状態から脱して、同じ肉体を持ちながら保温性の高い家を作ったり、服を作ったりすることで、熱帯から寒帯まで分布できる動物になったのであった。

 

言語を利用して作られた船と定置式漁具によって、人は定住が可能になった。桟橋から丸太船をこぎ出して内海や湖、川のよどみで漁をすれば、一年中同じ場所にいながら食料を得続けることができた。

 

定住は道具の発達を可能にし、ハンディキャップを負った仲間(老人・障害者)の介護を可能にした。こうして言葉を持った人類は、はじめて、ほとんどの生物は老いを迎える前に死ぬのだという状態を抜け出した(しかし、本来は若くして死ぬ個体が多くなければ種を維持できないという生物の法則から脱することはできない)。すなわち、言語を持ったことで、人は生物の法則を抜け出したと勘ちがいするようになったのである。

 

遊動する狩猟採集者たちの暮らしは、言語を持ちながらも本来の大型霊長類にほぼ即した生き方であるとみると、定住した人類の暮らし方は、言語を持つことで多くの資産を保有するようになった暮らしであり、言語が作りあげてしまった魔界である。

 

言語がなければ、資産が相続されることもなければ、独占されることもなかっただろうが、言語を持つことで、資産を持つことを正当化する理由が考え出され、人々が悪だくみを働いたり、協力して支配的な集団を構成したりすることが可能になった。言語の大きな役割の一つが、こうした理屈づけと、理屈付けした概念を伝達し合っていく、そして悪だくみに使うことにあるのである。

 

言語を持つことで、世代を超えて続く支配階級が登場する条件が生れたのだが、言語があることだけが作用しているのではなく、定住して畑を耕し、収穫物を保存するという生活の仕方と言語の機能とが相まってこれが実現されていることに注目する必要がある。遊動する狩猟採集者たちには、支配階級は生れないのだ。

 

さて、私たちは言語と生業とが相まって形づくられた現代社会に住んでいるわけであるが、私たちの生活を大きく規定しているのは、動物としての私たちの本性であることを、陰謀論や世界システム論は教えている。つまり、生命は自らの子孫を増やすことにやっきになる存在なのであるが、言葉を持たない生物は、その肉体の限界によって影響範囲が限られているために、全体としてバランスがとれる状態になっている。一方、人類は言語による技術力の進歩と、言語による理屈付けの進歩、そして言語による経済活動の拡大によって、一個体の影響力が人類全体、地球全体に及ぶところまで来てしまった存在なのである。

 

こうして振り返ってみると言語の主要機能は3つある

・累積的な技術を推進する機能

・概念を伝達する機能

・理屈付けによって作りあげた虚構と実社会の相互作用によって虚構を実態化していく機能

 

あくまでも生物としてしか存在できない動物であるヒトが、言語という道具を手に入れた結果どうなっていくのかは明確である。もし、この道具の危険性を放置しておけば、一握りの個人によって生物界全体が牛耳られるデストピアが実現するのである。

 

ソシュールの抽象概念遊びもレヴィ=ストロースの分析する世界もくそくらえなのである。

 

関連記事

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はかない生

社会に貢献すること

夢をかなえること

大勢の人が葬式に列席するような立派な人物になること

お金持ちになること

 

 

そんなことが大事だと思い込んでいるのは、

生と死を意識しない環境に投げ込まれているからではないだろうか。

 

 

動物たちは

母と子の密接な時間を過ごすことで

心を成長させていき、

思いっきり遊ぶ時間を過ごすことで

生きる知恵や身体能力を身につける。

 

 

文明は、そのような機会を奪う方向にばかり進んでいはしないだろうか。

 

 

季節と向きあい

自然と向きあい

生の意味と向きあうためには

 

私たちの投げ込まれた社会は

あまりに束縛が多すぎはしないだろうか。

 

何かが間違っているはず。

 

ピダハン』や

奈良時代の貴族と農民』や

間引きと水子』や

子どもの文化人類学』のヘアーインディアンや

世界システム論講義』や

逝きし世の面影』や

人間が好き』…

 

これらの本にももちろん

人を束縛するばかりの価値観の影響はある。

しかし、本当の生き方を思い出すヒントもたくさんある。

 

文明社会に縛られたとき

私たちは死んで大地に帰ることさえ

できない。

 

 

「変わらない」ことを前提に生きる

共産主義を信じ、

小泉改革を信じ、

果てはニュータイプ(ファースト・ガンダム)を信じる。

 

奴隷制や植民地支配の時代、

子どもの間引きや姥捨ての時代、

いけにえや人身御供の時代が

過去のものとなったことを信じる。

 

人は、自分よりほんの少し前に生きている人々について、

遠い過去の人であるかのように錯覚する。

その一方で、自分自身は、まったく新しい時代を切り開く気になっている。

 

文明の支配者たちが付け込むのはそこである。

幻想を追わせながら、人々のエネルギーを吸い上げていく。

 

しかし、私たちは動物以上の何ものでもない。

陰謀論は文明から支配者がいなくならないことを語っている。

当たり前である。

動物はより多くの子孫を残そうとする存在なのだから。

 

共産主義

小泉改革

ニュータイプガンダムファースト)も

アセンション

人類の精神の成熟も

嘘なのだ。

人が変わることはないのだ。

 

私がそれなりの年数を生きて知ったことがこの事実だった。

 

人と動物の間に本質的な違いはない。

ならば、人は動物のように、つまり狩猟採集者たちのように

生きるしかないはずなのである。

文明社会を外れるほどに人は現実主義者になっている。

言葉が「明日」や「昨日」を作り、「大地」や「大空」を作る

「ことば」の課外授業」を読んだ。

面白い話が書いてあった。

 

人間は、音声だけ、ことばだけで、自分が直接知覚できない世界のことを、他人に伝えることができるというのである。「いま池袋でこんなことをやっている」とか「大阪では今、面白いイベントをやっているよ」といった内容である。さらに、まだ来ない時間や、もう過ぎ去った時間の中でのことも、音声によることばだけで伝えることができるという。「十日前にこんなことがあった」とか「来年はオリンピックが開かれるよ」といった内容である。

 

たしかに、人間が使っているような音節を持つ言葉を使わないで「明日」や「池袋」を伝えることは難しそうである。有名なミツバチのダンスでも方向や距離は伝えることはできても、場所を特定したり、ずっと先または前の日時を伝えることはできない。「ことば」の課外授業」ではこのあたりのことも考察されている。つまり、人間以外の動物も人間顔負けの記憶力を持っていたり、近い過去や未来、身近な地域での出来事について伝えあっていたりする可能性はあるが、それを声で伝え合うことはできないというのである。

 

こうして見ると、「明日」を表現できる言葉を持ったことによって初めて、明日という概念を共有できるようになったという事実に思い当たる。子どもの頃のことはもう忘れてしまったが、私も「あした」という言葉の意味をわからず親にたずねたことがあったかもしれない。親は「夜になって寝て起きたらあしただよ」とでも説明したかもしれない。言葉によって概念を教えられることで、ヒトはそれほど苦労することなく、新しい概念を得ていくことができる。

 

「ことば」の課外授業」には、もう一つ面白い表現があった。この世界はのっぺらぼうだというのである。

人間が頭の中で捉えている世界は、根源的にはのっぺらぼうで、ただそこに起伏と明暗があるだけですよね。人間はそこに、やはり頭の中で、さまざまな線引きを行うわけです。そして、ある物を別のものと区別する。これは後で話すことになると思いますが、言語というものが持つもっとも重要な性質なんですよ。

「年」、「日」、「池袋」をはっきり区切るものは何もなく、時計や暦を作り、地図を作って境界を設けることによって初めて区切りができるのだ。

 

言葉の持つ作用を意識していないならば、一年や一日という時間を区切ることに疑問を持つことはないだろう。昼と夜、夏と冬は実際に定期的にやってきているのだから、日を区切り、年を区切ることは世界をより詳しく知ったことや「真実に近づいた」ことであると考えるだろう。しかし、事実は逆であることを私たちは動物を通じて知ることになる。

 

動物たちはのっぺらぼうな世界を生きている。月曜日もなければ、午後3時もない。6歳も60歳もない。会社や学校に行くこともなく、選挙権を与えられたり、年金をとられたりすることもない。本来、そんなもののない世界を言葉で区切ったことで、私たちは生命にとって随分不自然な生き方を受け入れているという事実に行き着くのだ。

 

時間や年齢だけではない。男や女といった概念もまたのっぺらぼうな世界を区切ったものでしかない。動物たちであれば、自分がオスであるのかメスであるのかを意識することはなく、ホルモンの働きや周囲の個体・環境との相互作用の中で行動が決まっていく。しかし、人は、男女を区切ることで男としてのありかた、女としてのありかたが決められていく。

 

海や川、空や大地という概念もまた同様である。動物たちにとっては、そこにあるそのままの存在だ。言葉を持った人は言葉によって意味づけを行い、他者と共有してしまう。動物たちが見たり、感じたりする世界とは既に違っているのだ。言葉は、私たちの意識を遠くへ幻想へと誘ったり、私たちの生き方を特定の枠組みの中に入れこもうとするばかりで、いまここにいる私たち生命そのものには重きをおかせないようにしてしまう。

 

人間は言葉を持ったおかげで宇宙の真理を探ることができるようになった。しかし、言葉によって明かされる真実は、究極的には、私たちが生物として生きる上で何の意味も持たない真実である。宇宙がいつ作られようが、素粒子が存在していようが、遺伝子が命を伝えていようが、私たちの命とはまったく関係がない。むしろ、そんな真実を追究すればするほど、私たちは生きることから遠ざかっていく。 

ジョン・ゼルザンのような原始主義者(primitivist)は、われわれを仲介なき純粋経験から切り離しているとみなされるものを除去しようと試みて、ほとんどあらゆるものを抹消してしまう。ますます影響力を持ちつつあるゼルザンの仕事は、言語、数学、時間分節、音楽に加え、あらゆる芸術/表彰形式を拒絶する。それすらすべてを疎外の形態として非難した挙げ句、残されるものは、存在しえない類の進化論的理想なのだ。真に疎外されていない人間とは、もはや人間でさえない。一〇万年前に生息していたかもしれない、ある種の完璧な猿である。(『アナーキスト人類学のための断章』135ページ)

ここで、ゼルザンの主張は、ありえないものとして退けられているが、 言葉のない世界における生命のあり方、特に概念を他者に伝えることの難しさについて考えていけば、ゼルザンの主張はまっとうなものとなる。概念を他者に伝えることが難しいからこそ、惑わされることや期待すること、無駄に我慢することもなく、地上の生命を生き残らせてきた法則に身をゆだねることができるのだ。言葉のない世界こそが生命にとって本来の世界である

 

私たちが言葉を持ったことは、やがてこのような社会を形作ることを意味していたかもしれない。ゼルダンなどが、言葉の無い状態こそ本当だとどんなに主張したところで、それは絵空事であるかもしれない。しかし、厳しい環境に暮らして、餓死の仕方や凍死の仕方を知るという『子どもの文化人類学』に描かれたヘアー・インディアンの世界は、言葉を持ちながらも生命の法則に従うことができる可能性を示してもいる。

 

 

 

 

 

ホモサピエンスは進化した動物ではなく逸脱した動物ホモリングア

はだかの起原』は、人がはだかになったのはハダカデバネズミやハダカオヒキコウモリ同様、突然変異が起きたことが原因であり、同時に言葉を話す能力を得たと推測している。その推測が正しいかどうかは別として、人が言葉を話す能力を得たのは、ホモサピエンスになってからであるという重要な事実を教えてくれた本であった。

 

言葉を持つことで、ただ観察するだけでは知ることのできない技術を受け継ぐことができるようになり、人は複雑な道具を作ることができるようになったのであった。

 

人類史のなかの定住革命』で指摘されているように、水産資源の利用が人を定住化させやがて農耕へとつながったとすると、なぜ人は初めて水産資源を利用するようになったのかという疑問が生じる。その背景として考えられるのは、ホモサピエンスが言語を持った初めての人類であったことである。網や舟の製造や利用に言語が欠かせなかったと見ることができるだろう。

 

定住化は、遊動生活ではあきらめるしかなかった、大量の物を所有することを可能にし、技術がさらに発達する背景を作りだした。定住化によって人口的な環境が広い範囲を覆うことで、人は動物から離れていき、抽象的な言語を増やしていった。

 

では、仮に人類史を700万年とし、言葉の獲得を10万年前、定住化を1万2千年前と仮定したとき、この短期間の歴史から、人類の「成功」を判断してよいのだろうか。

 

陰謀論が教えてくれるのは、言葉を持ってしまったがために、法律やカネに縛られ、言葉によって不安をあおられて反抗する術もなく、言葉によって価値観を植え付けられて信じ込み、ただ煽り倒されるままに生きる文明人の姿である。

 

動物たちが教えてくれるのは、言葉を持たないが故に、あいまいさをあいまいさのまま許容できるという事実であり、個体ごとにまったく独自に世界観を作りあげていくことによる柔軟性や多様性であり、言葉を持たないが故に倫理観や義務観を持つ必要のない世界の真実さである。

 

人骨もまた言葉を持ったことによる悪影響を伝えている。ホモサピエンスはネアンデルタール人よりも脳が縮小しているのは言葉という道具に頼りはじめたからであろう。言葉という型にはめることで、思考の効率はあがったのだろうが、脳への負荷はかえって低下したのである。

 

先に示したように、言葉を持つことで可能になったことの一つに農耕があった。農耕を始める前の人々は強くたくましい顎を持っていたが農耕を開始して炭水化物の摂取量が増えるとともに人のあごは退化を始めた。この一事を万事として、人が新しく技術を生みだすたびに、人の肉体は衰えをみせていったのである。

 

生物たちは、肉体そのものの能力によって縛られることで、太陽光や地上の資源を分け合い、互いに影響を与えながら多様な環境を作りあげてきた。肉食獣にとって草食獣の反撃が不都合であってもそれを避ける手立てはなく、草食獣にとって肉食獣の存在が不都合であっても共存していくしなかなったし、そのことによって初めて今あるような姿にまで互いに変化してきたのである。ここに、肉体そのものの能力を越えて他の生物たちに影響を与えることのできるイキモノであるヒトが登場してきた。

 

生物たちは死や苦痛を受け入れるしかないなかでようやく多様性を確保してきたのである。ヒトもまた死を受け入れていくことができるのであれば問題ないだろう。だが、死がある程度まで回避可能である中でヒトはあえて不衛生な環境や、野獣から危害を受けるおそれのある環境を許容できるだろうか。これを想像してみると、私には、人類の未来が暗いと思えてくるのである。

 

言葉には多様な側面がある。

「カラスは黒い」と表現してしまえば、カラスの羽の光沢は消えうせ、カラスをじっくり観察する機会も失われてしまう。カラスのように具体的に目に見える対象であってもこうなのだから、友情や善悪など抽象的な概念になってしまえば、もうお手上げである。言葉は、使う者の都合に合わせて、何の裏付けもないままに産みだされているかもしれないのである。

 

言葉は人を支配する。土地を持つ者が持たない者に土地を貸して、地代を取り立てることができるのは言葉があるからである。土地を持つ者は、土地を守るために手下を雇い、反乱を防ぐだろう。そこにあるのも言葉である。ホロコーストという言葉や権利という言葉、畜生という言葉があることで、人は言葉に支配されていく。

 

言葉は科学技術を進歩させる。新しい発見があり、名付けられることで次の発見へと繋がっていく。しかし、それによって人は更に支配され、人類の肉体は衰え、他の生物たちに対する脅威も増していくのである。

 

こうして見て来ると、私たちはホモサピエンスと呼ぶよりもホモリングアとでも名付けるべき存在であり、進化した動物であると呼ぶよりも、逸脱した動物であると呼ぶべきなのである。

 

 

 

青少年の閲覧にふさわしくない記事

社会秩序を守り、

よい国民として勤勉労働に励み、

しっかり、健康保険料と年金と税金を納め、

国際資本家たちにとって都合のよい世界システムの一員として

今を受け入れて生きる。

 

そんな価値観を押しつける内容であれば、

「青少年の閲覧にふさわしい」のだろう。

 

生の意味を根本から問い、

世界システムや国家や経済活動に疑問を持ち、

主体性を持って生きよという呼びかけは

「青少年の閲覧にふさわしくない」のだろう。

 

 

なお、この記事は、

はてなのトップページから記事が削除された理由を

質問した私ではない別のユーザーに対して、

はてな側から返された回答を読んで

思いつきで書いただけのちょっとした愚痴である。

 

 

理想と現実

穀物や芋を加工して炭水化物を多く摂取するようになって、人のあごは退化してしまった。日本で言えば、縄文人まではまだ丈夫なあごをしていたのだが、水田耕作が盛んになるとともに、あごが退化し、上の歯が前に飛び出すようになってしまったのだった。私たちはもう、野生の固い動植物を食べることが難しい存在になっている。

 

森の中に住んで、獣を捕り、あるいは植物の新芽やヤマイモ、クリなどを食べて過ごしていた頃、人はアマゾンの先住民やアフリカのピグミーのように、森さえしっかりしていれば幾世代でも暮らしていくことができると確信でき、偉業を達成する必要などなかった。厳しい暮らしの中で人の命が失われていくことが、争いを少なくし、環境破壊を防ぐことにもなっていた。

 

植物を育てることを選んだ農耕民たちは、水や燃料を確保できるギリギリまで森を切り開いていったが、それでもなお増えていこうとする勢いを抑えるために、あるいは部族内での首狩りが行われ、厳しい成人儀礼がおこなわれ、あるいは長子のみによる相続が行われて、「人権」や「平等」は二の次にするしかないことが人々の認識に存在していた。強権を必要としていたのも、当然であった。

 

そんな伝統社会を「野蛮」であると否定し、医療を進歩させて失われる命を減らし、品種改良や遺伝子組み換えまで行って食料生産を増やしている私たちの世界は、どこへ向かおうとしているだろうか。首狩りによる世代交代や、冷や飯食いの一生を送る農家の次男・三男のような調整策を農耕社会が必要としていたことを振り返れば、この先、人類が向かう社会は、もっと過酷な社会になると予想できるだろう。

 

私たちは自然界の厳しさによって淘汰されていくのか、人工環境の厳しさによって淘汰されていくのかを問われているのかもしれない(ただし、人工環境には、決して淘汰される側にならない支配者たちが君臨していることを忘れてはいけない)。

 

こうして、人類史を正しく振り返ってみると、私たちが生きる世界は、理想を追って夢を実現していくことのできる世界ではなく、命の運命に従って生きていくことしか許されない世界なのではないかということが見えてくる。マスコミは決してそんなことを教えず、ほとんどの本もまだまだ理想を追うことを称賛しつづけている。だから、テレビを消し、新聞を捨て、名著と言われている本たちも手放して、この疑問について、じっくり考えてみるべきなのだと、私は考えている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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