赤ちゃん言葉で子どもに話かけない人々
久しぶりに『ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観』を開きました。
- 作者: ダニエル・L・エヴェレット,屋代通子
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2012/03/23
- メディア: 単行本
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この本を初めて読んだときは、まだ狩猟採集民についてほとんど知らなかったので、コリン・ターンブルによるピグミー関連の書籍を読んだ今となって読み直すと改めて気づかされることがあります。
その1つが、ピグミーもピダハンも赤ちゃん言葉で子どもに話かけないということです。
本書では、その理由が推測されています。
つまり、子どもを大人と対等な存在として扱うからではないかというのです。
続けて、ひとつのエピソードが紹介されています。
2歳くらいのよちよち歩きの幼児が刃渡り20cmあまりの鋭い包丁をもてあそんでいて落としたとき、母親は会話に夢中で、何気なく包丁を拾い上げて幼児に手渡したというのです。
ピダハンの子どもたちは、切り傷ややけどなどをこしらえると、手当はしてもらえるけれども、いつもは愛情深い母親から乱暴にではないものの「ウムムム!」という唸り声を聞かされ、危険からぶっきらぼうに引き離されるということです。「かわいそうに、痛いの痛いの飛んでいけ」といった言葉はかけてもらえません。そして、次のように続きます。
このようにして育てられた子どもはいたって肝の据わった、それでいて柔軟なおとなになり、他人が自分たちに義理を感じるいわれがあるとはこれっぽっちも考えない。ピダハン王国の住人は、一日一日を生き抜く原動力がひとえに自分自身の才覚とたくましさであることを知っているのだ。(129ページ)
私は、ピグミーの話を思い出します。『豚と精霊―ライフ・サイクルの人類学』でターンブルは幼児について次のように記述しています。
はいまわれるようになると、子供はまったく新しい世界にはいってゆく。それは「エンドゥ」の世界、つまり森の木の枝と葉でつくられた小屋の世界である。母親のからだとおなじように、子供は小屋の中をくまなく探検する。ときには、父親が小屋にもちこんだイバラやふちが鋭くとがっている木の葉や竹の破片や、あるいは刺しアリなどが子供を傷つけることがあるかもしれない。けれども母親は、あまり干渉せずに子供が自分で発見するようにしむける。子供は、こうした危険は簡単に回避できるものだし、とりのぞくこともできることを理解する。(33ページ)
この後、少し大きくなった子供が両親の小屋からも歩み出してキャンプの中を探検する場面があります。やけどをした子供は、ピダハンの子供とおなじように、なぐさめられるのではなくむしろ叱られしまいます。
南米とアフリカという遠く離れた場所に住む狩猟採集民たちが、同じような子育てをしていることは、人間の本来の子育てのあり方を示しているのではないでしょうか。
そして、このような子育てによって、自分自身の才覚とたくましさを生き抜く原動力とした人びとだけが生き残れることに大きな意味があるのではないでしょうか。