去勢していないオス猫の欲望は半端ない
兄弟猫だから仲良くするだろうなどというのは大間違いだ。
互いを敵視し、毛を散らして戦う。
縄張り争いなのか、頻繁に尿をスプレーし、家中くさくてたまらない。
雌猫を探しに遠出をしようと、2階の窓から道路に飛び降りたときはさすがに痛かったらしいが、けがをしてはれ上がった前足を使って、カーテンと桟の間を移動して抜け出そうとしたのにも恐れ入った。
とにもかくにも、オスとして生きるということは、メスを得る衝動に突き動かされて、乱暴に、凶暴に、力強く、無計画に行動することなのだと、オス猫たちは見せつけてくれた。
私たちが、従順に生き、経済活動にいそしむ姿と何と違うことか。彼らこそが、生きている。腹が減ったとか、暑いとか、寒いとか。そんな欲求よりも、オスとしての本能が勝っている。
こんなオス猫たちも、去勢手術を経てすっかりおとなしくなった。
以前ならあり得ないことだが、同じソファーに並んで寝ていたり、鼻を合わせて挨拶をかわそうとしたりしている。正確が温和になって、殺気立つことがなくなった。お陰でずいぶんと飼いやすくはなっている。
メス猫は発情を迎えるとオス猫を呼んで数日間鳴きまくるため、これも避妊手術をしてしまわないと、とても室内飼いになどできない。
こうした猫の様子を見ていると、収入を得るために日々働き、おとなしく規則を受け入れている私たちの現在の状況というのは、あまりにも不自然であるとしか私には思えない。
おそらくは私たちのも去勢/避妊前の猫たちと同じように命に突き動かされている。けれど、その自然な状態は、私たちの生きる世界では隠すべきものとされて、去勢/避妊された猫たちのような従順さ/扱いやすさが要求される。宗教は、おもに人を従順にさせるために作られたのではないだろうか。
動物たちにしても、ある程度のルールはあり、日々を円滑に過ごすためには、あまりに勝手な行動を繰り返すわけにはいかない。しかし、私たちの暮らしとは違い、基本は、命に動かされる自然な状態を維持していくことができている。
私たちは文明が熟するほどに命に従う自然な状態から遠ざけられているとしか私には思えないのだ。人は自由をなくし、地域は自治をなくし、国家は主権をなくし、不自然なウソばかりがまかり通る。
抽象概念を積み重ねて語られるような理想は、自然な状態からの乖離をひどくして人を追い詰めるばかりであり、民を従順にして利用しやすくする支配者たちの息がかかった言葉でしかないのである。