毎日出てゐる青い空

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トヨタも東電もMicrosoftもGoogleも、「支配者」の意図の下で育つ

車を売りたくても道路や法が整備されていなければ売ることはできない。

電気を売りたくても、法が整備されていなければ鉄塔を建てることもできない。

コンピュータを売りたくても、法で禁じられていれば売ることはできない。

検索機能を売りたくても、法で禁じられていれば売ることはできない。

 

私たちの社会は、支配者たちの利益に応じて「あれは推進」「これは禁止」とする理屈をつけて、またはうやむやのうちに、方向性を定めた法やインフラ整備によって進路が決められている。

 

陰謀論」を手がかりに不思議を突き詰めていくと、

今の世界は、政府が法を定め、税金を投入してはインフラを整備しているからこうなっているのだということがわかる。

 

たとえば麻について考えてみればいい。

麻がどんなにすぐれていようと、禁じられていれば盛んに栽培されることにはならない。それが現在の状況である。

 

たとえば輸血について考えればよい。

http://sharetube.jp/article/1379/

輸血に代わる安全な手法が存在していても、輸血がどんなに危険であっても、輸血が支配者側と結びついていれば、決して禁じられることはなく、代替手法が広められることもない。それが現在の状況である。

 

たとえば「125ccカー」、「水で走る車」、「水とガソリンを混ぜて燃費とパワーを向上する水混合燃焼システム」について考えればよい。

技術的に何の障害もないはずのこの便利な車は、何度も市販時期を報道されながら、結局実現に至っていない。

 

著作権も土地の私有も法人制度も、本当は道理にあってなどいない。

 

私たちが、新聞報道やテレビ報道に脊髄反射のように反応している裏で、うやむやのうちに社会の進路が決められている。観光立国や、五輪誘致、万博誘致なども誰がどうきめたのか、よいことなのかどうか一切説明されることなく、「協力しよう」「この流れにのって収入をふやそう」と動機づけられていく。

 

本当に大切なことは、本来の姿を知り、これを基準として判断していくことである。その結果、今の社会がどれほど異様なのかがはっきりと見えてくるのだ。私は、ヒトの本来の生き方は、大型霊長類の一種として遊動する狩猟採集生活を送る生き方であると判断している。そのことによって、支配者たちの意図がはっきりと見えてきている。

 

私自身、人生の半ば過ぎまで、支配者たちが作る社会の動きに呑み込まれて行動し、思考するだけであった。バイオテクノロジーにあこがれ、ビルゲイツにあこがれ、国連職員や国境のない医師団を尊敬した。市民社会や、成熟した民主主義などという言葉を信じ込んだ。だが、それは支配者たちが用意した回答でしかなかった。

 

今ははっきりとわかる。私たちが自分の人生を生きることは、支配者たちの意図を外れたとき初めて可能になるはずなのだ。

 

 

 

 

 

「思い出そう 森で生まれた私たち」(ジョン・レノン イマジン)


「思い出そう 森で生まれた私たち」(ジョン・レノン イマジン)

 

この詩は、ジョン レノンのImagineの歌詞に独自の視点を加えて訳したものです。

 

ジョン レノンの思い描いた本当の世界が、服を着てピアノを弾いている人たちの世界であったとすると、私の思い描く本当の世界は、これらの写真が表すような世界です。

 

いずれも、植物の採集と動物の狩猟によって生きてきた人たちです。人類学者たちは、このような生き方をしている人々の実態を知って驚かされました。

 

そこには、ジョン レノンがイマジンで歌ったような社会ができあがっていました。

 

 


あの世は知らない
すぐにわかる
土を踏みしめ

 

見上げれば空
思い出すあの頃
人は今を生きた しなやかに

 

国境は見えない
簡単にわかる
とらわれをなくせば

 

すべてが過ぎ去る
思い出すあの頃
ありのままでいた 日々を

 

はじめは、こいつらと呼んで
だんだんわかってくる
肉体(カラダ)で感じていけば
生命(イノチ)の世界に戻れる

 

持ち物を手放し
生命(イノチ)に混ざる
欲張らず、困らず

 

季節を待とう
思い出すあの頃
気ままに捨てていた たくましく

 

はじめは、こいつらと呼んで
だんだんわかってくる
肉体(カラダ)で感じていけば
生命(イノチ)の世界に戻れる

 

 

 

注:
生命の世界は、決してやさしくはありません。文明社会と異なり、人をいつまでも生かしてくれようとはしません。
それでも、そこはピグミーが「森が目覚めていさえすれば何も問題はない」と言えるような世界でした。

ジョギングの危険性、吸気吸収

ジョギングの提唱者ジム・フィックスは、52歳で亡くなりました。

マラソンは健康を”増進”しない -ダーレオーエン選手の突然死から、スポーツを考える: やっとこ! ー武術と強さと健康とー

残念ながら、ジョギングも危ない。
有名な話だが、ジョギングの提唱者であるジム・フィックスはジョギング中に心筋梗塞で死亡。52歳だった。 

「ジョギング 危険性」で検索してみると、朝のジョギングが危険であるとか、突然のジョギングが危険であるという情報は多いが、ジョギングそのものが危険であるという情報は少ないようです。

 

しかし、考えてみれば、動物たちは意味もなく長時間走り続けるような生活を送ってはいません。『家畜になった日本人』で指摘されているようにジョギング自体が体に悪いのです(実はジョギングだけでなく、西洋から持ちこまれた運動は、不自然な動作を伴うものばかりです)。それだけではなく、根本的な問題として、大気汚染の進んだ現代社会では運動によって呼吸が増えることが大きな問題となっています。

 

ジョギング・ランニングは本当に体に良い?最新研究まとめ - NAVER まとめ


「都市部の場合、ランナーが車の排ガスにさらされるからです。特に皇居を周回する内堀通りは、一日中交通量の多い道路。走っている間ずっと大量の排ガスを吸い続けることになり、身体にいいわけがありません。また紫外線のリスクもあり、皇居周辺のコースにはこれを遮るものが少ないです。当然、肌にはよくない」

 

原発事故後の記事でもあったように、呼吸による物質の吸収は驚くほど多いのです。

内部被ばくの原因、改めて「呼吸が飲食の10倍」&「空間線量の10倍」|脱原発の日のブログ

 

「人間は環境化学物質の83%を空気(肺)から取り込み
食品からは7%
飲料からは8%に過ぎない
私たちが一日に呼吸する空気は約20キロ
食べ物や水の摂取量の およそ10倍」

村上周三・東京大学名誉教授
「住まいと人体、工学的視点から
(臨床環境医学 第9巻第2号、pp.49-62)

http://blog.goo.ne.jp/jpnx05/e/6141f9bf3248cc892b75adf7349f1361
「呼吸するだけで被爆>吸気の影響は食べ物の10倍」というタイトル、
原発問題」サイトの記事。(全文ご覧下さい)

 

では、運動不足が体に悪いことは明らかであるとしても、どの程度の運動ならよいのでしょうか。

走るな危険!「ランニングは早死にする」これだけの理由 | 知っ得大衆-スマホ版-

 では、どのようにランニングすればいいのか? 米国心臓学会の専門誌では、5048人のランナーを対象に追跡調査した結果を基に、「健康的なランニング」の目安を示している。

(1)走るのは週に1~2時間ぐらい
(2)走るのは週3日以内とする
(3)走行スピードは時速7キロぐらいで、慣れても8キロが限度

ここまで遅い速度になると、ジョギングにこだわる必要はないのではないように思えます。

 

結局、汚染されていない空気の中で、歩きまわることの多い生活を送ることが一番健康なのでした。

 

 

植え込まれた価値観に縛られるということ(馬鹿の壁)

私は何とバカだったのだろうか。

 

あの話もこの話も、全部でたらめのトンデモだと思い込んでいた。

 

最初に聞いたのは、エイズ人造ウィルス説だ。

有色人種にだけ有害なウィルスを実験室で作って散布したというのだ。

そんな都合のよいウィルスなど作れるわけがないと考え、

しかも無駄に物語性を高めた長編小説の形で発表されているその資料は、

まったく読む価値のない時間潰しにしか思えなかった。

 

 

次に聞いたのは千島学説だ。

血液は骨髄ではなく腸で造られているとか、

細胞は赤血球が変化したものだという、

現在一般に認められてる説とは異なる説が展開されている。

この話を聞いた時、

やっぱりこんな嘘を信じ込む馬鹿がいるんだくらいにしか思えなかった。

 

 

その次は、ロスチャイルドと金融の仕組みをめぐる話だ。

それなりに平和が維持され、豊かになった現代社会の基本ともいえる

金融の仕組みを特定の家系が作ったなどという馬鹿げた話だ。

これも、近づいてはいけない類の本だとしか思えなかった。

 

 

馬鹿だったのは私のほうだ。

エイズが人造ウィルスであるかどうかはわからないがこれに類する話は多くあるのだ。

天然痘の菌が着いた毛布をインディアンに渡した白人たち

自閉症を招いたといわれるワクチン接種

不妊を招くといわれる子宮けいがんワクチン

精子減少の原因といわれるカップラーメンのカップ

・羊水を濁らせるといわれるヘアダイ

・農耕の開始によって広まったマラリア

・都市生活の拡大によって広まったコレラ

エイズ人造ウィルス説を知ることで視野は大きく広がるのだ。

 

千島学説も同様だ。この学説が正しいかどうかはわからない。

しかし、この本を基に得た視点は多い。

東洋医学的な身体観の重要性

・小腸の重要性

・ガンの化学治療の有効性(【化学療法】 癌治療(がん治療)の三大療法について 〜 ガン患者の集い)に示されているような治療効果の違い

転移・再発しやすいがん(癌)の種類や転移元・先の関係

・当然と考えていたことも、執念深く検討していくことの重要性

千島学説のように、一般的な理論とは相入れない理論を知ることで、発想や視点が広がるのだ。

 

金融の仕組みを知ったことは、さらに重要だった。

この話を知ってみれば確かに腑に落ちないことばかりなのだ。

・なぜ中央銀行は政府とは別になっていて国民とも切り離された存在なのか?

・なぜ紙幣の額面と製造原価の差益は中央銀行の利益にならないと言い張っているのか?

・なぜ創業者よりも資本家がえらい株式会社が存在しているのか?

・なぜ大がかりな仕手は犯罪ではないのか?

・なぜ一国の経済を越える経済規模を持った巨大組織が規制されないのか?

・なぜ公共施設はコカコーラの自販機ばかり置いているのか?

・なぜ国は借金してまで公共事業を行うのか?

・なぜ国鉄がJRに郵便局がJPになって、国民の資産をみすみす手放すのか?

・なぜ原発事故の収束よりもオリンピックを急ぐのか?

・なぜローンや株式投資が当たり前の扱いになっていくのか?

・なぜノーベル賞はこれほど騒がれるのか?

腑に落ちない原因は、表向きの社会と本当の社会が違うことにあるのだろう。

学校やマスコミが教えている説は、どうやら真実ではないようなのだ。

 

 

以前の私に向かって言いたいのは

「理性的に判断して無駄な遠回りを避け時間を

貴重な時間を浪費しないようにしているつもりだろうが、

それが「馬鹿の壁」だよ」ということである。

 

 

生まれてからずっと、特定の価値観に即した情報ばかりを与えられて、

いつの間にか当たり前だと思い込んでいる価値観。

勉強好き教養好きであればあるほど、この価値観を伝える情報にせっせと接して、

さらに常識の殻を固くしながら「私は情報リテラシーが高い」と思い込んでいる。

 

 

以前の私がそうだ。多くのリベラリストもそうであろう。

理系を自負する人々や、催眠を否定する人々もそうであろう。

 

 

本当は、そういった情報にまぎれている、

隠しきれなくて漏れ出した真実を、

いろいろなところから

少しずつ拾い集めていくしかなかったのだ。

トンデモ本には、そのような情報が含まれている可能性が高いのだ。

(もちろん、大衆洗脳や扇動に利用されるトンデモ本もある)。

 

そうしてみて初めて、この世の真の姿、生命の姿、人類の姿が見えてくる。

 

馬鹿の壁を壊すハンマーは、トンデモ本かもしれないのだ。

魂が泣いている

自然と調和した暮らしを目指して

多くの先人たちがいる。

 

森の生活 ウォールデン

ヤナの森の生活

僕はお金を使わずに生きることにした

アニミズムという希望―講演録・琉球大学の五日間

税金のない国 ラコタ共和国

仮に「挑戦者」としておこう。

 

一方で自然と調和した暮らしを続けてきた人たちもいた。

ブッシュマン

ピグミー

ピダハン

ハッザ(NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2009年 12月号 [雑誌])

仮に「実現者」としておこう。

 

目を覚ましてみれば、

挑戦者たちが目指していく先は

実現者たちがすでに実現していた社会だ。

 

基本的にお金は必要ない。

自然環境は保全されている。

暮らしはゆったりしており、あくせく働く必要はない。

精霊を信じているが、あくまでも現生主義、現実主義である。

 

そして何より重要なことは、

実現者たちはその暮らしに満足して幸福なのだ。

その暮らし方は、人類が長い歴史のほとんどを過ごしてきた

暮らし方と実質的に変わっていない。

 

大方の人の印象とは裏腹だろうが

実現者たちはその暮らしを捨てたいとなど考えてはいなかった。

 

遅れているわけでもなければ、

助けを求めているわけでもなく、

知能は私たちよりも高く

身体は健康である。

他者に依存するひ弱さも持たない。 

 

そんな暮らしを奪ったのが挑戦者たちの暮らす世界であった。

強引に奪うもの、宗教を絡めるもの、

医療や教育の提供を表向きの理由とするもの、

手法は違っても、

そのままでいることを実現者たちに許さない点で共通している。

 

長く続けてきた本来の暮らしを送ることができなくなって

かつては必要のなかった、

本質を外れた活動(勉強・仕事・消費)に一生を費やす。

楽しいはずの娯楽もまた管理された世界でしか許されない。

保身のために本音を語ることもできず、

生命の本質を問うことも少なく、

動物や自然を忘れている。

 

こんな世界を作りあげて

人類の魂は泣いている。

 

 

何のために生きているのだろう

長寿や乳幼児死亡率の低下はよいことなのだろうか。

 

長寿社会は、多くの高齢者を少数の労働人口で支える状態が一時的ではなくずっと続くことを意味する。

 

乳幼児死亡率の低下は、たとえば4人中2人が生き残って遺伝子を残していた状況を2人中2人が生き残る状況に変えていく。そのような状況が長く続いたとき、人は健康な子を生み続けることができるだろうか。高齢社会と同様に、ひ弱な子どもの増加は、労働者の負担の増加も意味している。

 

人口の増加は食料の不足を意味する。人骨は、農耕開始前の人々の健康と食の多様性、それに対する農耕開始後の人々の不健康と食の均一性を告げている。近代化は食をさらに均一化し、ほとんどの食物がわずかな種類の原料(小麦、卵、牛乳、油、砂糖、トリブタウシ)を組み合わせたものにすぎなくなっている。さらに進めば、肉を生産することさえ不効率とされて人造肉のようなものばかりが流通する世界になるだろう。

 

人生は常に不安との戦いになる。かつてのように、自力で食べ物を探す世界ではなくなったのであるから、職を得てそれなりの収入を確保していかなくては生きることが難しい。遊んでいる暇はない。勉学に励み、内申書の点数を上げ、仕事を失うようなバカをせず、老後に備えてガマンガマンの生活を続けていくしかない。

 

人口増加は格差によって抑えることが可能かもしれない。しかし、そんな社会にやすらぎがあるだろうか。格差を受け入れないとすれば、何によって人口増加を抑えるのか。巨大な権力が去勢や避妊を強制するのだろうか。

 

このような社会に生きる自分を想像してみよう。

生れてから死ぬまで自分らしく生きる時間はどれほど存在するだろうか。

いつも、義務を果たし、不安を解消するために生きるだけではないだろうか。

嫌だと言えば、転落人生が待っているだけだ。

我慢の人生を送って、このような生き方にどれほどうまく適応できたかを

誇るくらいのことしかできない。

 

動物たちや未開社会の生き方が教えてくれるのは、命の真実だ。

サバンナの動物親子に学ぶ』に描かれた草食動物たちの軽やかさだ。

 

人は何のために生きているのだろう。

 

ヒトの本来の生き方を問えば

見えてくるのは、

ただ生命の掟に従って生きて行く世界だ。

 

無理に命を救おうとせず、

死をいつまでも嘆き悲しまず、

自分の番が来ればいさぎよく受け入れる。

 

そうすることで、日々の生が軽やかになり

自分らしく生きられ、

愛情深く生きられる。

 

人生相談は告げている。

我慢を強いられる人生から愛情は育たない。

我慢を強いられたとき、人は自分を知ることもできず、

したがって人を愛することもできず、

生命力を維持することもできない。

 

こうしてみると、

親の長寿や子の安全を願う愛情が

愛を育むことのできない社会を実現してしまうのだ。

 

 

何のために生きているのだろう。

日々、生を感じるためとしかいいようがない。

それを実現できるのは、

医療でも教育でも経済発展でも法整備でもないのだ。

 

 

なぜ人類は今回に限って文明を生んだのか/文明はヒトを幸せにしたのか

現生人類であるホモサピエンス以前の人類は文明を生まなかった。

ホモサピエンスも誕生以降の9割を超える期間は、

旧態依然の暮らしを続けてきた。

なぜ、1万5千年前に終わった最終氷期の後にだけ

文明が生れたのだろう

今回はその理由を探ってみたい。

 

 

 

 

 

ホモサピエンスの誕生は、20万年程前、アフリカの熱帯地方でのことであった。

 

ホモサピエンスは裸になり、

言葉を話す能力を得たと思われる。(『はだかの起原』)

しかし、衣服を知らず、農耕も知らず、遊動しながら暮らしていた。

ただ、それ以前の人類は言葉を持たず、

毛皮を着ていたことと比べれば大きく変化したわけだ。 

 

その後2度の氷期が訪れる。

リス氷期が18万年前から13万年前。

この時期、まだ毛皮をまとっていたネアンデルタール人たちは

ヨーロッパで生きていた。

他方で、ホモサピエンスは気候の変動に合わせて

居住地を縮小させたことだろう。

しかし、その頃のアフリカは裸の人類が生き残ることのできる

気候であったと思われる。

 

 

ヴェルム氷期が7万年前から1.5万年前。

この氷期のきっかけになったのは

インドネシアスマトラ島にあるトバ火山の大噴火であり

気候の寒冷化が引き起こされた。

 

この寒冷化によってホモサピエンスは絶滅しかけたのだ。

 

ホモサピエンスは全人口が2000人程までに減ったという。(『パンドラの種』)

生きのびた理由には、衣服の発明が考えられる。

コロモジラミがアタマジラミと分岐した時期と重なるからだ。

 

こうして衣服を手に入れたホモサピエンスは、

このヴェルム氷期の間に

アフリカを出て世界各地に拡がっていった。

寒い気候に合わせて肉食中心の食生活に変えることで、

服を着た人類は世界中を住みかとすることが可能になった。

 

こうして、広まった人類が直面したのが、

氷期の終わりと気候変動、

そして獲物にしていた動物の減少だ。

 

 

日本で言えば旧石器時代から縄文時代への移行期に当たる。

このとき、世界各地で水産資源の利用が始まった。

それまでいた獣たちが気候変動でいなくなり、

人は水産資源に頼らざるを得なくなったのだ。

 

そして、それが人類史上初めての定住と

農耕の開始につながっていった。(『人類史のなかの定住革命』)

世界各地の農耕が開始された場所は、

水産資源を利用するために人びとが

定住を始めた場所に他ならないのだ。

 

 

 

これ以外の時期に水産資源の利用は考えられなかっただろうか

 

北京原人ジャワ原人なども

気候変動によって、見慣れた動物がいなくなってしまうという、

同じような状況を迎えたことがあっただろう。

しかし、ホモサピエンス以外は

水産資源の利用に乗り出さず、絶滅してしまった。

なぜだろう。

 

水産資源を利用する霊長類にカニクイザルがある。

ヒトの髪の毛を奪って歯垢とりに利用する習性を身に付け、

しかも子どもにこれを教えるというからカニクイザルの知能は

かなり高い。

しかし、カニクイザルの主な食べ物は他の霊長類同様果実や葉のようだ。

水産資源を主な食べ物とするには、

舟やヤナ、網などが必要であり、そのためには、

言葉が必要なのだと考えられるだろう。

 

 

18万年前から13万年前リス氷期の到来時には、

ヴェルム氷期と異なり服が発明されることもなければ、

リス氷期の終わりに水産資源の利用が開始されることもなかった。

なぜだろう。

 

先にも述べたが、アフリカでは、裸のホモサピエンスが

それまでと同じ暮らしを続けることのできる気候が

保たれていたからではないだろうか。

 

とにかく、人類が水産資源を大いに利用しはじめたのは

最終氷期が終わってからが初めてだった。

 

 

 

余儀なくされた定住化

人類が体毛を失って初めて迎えた厳しい寒さが

衣服を発明させて人類を世界に広めた。

この寒冷期がすぎて迎えた

温暖化が水産資源の利用を開始させた。

水産資源を本格利用するには定住が必要だった。

こうして人は定住せざるを得なくなった。 

定住してしまって入手しにくくなった植物を得るために

農耕を開始してなくてはいけなくなった。

農耕を開始してしまったから

絶えることのない

重労働が待ちうけていた。

 

農地が人を縛りつけ、

農地が無償の食料を奪い、

野生の生活を奪った。 

 

 

遊動生活を続けてきた人びとの暮らしぶりは

実にのびやかである。

あらゆる負の要素を遊動によって解消する。

確かに生活域は限られており、

構成員は固定されているともいえるが、

きままに構成を変更でき、

移動できることや

日々体を動かして暮らしを続けること、

保証されない生を感じていることが

人びとの心を癒し、生の充実を与えている。

 

遊動生活の実態を知ると、

定住は「選んだ」というよりは「余儀なくそうなった」のだという

事実が見えてくるのだ。 

 

 

まとめよう

人類が今回に限って文明を生んだのは、

人が裸になって言語を手に入れた後で迎えた

最終氷期が終わって気候が変動し、

獲物を取れなくなるなかで水産資源に活路を見出したことが

契機となっていたからだった。

 

 

 

 

定住は実は不自然な状態だ。

環境は悪化し、食生活は貧弱になり、病気や争いが激化する。

貧富の差ができ、土地の私有と土地に縛られた庶民が誕生する。

しかも、定住は望んだ結果ではなく、

生きのびる工夫が生んだ

副産物だったのだ。

 

 

 

生物学的に見れば、大型霊長類が定住するということは異常だ。

 

反論はあるだろう。

生物は本来の生き方とは別の生き方に変わることができるのだと。

パンダは肉食から笹を食べる動物に変った。

クジラは陸上から海に進出した。

人も生き方を変えていって何の問題もないはずだ。

しかも、この人類の発展を見れば、

これが正しかったはずだと思うかもしれない。

 

 

 

もしそう思うなら、

狩猟採集者たちの世界こそが正しいのではないかという視点で

現代社会と狩猟採集社会を比べてみて欲しい。

 

狩猟採集社会に存在する問題の瑣末さと

現代社会の抱える問題の深刻さが際立ち

どちらの社会でヒトはより幸せに生きることができるのか

極めて明確に見えてくるはずだ。

 

 

たとえば、

私たちは、人権侵害の罪で狩猟採取者たちを糾弾するよりも、

本来実現できるはずのない、誰の人権も侵害されない世界を吹聴して

先住民たちを文明という牢獄に組み込んでいく側を糾弾すべきなのだ。

 

限られた資源を分け合って生きて行くということは、

生命の法則に従って、はかない生を生きることを意味し、

生がはかないからこそ、日々を生きることに

意味があることを意味する。

 

そこには、工夫をすれば

この生命の法則をのがれることができるなどという

ごまかしは存在していない。

 

 

 

文明は、ヒトを惑わせるが、

生命の本質を変えることは決してできない。

生命の本質は、動物たちや狩猟採集者たちが見せてくれる。

 

それは、生れた子の半数以上が成人前に死んでいくような

はかない生をきちんと受け入れよということである。

 

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