毎日出てゐる青い空

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ヒトが本格的に火を使い始めたのは、10万年ほど前からだ(北京原人ではなく私たちと同じホモサピエンスになってからだ)。北京原人を持ち出すのは、ミスリードの印象を受ける。

 

火の使用は、暖をとること、獣から守ること、調理することを可能にしたという。 本当だろうか。

 

パタゴニアに住んでいたヤーガン族は火を利用することで、南米南端に毛皮をまとうだけで暮らすことができたのだ。衣服の着用がヤーガン族を絶滅させたのではないかともいう。(服を着たせいで滅んだ裸族!?ヤマナ族とは… - NAVER まとめ) どうやら暖をとるために火が役立ってきたのは事実だ。

 

獣から守るために火を使ったというのはどうだろうか。ヒグマの実験では、火を恐れないことがわかっている。

ライオンが出没した後でブッシュマンが行うのは、騒ぎ立てて追い払うことである。

チンパンジーは棒を武器として使うことがある。

これらのことを踏まえると、人は手と道具を使って野獣を追い払っていたと見るほうがよさそうだ。火を獣よけに使っていた考えるのは思いこみなのではないだろうか。

 

最後の火による調理だが、WikiPediaには次のようにある。

火の使用は栄養価の向上にも繋がった。タンパク質は加熱することで、栄養を摂取しやすくなる[1][8][9]。黒化した獣の骨から分かるように、肉も火の使用の初期から加熱調理されており、動物性タンパク質からの栄養摂取をより容易にした[10][11]。加熱調理された肉の消化に必要なエネルギーは生肉の時よりも少なく、加熱調理はコラーゲンのゼラチン化を助け、炭水化物の結合を緩めて吸収しやすくする[11]。また、病原となる寄生虫や細菌も減少する。

チンパンジーが生肉を食べることはよく知られている。カバも死んだ動物の肉を食べることがある。

死―宮崎学写真集』を見ると、私たちなら即座に腹を壊しそうな腐敗した肉を、小さな動物たちが食べていて驚かされる。こうした事実を知ると、実は火による加工を経ることが私たちを脆弱にしているように思える。

 

炭水化物については、「穀物は「空腹を満たす物」としては優れているが、「食料」として優れているわけではない」という事実もある。(『炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)』)日本人の歴史をみると穀物に大きく依存するようになったことで、健康状態が低下したことが、骨に記録されてもいる。 WikiPediaに記載されている内容は、火の使用の肯定面のみにすぎないのだ。

 

人類史と火といえば、火起こしの技を持つことがマッチやライター、火打石に頼らない時代の人々にとって必須の技術だったと思い込んでいる誤解もある。アフリカのピグミー族やセンチネル諸島民の中には火の起こし方を知らない部族もいて、移動の際に火種を持ち歩いたり、自然発火した火を大切に守っていたりしていた。しかし、さすがに火を知らなかった部族はいなかったようだ(この点でもWikipediaの記載は間違っている)。

 

重機のない時代、火によって焼き払うことが大きな意味を持っていた。 アボリジニの話は以前にも書いたが、焼畑農耕も同じく火に頼っている。 農作物を栽培し、収穫を終えた畑には、蔓や茎、葉が残る。そんな残渣を処分するには焼いてしまうのが一番だ。焚書坑儒という言葉もあるように、焼き去るという機能もまた 火の重要な機能であったといえそうだ。政治が変わるとき、多くの資料が焼却された。 身近に火があった時代、人々は多くの物を焼却処分していた。

 

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東進文明と西進文明

東進文明(植物文明、環太平洋生命文明圏)とは、長江流域で誕生して東へと進んだ文明であり、限られた大地の資源を循環的に使うことによって持続可能な社会を構築することを目指した文明である。
西進文明とは、西アジアに誕生して西へと進んだ文明であり、未開野蛮の原野が存在することを必要とし、自然の資源を一方的に搾取する部っ名である。
森の日本文明史

 

東進文明に生まれた仏教は、その誕生以来身体性を追求してきた。
西進文明に生まれたキリスト教は、言葉を重視し身体性を排除してきた。
「阿修羅」の呼吸と身体

 

東進文明に疲れた文明人の心を癒すのは山水画であり、人の生活はほんの小さく描かれた。
西進文明に疲れた文明人の心を癒すのは宗教画であり、神々しさ、権力、敬虔が示された。

 

東進文明の描くのは桃源郷の夢であり、その行きつく先は諦めの世界であった。
西進文明の描くのはユートピアの夢であり、その行きつく先は管理社会であった。
どちらの文明にも描かれた哲人政治の夢の行きつく先は、独裁政治であった。
ユートピア/哲人政治/桃源郷/ピダハン

人の本来の生き方をしている人々には文明はなかった。
人の本来の生き方をしている人々の宗教は精霊信仰であった。
人の本来の生き方をしている人々は絵を描かなかった。
人の本来の生き方をしている人々は小さな社会で
多くの悪しき物を移動によって捨て去りながら生きていた。
人類史のなかの定住革命

 

 

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規模が小さいことが必要

『ことばの起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』(ロビン・ダンバー著、松浦俊輔、服部清美訳、青土社、1998)によると、霊長類の群れの規模は大脳の大きさに比例しており、私たちホモサピエンスにとって適切な規模は150人程度であるという。

 

現実を見れば、私たちは150人を大きく超える群れを作って生活している。私たちが大きな群れを作ることが可能になったのは、毛づくろいという1対1のコミュニケーションではなく、言葉によってコミュニケーションをとることが可能になったからであるらしい。

 

そして、ここに重要な鍵が隠されている。

 

ピダハンは直接経験の原則に基づく世界観を作りあげている。THINKER氏は、マスコミとお金が人間を不幸にしているという。

 

事実、私たちの社会は、マスメディアによる情報の洪水、教育による幼少期からの価値観の植え付け、大学などの権威による知識の独占と取捨選択によって作り上げられているのである。

 

コリン・ターンブルは『豚と精霊』の中で小さな社会でなければ人は精霊として生きられないことを指摘している。

 

つまるところ、私たちが不幸になるのは、間接情報に頼って生きるしかない大きな社会に住んでいるからなのである。

 

人類にとって適切な群れの規模は、その大脳の大きさが示すとおり、150人程度なのである。

 

 

 

 

普段、動物たちの目は穏やかなのかもしれない

羽仁進さんの本にあった、印象的な一説は、

草食動物たちの軽やかさだ。

 

書評 『サバンナの動物親子に学ぶ』

 

生と死が同じ時間の中にあるアフリカで、

食う側は食われる側のパワ ーには絶対にかなわない。

飛び跳ねる草食獣の子どもたちを見れば、

このパワーを感じられるというのだ。

 

この本を読んだとき、それ以上深く考えることはなかった。

しかし、最近になって私は、動物たちの目は、

思っていた以上に穏やかなのではないかと感じ始めている。

 

それは、ピダハンたちが穏やかな表情をしていることと似ている。

 

客観的に見れば厳しい環境に思えても、

耐えられないほどの場所ではないからこそ

世代をつないで生きる命がある。

客観的な状況ではなく主観的な状況が重要なのだ。

そしてまた、余計な心配をしないことで

軽やかにいられる。

 

私たちと同じような心を持った動物たちが

私たちと同じようにおおむね穏やかな日常を送っている。

厳しい環境を穏やかに生きることのできる

たくましさを身につけてもいる。

 

人の世界でも、動物に近い生き方をしている人々は

軽やかで穏やかだ。

 

ピダハンの子どもたちは、いたって肝の据わった、

それでいて柔軟なおとなになる。

そうしたおとなになれば厳しい世界も

楽しく生きていくことができる。

 

ブッシュマンもライオンの出没する土地で

ライオンを恐れながらも生き生きと暮らしていた。

かつては、ハームレス・ピープルと呼ばれてもいた。

 

 

 

 

弱肉強食の印象ばかりが強い

自然界の暮らしは、

ただただ弱肉強食の世界なのではなく、

穏やかな時間の流れることの多い

暮らしなのではないだろうか。

 

 

 

 

 

一方で、肉食獣たちの目は確かに厳しく見えることも事実である。

それはしかし、生活の厳しさを抱えているのは

草食獣ではなく肉食獣であることを示しているのかもしれない。

 

 

 

 

農民の反対を尊重した横暴な殿様と、住民の反対を弾圧する民主的な政府

逝きし世の面影』に、 病院建設のための農地を収用しようとしたが、農地を耕作していた農民が頑強に抵抗し、為政者側はこれを尊重して病院が建設されないままになっていた事例が出てきます。

 

平等と不平等をめぐる人類学的研究』には、その頃の日本では、土地の総有という概念があり、所有者の意志のみによって土地の使い方を決めることはできず、地域住民の同意が必要であったという事実が記されています。

 

こうした事実を踏まえて現在の法律の仕組みや実際に住民の反対を弾圧しながら強行されていく原発建設、基地建設、河口堰建設などの事例を見て見ると、江戸時代のほうが民主的で、法治国家こそが弾圧的であるという実態が見えてきます。

 

その理由を知る上で役立つのが、『世界システム論講義』や、『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』、『偽情報退散! マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』であると私は考えています。

 

マスメディア、教育、宗教が管理され、理屈をこねることで事実とは大きく違う人間像や、生物像、世界観が植え付けられていきます。たとえば、人は理性的な存在であるというウソがまき散らされていきます。こうして、あたかも人類は次第に進歩し、理想に近付いているかの様に思いこませながら、実際には一握りの人々にとってだけ都合のよい社会が作りあげられているのです。

 

江戸時代に農民一揆が弾圧されたという事実があったとしても、江戸時代の農民として生きることが、今の世界に生れて競争にさらされながら生きることと比べて、一方的に不幸ではなかったはずです。権力者の価値観が反映されて庶民にゆとりがあり、世界でも珍しい町民文化が育った江戸時代の日本は、生物として生まれ生物として死んでいく宿命を持ち、つらく悲しいものになりがちな生を、できるだけそのまま受け入れながら、しかも少しでも生きやすくしようしていました。それは、西洋文明が一度も達成できなかった、生物としての在り方に即した生き方を高度に達成した世界でした。

 

 

ともあれ、事実関係を確認していけば、私たちが生きる現代社会は、人々の自治や主体性よりも、巨大な経済や権力が優先され、それに即した生き方だけが許容される、一部のものの利益に合わせて設計された社会でしかないことが見えてくるのです。

 

少なくとも、現代社会が民主的な市民社会であるという嘘を信じることだけはやめたいものです。

脳が発達し、事実を観測して、アニミズムが滅び、人がヒトでいられなくなる

ヒトの脳が他の動物たちよりも発達しているのは事実であるらしい。

 

 

脳の発達は、視覚の発達を伴って周辺の状況を確認する能力を上げる作用や、個体識別と複数個体による協力を可能にする作用、道具を操る能力、言語能力などをもたらしたようである。私たちが視力に頼る動物になったことも、私たちの脳を発達させた一因だったのだ。

 

脳が発達することで、生存に有利になった面があったことは事実だろう。しかし、脳が発達しなければ生き残ることができないわけではなく、脳を発達させるための時間や栄養摂取を省くことで生き残りに成功している種もいることには留意が必要だろう。

 

さて、どうやら脳の発達という点で、現生生物種中では最先端を行っていると思われる人類。これは、素晴らしいことなのだろうか。

 

最近私が感じるのは、生物にとって重要なのは、客観的事実ではなく、主観的な事実であるという点である。子どもが庭の石ころや月、雲のような自然現象、そのほかすべてのものに自分と同じように生命や心があると考えるアニミズムの世界に生きているように、生命は本来、アニミズムの世界に生きる存在なのである。ところが、脳の発達が言葉を生み、定住が知識を蓄積させて、アニミズムの世界を捨てるように私たちに迫っている。

 

それは性能の低いレンズを使って見ていた世界が、おとぎ話の世界のようであったのに、性能の高いレンズに変えたことで、いろいろな不都合がはっきりわかってしまったことに似ているかもしれない。筆の跡も荒々しい絵画には、リアリスティックな絵画にはない味わいがあることにも似ているかもしれない。

 

 

どう表現すればよいのかわからないが、オランウータンやゴリラの家族が楽しそうにすごしている様子をみれば、そこには、私たちが本来持つべき時間があるように見えるのである。ヒトの暮らし方であってみても、科学技術の発達していない社会には、アニミズムが息づき、ヒトはまだ生きる力にあふれているように見えるのだ。

 

精霊を信じ、多くの人々が一緒になって川の対岸に精霊の姿を目撃するというピダハンは、犬と同じ食器から食べて平気でいる。そんな社会で、人は幸福感に満ちて暮らしている。

 

人は物質によって構成されているが、物質として扱い続ければ人ではなくなってしまう。ならば、別のありかたを探るしかないのではないだろうか。

 

 

超高層ビル群 変る景色が意味するものは...

漢字やひらがなで名前の書かれた店の入居する温かみのある建物が立て替えられて、英字で名前の書かれた店ばかり入居するガラス張りの冷たい超高層ビルになる。テレビや新聞は新しい超高層ビルが開業するたびに華々しい出発を報道する。

 

資本が投下されて超高層ビル群ができあがっていく背景を知らなかった頃であれば、私もおなじように街の発展を喜んだかもしれない。しかし、今ではまったく違う風景に見えている。

 

テナントの顔ぶれや価格帯を見てわかるのは、そこにあるのは、一般庶民が安心して利用できる店ではなく、高い給料を得て働いている都市労働者たちをターゲットにした店ばかりであるということである。飲み会や買い物に万札を使うことに抵抗のない、金銭労働者たちが、その地位を確認するために買い求める商品が並び、地に足のついた生活をしたい者たちは置き去りにされている世界である。

 

それは格差を必要とする世界であり、冷たさを選民思想によって合理化した世界である。

 

JP、JR。アルファベットが象徴するのは、それが日本のものではないということだ。国際○○と名の付くビルも目立つ。日本の財閥系の名前を冠したビルもあるが、実のところ日本の財閥自体が明治以降に外国勢力によって育てられた存在でしかないのだ。

 

こうして高層ビル群の姿を見れば、もうそこは日本国内ではなく、この国を実質支配している国外の存在たちがその勢力を誇示する姿でしかなくなってしまうのだ。

 

これを知ってみれば、超高層ビル群の本当の姿が見えるはずだ。

格差を産み、貧困を作り、人を締めだす冷酷な社会を作る者たちが、人権や福祉を叫ぶ矛盾に気づくはずだ。

 

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