毎日出てゐる青い空

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魂が泣いている

自然と調和した暮らしを目指して

多くの先人たちがいる。

 

森の生活 ウォールデン

ヤナの森の生活

僕はお金を使わずに生きることにした

アニミズムという希望―講演録・琉球大学の五日間

税金のない国 ラコタ共和国

仮に「挑戦者」としておこう。

 

一方で自然と調和した暮らしを続けてきた人たちもいた。

ブッシュマン

ピグミー

ピダハン

ハッザ(NATIONAL GEOGRAPHIC (ナショナル ジオグラフィック) 日本版 2009年 12月号 [雑誌])

仮に「実現者」としておこう。

 

目を覚ましてみれば、

挑戦者たちが目指していく先は

実現者たちがすでに実現していた社会だ。

 

基本的にお金は必要ない。

自然環境は保全されている。

暮らしはゆったりしており、あくせく働く必要はない。

精霊を信じているが、あくまでも現生主義、現実主義である。

 

そして何より重要なことは、

実現者たちはその暮らしに満足して幸福なのだ。

その暮らし方は、人類が長い歴史のほとんどを過ごしてきた

暮らし方と実質的に変わっていない。

 

大方の人の印象とは裏腹だろうが

実現者たちはその暮らしを捨てたいとなど考えてはいなかった。

 

遅れているわけでもなければ、

助けを求めているわけでもなく、

知能は私たちよりも高く

身体は健康である。

他者に依存するひ弱さも持たない。 

 

そんな暮らしを奪ったのが挑戦者たちの暮らす世界であった。

強引に奪うもの、宗教を絡めるもの、

医療や教育の提供を表向きの理由とするもの、

手法は違っても、

そのままでいることを実現者たちに許さない点で共通している。

 

長く続けてきた本来の暮らしを送ることができなくなって

かつては必要のなかった、

本質を外れた活動(勉強・仕事・消費)に一生を費やす。

楽しいはずの娯楽もまた管理された世界でしか許されない。

保身のために本音を語ることもできず、

生命の本質を問うことも少なく、

動物や自然を忘れている。

 

こんな世界を作りあげて

人類の魂は泣いている。

 

 

何のために生きているのだろう

長寿や乳幼児死亡率の低下はよいことなのだろうか。

 

長寿社会は、多くの高齢者を少数の労働人口で支える状態が一時的ではなくずっと続くことを意味する。

 

乳幼児死亡率の低下は、たとえば4人中2人が生き残って遺伝子を残していた状況を2人中2人が生き残る状況に変えていく。そのような状況が長く続いたとき、人は健康な子を生み続けることができるだろうか。高齢社会と同様に、ひ弱な子どもの増加は、労働者の負担の増加も意味している。

 

人口の増加は食料の不足を意味する。人骨は、農耕開始前の人々の健康と食の多様性、それに対する農耕開始後の人々の不健康と食の均一性を告げている。近代化は食をさらに均一化し、ほとんどの食物がわずかな種類の原料(小麦、卵、牛乳、油、砂糖、トリブタウシ)を組み合わせたものにすぎなくなっている。さらに進めば、肉を生産することさえ不効率とされて人造肉のようなものばかりが流通する世界になるだろう。

 

人生は常に不安との戦いになる。かつてのように、自力で食べ物を探す世界ではなくなったのであるから、職を得てそれなりの収入を確保していかなくては生きることが難しい。遊んでいる暇はない。勉学に励み、内申書の点数を上げ、仕事を失うようなバカをせず、老後に備えてガマンガマンの生活を続けていくしかない。

 

人口増加は格差によって抑えることが可能かもしれない。しかし、そんな社会にやすらぎがあるだろうか。格差を受け入れないとすれば、何によって人口増加を抑えるのか。巨大な権力が去勢や避妊を強制するのだろうか。

 

このような社会に生きる自分を想像してみよう。

生れてから死ぬまで自分らしく生きる時間はどれほど存在するだろうか。

いつも、義務を果たし、不安を解消するために生きるだけではないだろうか。

嫌だと言えば、転落人生が待っているだけだ。

我慢の人生を送って、このような生き方にどれほどうまく適応できたかを

誇るくらいのことしかできない。

 

動物たちや未開社会の生き方が教えてくれるのは、命の真実だ。

サバンナの動物親子に学ぶ』に描かれた草食動物たちの軽やかさだ。

 

人は何のために生きているのだろう。

 

ヒトの本来の生き方を問えば

見えてくるのは、

ただ生命の掟に従って生きて行く世界だ。

 

無理に命を救おうとせず、

死をいつまでも嘆き悲しまず、

自分の番が来ればいさぎよく受け入れる。

 

そうすることで、日々の生が軽やかになり

自分らしく生きられ、

愛情深く生きられる。

 

人生相談は告げている。

我慢を強いられる人生から愛情は育たない。

我慢を強いられたとき、人は自分を知ることもできず、

したがって人を愛することもできず、

生命力を維持することもできない。

 

こうしてみると、

親の長寿や子の安全を願う愛情が

愛を育むことのできない社会を実現してしまうのだ。

 

 

何のために生きているのだろう。

日々、生を感じるためとしかいいようがない。

それを実現できるのは、

医療でも教育でも経済発展でも法整備でもないのだ。

 

 

なぜ人類は今回に限って文明を生んだのか/文明はヒトを幸せにしたのか

現生人類であるホモサピエンス以前の人類は文明を生まなかった。

ホモサピエンスも誕生以降の9割を超える期間は、

旧態依然の暮らしを続けてきた。

なぜ、1万5千年前に終わった最終氷期の後にだけ

文明が生れたのだろう

今回はその理由を探ってみたい。

 

 

 

 

 

ホモサピエンスの誕生は、20万年程前、アフリカの熱帯地方でのことであった。

 

ホモサピエンスは裸になり、

言葉を話す能力を得たと思われる。(『はだかの起原』)

しかし、衣服を知らず、農耕も知らず、遊動しながら暮らしていた。

ただ、それ以前の人類は言葉を持たず、

毛皮を着ていたことと比べれば大きく変化したわけだ。 

 

その後2度の氷期が訪れる。

リス氷期が18万年前から13万年前。

この時期、まだ毛皮をまとっていたネアンデルタール人たちは

ヨーロッパで生きていた。

他方で、ホモサピエンスは気候の変動に合わせて

居住地を縮小させたことだろう。

しかし、その頃のアフリカは裸の人類が生き残ることのできる

気候であったと思われる。

 

 

ヴェルム氷期が7万年前から1.5万年前。

この氷期のきっかけになったのは

インドネシアスマトラ島にあるトバ火山の大噴火であり

気候の寒冷化が引き起こされた。

 

この寒冷化によってホモサピエンスは絶滅しかけたのだ。

 

ホモサピエンスは全人口が2000人程までに減ったという。(『パンドラの種』)

生きのびた理由には、衣服の発明が考えられる。

コロモジラミがアタマジラミと分岐した時期と重なるからだ。

 

こうして衣服を手に入れたホモサピエンスは、

このヴェルム氷期の間に

アフリカを出て世界各地に拡がっていった。

寒い気候に合わせて肉食中心の食生活に変えることで、

服を着た人類は世界中を住みかとすることが可能になった。

 

こうして、広まった人類が直面したのが、

氷期の終わりと気候変動、

そして獲物にしていた動物の減少だ。

 

 

日本で言えば旧石器時代から縄文時代への移行期に当たる。

このとき、世界各地で水産資源の利用が始まった。

それまでいた獣たちが気候変動でいなくなり、

人は水産資源に頼らざるを得なくなったのだ。

 

そして、それが人類史上初めての定住と

農耕の開始につながっていった。(『人類史のなかの定住革命』)

世界各地の農耕が開始された場所は、

水産資源を利用するために人びとが

定住を始めた場所に他ならないのだ。

 

 

 

これ以外の時期に水産資源の利用は考えられなかっただろうか

 

北京原人ジャワ原人なども

気候変動によって、見慣れた動物がいなくなってしまうという、

同じような状況を迎えたことがあっただろう。

しかし、ホモサピエンス以外は

水産資源の利用に乗り出さず、絶滅してしまった。

なぜだろう。

 

水産資源を利用する霊長類にカニクイザルがある。

ヒトの髪の毛を奪って歯垢とりに利用する習性を身に付け、

しかも子どもにこれを教えるというからカニクイザルの知能は

かなり高い。

しかし、カニクイザルの主な食べ物は他の霊長類同様果実や葉のようだ。

水産資源を主な食べ物とするには、

舟やヤナ、網などが必要であり、そのためには、

言葉が必要なのだと考えられるだろう。

 

 

18万年前から13万年前リス氷期の到来時には、

ヴェルム氷期と異なり服が発明されることもなければ、

リス氷期の終わりに水産資源の利用が開始されることもなかった。

なぜだろう。

 

先にも述べたが、アフリカでは、裸のホモサピエンスが

それまでと同じ暮らしを続けることのできる気候が

保たれていたからではないだろうか。

 

とにかく、人類が水産資源を大いに利用しはじめたのは

最終氷期が終わってからが初めてだった。

 

 

 

余儀なくされた定住化

人類が体毛を失って初めて迎えた厳しい寒さが

衣服を発明させて人類を世界に広めた。

この寒冷期がすぎて迎えた

温暖化が水産資源の利用を開始させた。

水産資源を本格利用するには定住が必要だった。

こうして人は定住せざるを得なくなった。 

定住してしまって入手しにくくなった植物を得るために

農耕を開始してなくてはいけなくなった。

農耕を開始してしまったから

絶えることのない

重労働が待ちうけていた。

 

農地が人を縛りつけ、

農地が無償の食料を奪い、

野生の生活を奪った。 

 

 

遊動生活を続けてきた人びとの暮らしぶりは

実にのびやかである。

あらゆる負の要素を遊動によって解消する。

確かに生活域は限られており、

構成員は固定されているともいえるが、

きままに構成を変更でき、

移動できることや

日々体を動かして暮らしを続けること、

保証されない生を感じていることが

人びとの心を癒し、生の充実を与えている。

 

遊動生活の実態を知ると、

定住は「選んだ」というよりは「余儀なくそうなった」のだという

事実が見えてくるのだ。 

 

 

まとめよう

人類が今回に限って文明を生んだのは、

人が裸になって言語を手に入れた後で迎えた

最終氷期が終わって気候が変動し、

獲物を取れなくなるなかで水産資源に活路を見出したことが

契機となっていたからだった。

 

 

 

 

定住は実は不自然な状態だ。

環境は悪化し、食生活は貧弱になり、病気や争いが激化する。

貧富の差ができ、土地の私有と土地に縛られた庶民が誕生する。

しかも、定住は望んだ結果ではなく、

生きのびる工夫が生んだ

副産物だったのだ。

 

 

 

生物学的に見れば、大型霊長類が定住するということは異常だ。

 

反論はあるだろう。

生物は本来の生き方とは別の生き方に変わることができるのだと。

パンダは肉食から笹を食べる動物に変った。

クジラは陸上から海に進出した。

人も生き方を変えていって何の問題もないはずだ。

しかも、この人類の発展を見れば、

これが正しかったはずだと思うかもしれない。

 

 

 

もしそう思うなら、

狩猟採集者たちの世界こそが正しいのではないかという視点で

現代社会と狩猟採集社会を比べてみて欲しい。

 

狩猟採集社会に存在する問題の瑣末さと

現代社会の抱える問題の深刻さが際立ち

どちらの社会でヒトはより幸せに生きることができるのか

極めて明確に見えてくるはずだ。

 

 

たとえば、

私たちは、人権侵害の罪で狩猟採取者たちを糾弾するよりも、

本来実現できるはずのない、誰の人権も侵害されない世界を吹聴して

先住民たちを文明という牢獄に組み込んでいく側を糾弾すべきなのだ。

 

限られた資源を分け合って生きて行くということは、

生命の法則に従って、はかない生を生きることを意味し、

生がはかないからこそ、日々を生きることに

意味があることを意味する。

 

そこには、工夫をすれば

この生命の法則をのがれることができるなどという

ごまかしは存在していない。

 

 

 

文明は、ヒトを惑わせるが、

生命の本質を変えることは決してできない。

生命の本質は、動物たちや狩猟採集者たちが見せてくれる。

 

それは、生れた子の半数以上が成人前に死んでいくような

はかない生をきちんと受け入れよということである。

 

野生の食べ物だけが体によいのだが

いつもありがとうございます。

 

さて、私は、ヒトの本来のありかたを探る作業を続けているわけですが、多くの本を読むことで見えてきたことがあります。それは、肉が良いとか果物が良いとか以前の問題として、現在普通に手に入る食べ物はほとんど体に悪いという事実です。

 

まず意外だったのは、穀物は基本的に体に悪いということでした。人は加熱された炭水化物をほとんど必要としていないようで、『日本の長寿村・短命村』には米を大食いする村は短命であることが指摘されています。また、『パンドラの種』など多くの本に、農耕を開始して人は不健康になったことが記され、その原因として炭水化物を主食として偏食するようになったことが指摘されています。

 

次にわかってきたことは、『偏食のすすめ』や『自然食の効力』にあるように、人間の本来の食べ物は、チンパンジー、ボノボ、ゴリラなどと同じく果物と野菜なのですが、どうやらフルータリアンやベジタリアンが決して健康長寿ではないということです。スティーブ・ジョブスなど、ベジタリアンでしたが短命でした。我が家でも朝は果物だけを食べていますが、あまり効果を感じません。それどころか、体に悪いのかもしれないという感覚があります。

 

果物を食べ続ける暮らしを続けて、どうやらその原因がわかってきました。私たちが日常的に入手できる果実はほとんどが栽培されたものであるということです。たとえば、ビワは、いつ頃日本に入ってきたのかわかりませんが温暖な地域には自生しているビワもあります。ただその実は小さく種が大きくて商品にはなりません。このようなビワであれば健康によいでしょうが、人の手の加えられたビワはもう健康を損なう食べ物になってしまうようです。

 

 

肉食は悪いという人もありますが、肉食偏重のエスキモーや乳と血を多く摂るマサイ族は、特に不健康ではありません。『医療人類学』を読むと、どうやら野生の動物は脂身が少ないことが関係しているようです。マサイ族も牛にエサを与えることはありません。これも果物同様、人が手を加えれば加えるほど、健康に悪い食べ物になっているといえそうです。

 

 

もう一つ見えてきたことは丸ごと食べる重要性です。肉や魚の切り身、生成された糖、塩など、ミネラルを含まない食品は、食べても食べても満足感を得ることができないだけでなく、人の健康を損ないもします。柿やリンゴなどの果物も皮ごと食べることが重要ですし、魚であれば小魚を丸ごとたべ、肉であればできるだけ捨てる部分を少なくすることが重要です。そうすることで、ミネラルを多く摂取できます。

 

 

さらに、肉体を衰えさせないためには、固い食べ物、消化しにくい食べ物が必要です。柔らかく消化しやすい食べ物ばかり食べていると、人の体はあっという間に衰えてしまいます。『顔の本』にあるように、ネアンデルタール人まではなかったおとがいができたのは、火を使って加工したことが原因として考えられますし、縄文時代まではしっかり咬み合わせることができた歯も、今ではほとんどの人で上下がずれて咬み合うようになってしまいました。

 

絶食も重要です。絶食することは、毒抜きにつながります。農耕を開始して健康状態が悪化した理由の一つは、絶食時間が少なくなったことにあるかもしれません。そもそも、加熱した穀物を主体に一日三食食べるということは消化器官にとって負担が大きすぎるのかもしれません。

 

 基本的に生食が良いということも言えます。インドのアンダマン諸島には火を使わない先住民が暮らし、エスキモーもお湯を飲む習慣がありませんでした。確かに、ローフーダーにもベジタリアン同様問題があると指摘されています。これも先に述べたような食品自体の問題が考えられ、その他に腸内細菌が変ってしまったことや、歯の咬み合わせが悪くなったこと、幼児期に十分雑菌にさらされた経験がないことなどが、生食を難しくしているのではないかと思われます。

 

栽培や飼育によって柔らかく味のよい素材を作り、加熱する、すりつぶす、味付けをする、切り刻むといった加工を加えて、人はおいしく食べる工夫を重ねてきました。このような暮らしを長く続けた結果、人は人工環境がなければ生きられない存在に近づいています。 そのことが、人を不健康な存在にしつつあります。

 

人は自然界を汚染してしまってもいます。海も山も汚染されました。動物たちの行き来を阻むフェンスや道路が作られて、多くの種が絶滅しました。自然界から食べ物を得ることがどんどん難しくなっています。

 

実際には、自然界から食用に向いた動植物を選び出すことはなかなか難しく、知識のない者が山や川に行ったところで食糧など得ることはできません。また動物も植物も自衛をしていますから、簡単に美味しく食べることは難しいのは事実です。 それでも、生物として健康を保つことができるのは、自然界から手に入る食べ物だけを食べる暮らしなのだろうと、私は考えています。

 

 

 

肉体について

肉体は鍛えれば強くなり、子孫たちにも受け継がれていく。

楽をすれば衰え、子孫たちにも受け継がれていく。

(本質を見れば獲得形質も遺伝すると考えてよい)

 

 

たとえば、サバンナの草食獣たちは肉食獣を恐れて

2時間ほどしか寝ないのかもしれないが

睡眠不足でフラフラになったりはしない。

 

猫は一日中寝ているが、

体長の何倍もの高さまで飛び上がることができる。

 

 

いずれも、祖先たちの暮らしが

与えてくれた能力である。

 

 

 

 

 

この視点から人類史を振り返ると、

人は工夫を重ねることで

肉体を衰えさせてきたことが

はっきりする(脳も含む)。

 

 

たとえば、農耕を知らないピグミーやブッシュマンはお産が軽いのだ。

味覚もタフで、渋みの強い果実をおいしく食べることができる。

5000年前のアイスマンが今に蘇ったなら彼は最も賢い部類に入っただろうという

論文もある。(ただし、それは別種の、より洗練された知性を身につけたためだと主張する研究者もいる。)

If Modern Humans Are So Smart, Why Are Our Brains Shrinking? | DiscoverMagazine.com

人類の脳が3万年で、1割縮小していた。 | 2011-02-07 | Time-AZ

 

 

 

 

 

 

 

これが事実だ。

 

ヒトが工夫を重ねるほどに

ヒトは多様性にあふれる環境を失い、

肉体を鍛える環境を失い、

知的にも身体的にも衰えていくのだ。

 

 

 

肉体には別の意味もある。

それは人の知能も感情も

肉体の体験を通じて発達するということである。

 

あいまいで複雑な自然環境に囲まれ、

親と密着しながら生後三年間を過ごすことで

人の知能と感情は発達する。

 

これが可能なのも

動物的な暮らしである。

 

 

 

人はなぜ山に登るのか、

文明社会が失った生がそこにあるからだ。

 

参考文献

アルピニズムと死

自然を愛しているからという理由だけで踏み入れるのではない。まして自己表現のために高みを望むものでもない。 限界線から一歩踏み出すたびに、生命が躍動した。安住できる土地を離れ、不安や孤独を感じながらも、克服することがより困難で切りたった場所に向っていった。

 

 

 

 

目覚め

命の真実を
知らないままで
過ごしてきた日々

 

命は慈悲に包まれた
柔らかな存在であった。

 

 

天寿を全うし
安らかに永遠の眠りにつくことが
命の本来の姿であると
どこかで思い込んでいた。

 

 

 

 

 

この思い込みが誤っていることを
教えてくれたのは、
動物たちであり、
人類学であり、
陰謀論に基づく文明論った。

 

 

ドール、リカオンなど
群れで狩るイヌ科動物たちは
獲物を絶命させる術を知らず
思い思いに獲物にかみついては
肉を食いちぎっていく。

 

餌食となる動物は
生きたまま少しずつ肉を噛み取られて
いくのだ。

 

残酷な光景だが、
これがこの世の生の事実でもある。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私たちが
生命を謳歌するということは
このような世界の中で
はかない生を生きるということである。

 

 

 

疲れを知らないように遊ぶ子ども時代。
私たちは肉体を通じて心を成長させていく。

肉体的にも精神的にも充実した中で
子育てに勤しむ成年時代。
人生の最良のときである。

 

肉体が衰える老年期。
もう長居は無用だ。
十分楽しみ、運よく今日まで生きてきたのだ。
もうこの世を去るときである。

 

 

 

このような本来の生を過ごすためには、
学校に行く時間も
会社に行く時間も
存在してはいけなかった。

 

狩猟採集者たちのように
生きていかなければならなかった。

 

 

老後の楽しみを期待するのではなく
今を楽しむしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

目覚めてみれば、
私たちは
どこまで行っても動物だった。

 

 

 

「飢えをなくそう」
「病気をなくそう」
「助け合おう」

 

 

生物として
絶対に実現できず
実現しようとすることも許されない
夢に挑戦した人類は、

 

格差を作り
文明の支配者を作り
ついに
世界中が支配者の手中に収められようとしている。

 

 

 

 

 

 

目覚めてみれば
本来のあり方を否定したことが
この悪夢の始まりだったのだ。

 

 

 

 

 

本来の暮らしに戻ろう。
ヒトがヒトらしくいられた、
狩猟採集者たちの暮らしに戻ろう。

 

 

そのとき、
ヒトは最も幸せなのだ。

 

 

 

参考文献

サバンナの動物親子に学ぶ

 

動物も人も死を避けるために、いろいろ工夫をします。 しかし、その工夫は「生」全体のあくまで一部なのです。 そんなことばかり工夫していては、「生」の楽しみを忘れて しまいます。 死はせつないけれども、必要なもの、大切なものなのです。 いまこそ、私たち人間は、「生」と「死」を見つめ直す時間 なのかもしれません。

 

言葉について考える(神、共産主義、民主主義、福祉、国家、平和、人類)

猫たちと暮らしていると

言葉などいらないことを思い知らされる。

 

交尾、子育て、なわばり争い。

人との関係の作り方。

 

相手のあるさまざまな活動を、

言葉のない世界で遂行しながら

全体として見れば、

ほどよい状態が保たれている。

 

猫たちは言葉を持たず、

言葉によって教わることなく、

体験から学ぶことや、

体の声を聞くことで

自分の取るべき行動を決めていく。

 

義務や権利、道徳や倫理、

正義や悪といった判断に基づいてではなく

ただ、実情に応じて

逃げたり、戦ったり、

甘えたり、怒ったり、

舐めあったりしている。

 

すべての個体が

その個体なりの経験を積み、

その個体なりに答えを出して

生きており、

こうしなければいけないという

基準は一切存在していない。

 

それだけのことなのに

結局のところ

全体としては

問題のない状況が

維持されていく。

 

ちょうど、

体全体のことを知る細胞は

一つとして存在せず

どの細胞も

それぞれの役割を果たしているだけなのに

結局は体全体が調和を保って機能する

肉体と同じようである。

 

このような言葉のいらない

世界を知った上で、

人間の世界を振り返ると、

「言葉」が人間界を

救いのない状況にしていることがわかってくる。

 

 

猫たちが

個体ごとに

導き出す答えは

常に土台があって

導かれた答えである。

 

親子だからとか

飼主だからとか

異種だからという

判断基準はない。

 

人はどうだろう。

 

猫たちのように

経験に学び

体からの声に耳を傾ける代わりに

人間は動物とは違うのだとか、

現代人は以前の人間とは違うのだとか、

道徳が必要だとか決めつけていく。

 

それだけではない。

言葉は人を共謀させ、

脅迫し、

法で縛りもする。

 

本来のヒトのあり方を知っていくことで

見えてくるのは、

言葉によって作りあげられた社会が、

自然界に生きる以上の

苦痛を私たちに与えているという事実だ。

 

自然界の影響の強い生き方をしている間、

言葉はそれほど大きな影響を持たなかった。

 

言葉が作りあげる世界よりも、

自然界の影響のほうが強いために、

人は何とか現実を受け入れて暮らしていた。

 

間引きも姥捨ても、

独裁者の暗殺も

当然のことと考えていた。

 

今は違う。

言葉で作られた世界に

「法」があって

現実の世界にある

無言の法は無視されている。

 

たとえば、

共産主義キリスト教

人と動物の違いは労働にあるという。

義務教育でも労働は国民の義務であると教える。

 

宗教や人間性を信じる者が

この言葉に嘘があると受け入れることは

とてつもなく困難である。

 

しかし、

言葉の世界は

そんなものばかりにあふれている。

 

 

言葉がない世界で

総体的にいえば何も問題がなかった

人類は、

言葉を持ったことで

真実から遠ざかり、

動物らしく

本来らしく

生きることを許されなくなっていく。

 

 

言葉が 

ヒトを

ヒトではなくしていく。 

 

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