毎日出てゐる青い空

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アニミズム/自然神/工業神―人/民/パーフェクトヒューマン

治療という幻想』には、神について記述されている(260~261ページ)。

「初めにことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった」

 

数千年前、自然神はこのことばを現在の人間に受肉させたというのが、古い思想である。そして、奇妙はことに、工業の次に控える神も、同様に純化された言語にこだわろうとしている。人間の思想や発想というのは、基本的に変らないものなのだと感じる。ただ、二千年前の預言者は、ことばを受肉させる人間の身体性について知っていたが、今日の神を予言するものは、ことばから身体性を排除しようとする。そして、それ故に希望を失う。

 

あるがままの身体性というのは、決して脳中心の身体性でないことはいうまでもない。手も足も胃腸も、すべて身の内なのである。が、だからといって、手や足がなければならないというものでもない。同様に脳がなければならないというわけではない。身体性というのは、主体的現在と関係的ここが、人・物・こと・自然との共存によって豊かに広がることばを発するところのものである。もちろん、発せられることばは音声でなくとも、文章でなくとも、記号でなくともよい。

しかし、自然神を失った人類に、身体性は保証されるのであろうかと心配する人、すなわちまだ居直れない人は多い。身体性への現代人の不信はとても大きい。

だが、よく考えてみよう。人類が誕生して数百万年。自然神が登場する以前の文化は数万年続いたといわれる。自然神は数千年にわたって地球を支配した。工業神は数百年の支配をもうすぐ終えようとしている。こういった、加速された神の支配の状況は、次に来る神は数十年しか支配権を有しないであろうことを予感させる。つまり、少なくとも自然神の後押しはなくなるとしても、それに代わる神々もまた、すぐに消えてゆく。

自然神の時代とは、人が動物か植物を育てることを生業とした時代であり、工業神の時代とは物を育てることよりも製造することが主となった時代である。239ページには次のように記載されている。

農業から工業への変化は、単に生き物から物へという産業の対象の変化には終わらなかった。物を取り扱う人類は、遺伝子操作などのいわゆるバイオテクノロジーの分野にも進出し始めた。生物を物のように工業的に操作しようという発想の次の段階がやってきているのだ。"生物から物へ"の時代は、"生物を物に"の時代へと足早に移行しつつある。

言葉による受肉から身体性の喪失へという変化が指摘されている。

 

 

偽情報退散!?マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』では宗教とテレビの類似性が指摘されている(397ページ)。

人は大きな可能性を持ってこの世に生まれてくる。赤ちゃんや小さな子供たちを見ていると、この子の人生にはどんな未来が広がっているのだろうと想像がかきたてられる。しかし一部の人を除き、多くの人は、年とともにその可能性がどんどん狭くなっていくように見受けられる。その要因には、親の育て方や画一化した学校教育、競争社会など様々なものがあげられるが、ここではその中で、テレビと宗教が与える影響を考えてみたい。

テレビと宗教にどのような共通点があるのか。一見、そこには何の共通性もないが、歴史を振り返ると両者は生まれた時代が違うだけの双子であることがわかる。まだテレビがない時代、国家が人々をまとめるために使ったものの一つが宗教である。古代の神殿は人々から穀物と貴金属を集めるための場所だった。また、壮大な神殿や教会や寺院の建設のために国民が労働に駆り出され、信仰は半ば強制された。

自然神の時代が宗教の時代であったとすれば、工業神の時代はテレビ(を通して与えられる価値観)の時代である。

 

狩猟採集の時代、人は動物として生き、唯一の本当の宗教であるアニミズム(『水木サンと妖怪たち: 見えないけれど、そこにいる』)を信仰していた。人にとって都合のよい理想を実現しようとすることよりも、人にとって都合の悪い現実を受け入れて生きることで、『サバンナの動物親子に学ぶ』に描かれた、肉食獣に狙われながらも軽やかに生きる草食獣と同じように軽やかに生きることができていた。

 

生物を生産する時代、人は教会・寺社・モスクなどの建造物に象徴される宗教を信じた。人は動物とは違う存在であると主張し、労働に勤しむことを受け入れるようになった。この欺瞞が人を苦しめ、人はさらに宗教に依存して、幻想を追うようになっていった。人は神によって定められた生き方をすることが最善の生き方であると考えた。

 

工業神の時代、技術は進歩して、人は都合の悪い現実を変えていくことができる存在であると思いこむ(思いこまされる)ようになった。神によって定められた生き方ではなく、理想を追いかけて実現できることが可能であると考える(考えさせられる)ようになったのである。ここで括弧書きを使ったのは、おそらく、「そんなことはしてはいけない」と考え続けてきた人々がかなり多くの割合でいつの時代でも存在してきたと考えるからであり、文明の支配者たちが人々に考えを強制していると考えるからである。しかしそれは余談である。

 

こうして、理想を実現しようとしてきた人類は身体性を失っていこうとしている。当たり前のことだが、ヒトは生命として誕生してきた以上、どんなに都合が悪くとも、生命の法則に従って、他の生命たちとともに、身体を張って生きていくしかなかったのである。

 

言葉を持って、肉体ではなく環境を変えることができるようになった人類は、不都合な現実を受け入れることなどできず、どこまでも理想を追いかけてついに生物として存在できないところまで行き着いてしまうのだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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