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人間疎外(自己疎外)と人類学 = 科学技術の進歩が人類を不幸にする理由

『自然人類学入門』という本を読みました。大学の教科書用に作られた本らしく、それほど目新しい部分はないようでしたので、飛ばし読みです。ただ、人類学は自然発生的な学問ではなく、ドイツの哲学者カントによって作り出された学問領域であると知るという思わぬ収穫がありました。

 

自己疎外の克服

  再び人類学に戻るが、人類学は自然発生的に生れた学問ではなく, ドイツの哲学者カント(Immanuel Kant)がつくり出した学問領域である.

  カントは人間の本質として, 自己家畜化現象(self-domestication phenomena)に注目した. 人間は直接自然環境のなかで生活するのではなく, 二次的な自然環境すなわち人工環境のなかで生活している. 人工環境下では, 環境要因がコントロールされ, あたかも家畜を飼うように自らを家畜化してゆく. こうした状況で, 本来人間のためにつくられたはずの人工環境が, かえって人間にとって住みにくい環境となることもある. カントはこれを自己疎外(self-alienation, ドイツ語でEnfremdung seiner selbst)とした. この自己疎外を克服するためには人間の自己理解が必要だとして, カントは人間学(die Anthropologie)を提唱した. これに賛同する人々, 主に先史学民族学の研究者が人類に関する知識を蓄えて人間学はスタートした. 人間の自己疎外を克服することを目的として, ちょうどチャップリン(Charlie Chaplin)が映画「モダンタイムズ」で機械文明を批判した(機械工の男がネジをまわす単純作業という自己疎外的状況で正気を失い, 道行く人の鼻をレンチでまわすなどして逮捕投獄され苦しむが, 最後は出所後に出会った身寄りのない少女と明日を信じて新たな出発をする)のと同じ動機で, 人間学は生まれたのである。

 

ここに書かれたことは、先日ご紹介した『治療という幻想』とも繋がってきていると思われます。『治療という幻想』では、全編を通じて、直ることではなく直そうとすることが、人間疎外に結びついていくという動きが、てんかん、先天異常、脳性まひ、言語という異なる障害の治療行為を通じて一貫してみられることを指摘していました。

 

『治療という幻想』を読むことで見えてくるのは、人が直りたいと願う心とイデオロギーや権力の結びつきが、医療という技術と結びついて、いとも簡単に人間疎外を生むという事実でした。『治療という幻想』の第六章「直りへの希望」から引用しましょう。

だが、よく考えてみよう。人類が誕生して数百万年。自然神が登場する以前の文化は数万年続いたといわれる。自然神は数千年にわたって地球を支配した。工業神は数百年の支配をもうすぐ終えようとしている。こういった、加速された神の支配の状況は、次に来る神は数十年しか支配権を有しないであろうことを予感させる。つまり、少なくとも、自然神の後押しはなくなるとしても、それに代わる神々もまた、すぐに消えてゆく。
しかもあるがままの身体性は、自然神によってさえ否定されてきたことは想起されるべきである。本書では、この側面を特に強くは紹介しなかったが、各章の端々にこの点については記したつもりである。自然神も、直そうとしてきたのである。
直る希望は、こういったすべての神々の死の先に見えてくる。地球のサイズと、人間が個人であり得るサイズのなかで居直った時、6W1Hを、ありのままの身体性で受け止める共生の仕方は、すでに示されているはずである。自然神の眼をとおしてではなく、もっと直接に、ありのままの身体性をとおして世界を見ることは、そんなに難しいことではないということを、私たちはすでに共生・共育のなかにかいまみてきた。ただ、あるがままの身体性への信頼を取り戻してゆくおおらかさは、今のところ、障害者の生き方のなかにより豊かに息吹いており、健常者の方が防衛的であるというあたりに、今日の直りへの居直りの限界が存在しているのだと思う。(261-262ページ)

ここに述べられている、「ありのままの身体性をとおして世界を見る」という言葉は、著者の石川氏の意図を超えた意味を持つのではないかと私は受け取りました。

 

人類は、知恵を絞って住みやすい環境を作り、苦痛や不安を逃れようとしてきましたが、そのことが、人類を自己疎外に追い込むという結果を必然的にもたらしたようです。なぜなら、人類は動物であり、動物のように自然環境の中で肉体を使って環境と対峙することによって初めて生き生きと生きられる存在であるからと考えるとつじつまがあいそうです。

 

たとえば、一番幸福な民族であるというピダハンや、豚のように生きる私たちに対して精霊のように生きるとされているピグミーの暮らしは、身体を使うことが減り、夜も明かりの下で暮らし、義務教育の10年近くを学校で暮らさなければならないとすれば、とたんに失われてしまいます。

 

生きものとしてしか存在できない私たちが、知恵を絞って生きもの本来の姿から遠ざかるほどに、私たちの自己疎外が深まっていく。最後には、昇華どころか自己崩壊を起こすに至る。こう考えたとき、私たちが進まなければならない道は、肉体で世界と向き合って、生きものとしての運命を受け入れていく道であるということがわかってきます。

 

私にはカントの始めた人間学が最終的に到達する地点は、この点であるように思えています。

 

 

 

 

 

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