毎日出てゐる青い空

日々雑感をつづります。ホームページでは本の紹介などもしています。

ホームページ>るびりん書林別館
Twitter@goone3toshi
「Amazon.co.jpアソシエイト」

文明社会の大衆が警戒すべき相手は政治家や官僚よりもむしろマスコミだった。

こんばんは、本日もこのサイトを訪問くださりありがとうございます。

いつもどおりさっそく本題に入らせていただきます。

 

いつ頃得た概念なのかは思い出せませんが、メディアは政治を監視する機能を果たすことを本来的な役割としているというような考えを私はいつのころが持つようになりました。おそらくは、テレビや新聞自身が自らのそのような役割について解説していたり、若いころに読んだ本の中に記されていたのだと思います。他方で、メディアを監視側ではなく権力として位置づける議論もありますが、特にジャーナリストの本分は権力の監視であるという図式に従って、報道機関には特別な許可が与えられて、時に、政治家や官僚の不正を追及する存在として私たちの前に現れてくることが多いように感じます。

 

しかし、国際金融資本による世界支配(世界システム)という概念を知って、上記の図式は実態と完全に乖離していることが私には見えてきました。

 

世界システムが成立していくうえで、大きな役割を果たしたのが、情報の流通です。

 

市民革命によって旧支配層が倒され、民主的で自由博愛を理想としながら世界が変革されていっているという歴史観を与え、その最先端にあるのが欧米であるとして欧米へのあこがれを持たせる情報を流すようにメディアが統制されていきました。宗教の印象操作も積極的に行われました。

 

こうして、最初に上げたような、腐敗しがちな権力である政治家や官僚と、これを監視する、民主的な大衆の味方であるメディアという図式が提示されて、大衆はメディアの流す情報を基本的に概ね大衆側に立って発信されたものであると、無邪気に信じ込むことが多くなっているように私には見えます。もちろん以前の私もそうでした。

 

しかし、今回の感染症に関する報道や国ごとの対応を見てみると、主人である国際金融資本のいいなりに一番なっているのがメディアであるように見えます。特定の専門家をせっせと登場させて発言を繰り返し伝えてみたり、事実とは異なる印象を与えるようにデータの提示方法を編集したりしているのは、メディアであって政府や政治家ではありません。むしろ、田中宇氏も指摘するように、政治家や官僚は「WHOのコロ
ナ覇権に隠然と抵抗して良い半面、マスコミはコロ独推進の人道犯罪組織」になっています。

 

振り返ってみると、このような事態は何も今回に限った現象ではありません。

 

どの政治家を処罰すべきで、どの政治家を支持すべきかを大衆に伝えてきたのは、いつもマスコミでした。どのような政策を推進すべきで、どのような制度や法律を変えるべきであるのかもマスコミが人々に伝えてきました。

 

民営化を進めるべきか、外国人労働者を迎え入れるべきか、女性は稼ぎ手となるべきかどうか。こうした話題を持ち出して、特定の答えにつながるように、情報を与えてきたのは、政府や政治家ではなく、マスコミでした。

 

マスコミが政府の対応を批判するとすれば、それは、マスコミの持ち主である国際金融資本が、隠然と抵抗する政治家や官僚に「言うことを聞け」と命じているということなのでしょう。

 

私は新聞・テレビから情報を得なくなって10年以上になります。今回の感染症騒ぎでも、マスコミが流す情報は、正確性を欠き、特定の印象を与えるように加工され、公平な議論ができないように統制されたものばかりでした。

 

それも当然です。マスコミを作り上げ、所有しているのは、国家を超える存在である国際金融資本なのですから。テレビ、新聞、雑誌、大手出版社の書籍などから情報を得てしまうと、実態とは乖離した世界を信じ込まされていくことになり、国や国民を思う政治家や官僚を失脚させていくことにもなります。

 

マスコミの中にも心のある人物がいて、私たちのために戦ってくれていると思う人もあるかもしれません。しかし、そうした人々は、勤務先のメディアから情報を発信できなくされてしまうので、頼りにすることはできません。

 

なにより怖いのは、実際に私たちの考え方に影響を与えているのが、国際金融資本によって統制されたメディアと教育であることを私たち自身が自覚しておらず、ほとんどマスコミから得た情報だけに基づいて自分の考えを組み立ててしまっているということです。今回の感染症騒ぎがそのよい例です。一部の人を除き、新聞やテレビを頼りに、ワクチンの接種を選んだり、嬉々としてアルコール消毒を繰り返したりしています。

 

実際のところ、さまざまな問題の根源には、国際金融資本による活動があります。蟹工船や足利鉱山、野麦峠女工たちやもそうですし、戦争や対立関係なども、基本は意図的に演出されたものです。しかし、マスコミの情報操作により、私たちは遅れた国内法がいけないのだとか、倫理観の低い後進国であるこの国が悪いのだとか判断してしまい、西洋文明の進出に伴ってそうした問題が起きてきた(そして実際に利益をえるためにそうした活動を推進させた外国人資本家がいた)という事実に気づきません、

 

こうした事実を見えなくするのがマスコミであることから、私たちがまず警戒すべき相手はマスコミであるということができます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動物として生きる

彼らは野生の植物や動物を採集して食べ、

自然の中で子を産み育て、墓も作らずに死んでいく。

 

彼らの暮らしは、動物たちの暮らしと大差なく、

生きるために自然界以外のなにものも必要としない。

 

出世を望む必要もなければ、資格をとったり、

大金を得るために努力したりする必要もない。

 

彼らの日々は、動物たちと同じように、

必要なものと、楽しみとでできている。

 

病が命の終わりに直結するような世界ではあっても、

彼らの命は充実しており、嘘がない。

 

それが、私たち人類が長く過ごしてきた

本来の人の生き方であった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

定住は、水辺から始まった。

固定式の漁具や舟を使えば、

食べ物を求めて歩き回る必要なく、

より多くの荷物を所有しておくことができるようになった。

 

けれど、そこから貧富の差が生じ、

集団が固定化して、

社会階層が生まれて、

人は、社会に強く縛られるようになった。

 

人は動物として生きることよりも、

社会の一員として生きることを要求されるようになった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

定住にも利点があったように、

文明社会は私たちにさまざまなメリットも与えてくれる。

しかし、時代が進むほどに、

支配者たちの影響力は増し、

私たちの生き方は動物として次第に異常性を増している。

 

長く続けてきた自然な生き方である自由な狩猟採集生活はもう許されない。

 

ひとびとはビジネスのための言葉ばかり使い、

メディアが流す情報に従って生きることを強制される。

 

GAFAがルールとなり、GAFAに異を唱えることは許されない。

 

西洋文明が中世の間に、金貸したちのものとなり、

この文明が世界を覆いつくして、今の体制が出来上がったのである。

 

世界の歴史は政治家たちが作ったのではなく、金貸したちが作った。

中世の終わり以来、覇権国家を決めたのは、政治ではなく、資金であった。

 

今回の感染症騒ぎも、このことを裏付ける動きをずっと続けているのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

人の幸せは文明とは相いれず、狩猟採集者たちが生きる動物的な正常な暮らしの中にあったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カラハリ砂漠に生きる狩猟採集者たちのもとを訪れた日本の人類学者たちは、何もない場所で、幸せに生きる人々を知り、人はこんなふうにも生きられるのだと感じた。当時の私にはまだあまりはっきりとわからなかったのだが、今になって考えてみれば、人は、本来そのように生きるものであった。むしろ、私たちが暮らす文明社会は、言葉の力によってカネという概念が作られ、言葉の生んだ技術力によって人々が文明の力に頼り、支配者たちの意図に従うことを余儀なくされた、不自然で異常な状態であった。

 

 

 

動物として生きる

彼らは野生の植物や動物を採集して食べ、

自然の中で子を産み育て、墓も作らずに死んでいく。

 

彼らの暮らしは、動物たちの暮らしと大差なく、

生きるために自然界以外のなにものも必要としない。

 

出世を望む必要もなければ、資格をとったり、

大金を得るために努力したりする必要もない。

 

彼らの日々は、動物たちと同じように、

必要なものと、楽しみとでできている。

 

病が命の終わりに直結するような世界ではあっても、

彼らの命は充実しており、嘘がない。

 

それが、私たち人類が長く過ごしてきた

本来の人の生き方であった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

定住は、水辺から始まった。

固定式の漁具や舟を使えば、

食べ物を求めて歩き回る必要なく、

より多くの荷物を所有しておくことができるようになった。

 

けれど、そこから貧富の差が生じ、

集団が固定化して、

社会階層が生まれて、

人は、社会に強く縛られるようになった。

 

人は動物として生きることよりも、

社会の一員として生きることを要求されるようになった。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

定住にも利点があったように、

文明社会は私たちにさまざまなメリットも与えてくれる。

しかし、時代が進むほどに、

支配者たちの影響力は増し、

私たちの生き方は動物として次第に異常性を増している。

 

長く続けてきた自然な生き方である自由な狩猟採集生活はもう許されない。

 

ひとびとはビジネスのための言葉ばかり使い、

メディアが流す情報に従って生きることを強制される。

 

GAFAがルールとなり、GAFAに異を唱えることは許されない。

 

西洋文明が中世の間に、金貸したちのものとなり、

この文明が世界を覆いつくして、今の体制が出来上がったのである。

 

世界の歴史は政治家たちが作ったのではなく、金貸したちが作った。

中世の終わり移行、覇権国家を決めたのは、政治ではなく、資金であった。

 

今回の感染症騒ぎも、このことを裏付ける動きをずっと続けているのだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

人の幸せは文明とは相いれず、狩猟採集者たちが生きる動物的な正常な暮らしの中にあったのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

カラハリ砂漠に生きる狩猟採集者たちのもとを訪れた日本の人類学者たちは、何もない場所で、幸せに生きる人々を知り、人はこんなふうにも生きられるのだと感じた。当時の私にはまだあまりはっきりとわからなかったのだが、今になって考えてみれば、人は、本来そのように生きるものであった。むしろ、私たちが暮らす文明社会は、言葉の力によってカネという概念が作られ、言葉の生んだ技術力によって人々が文明の力に頼り、支配者たちの意図に従うことを余儀なくされた、不自然で異常な状態であった。

 

 

 

GAFAが独占支配するこの「民主的」時代をコロナ騒動が象徴する

情報を支配した者たちが、情報の民主化を徹底的に阻害する。

アカウントを停止し、検索結果から排除し、リンクには「危険」のマークを付けて、コロナ騒動の真実を伝えようとする情報へのアクセスを徹底的に阻害する。

 

彼らは自由の国が作り出したはずの企業群である。

 

なぜそこまでコロナ騒動の真実を隠したがるのか。

それは、人が生命であり、生命が利己的であるという一事に尽きる。

 

福祉国家を推進する原動力は、医療機器メーカーの利益である。

国民を弾圧する原動力は、国民の要求にこたえることが支配者たちの利益に反するからであり、たとえば、資源の枯渇が起これば、支配階級は国民に甘い顔をできなくなる。

 学校教育やメディアの伝えるところとは違い、文明社会の構図は、支配者の利益のためにその他大勢を統制し、働かせていくことに尽き、民主化など本当は起きていないのである。

コロナ騒動における情報統制は、この説明を裏付ける証拠の一つでしかないのである。

 

人は物質であり、生命である

人は物質である。

私たちの心はホルモンの強い影響を受けている。

夜勤が人の心を壊し、夜更かしが子供を不登校にし、朝の散歩がうつ病を改善させる。

 

人は生命である。

生命は生殖活動に力を注ぎ、競争し、ほかのたくさんの生命を奪いつつ生きる。

 

去勢されていないオス猫は、メス猫を求めてさまよい歩き、夏の暑さも冬の寒さも苦にしない。ホルモンが彼を動かし、彼の心に充実感をもたらす。

 

そこに、厳しいけれど楽しい生がある。

 

 

性をタブー視するのではなく、性を苦しいけれど楽しい生の不可欠な要素であると知れば、人は安全よりも波乱やときには死をも選ぶことになる。

 

 

物質であり、生命である人は、生産活動に従事などしない。

 

 

限りある命の時間を楽しくすごすには、そんな搾取にかかわってはいられない。

 

 

宗教も文明も、支配者たちが、物質であり生命である人々を、まるで永遠の存在であり、精神のみの存在であるかのように思い込ませて、生産活動にいそしませ、上前をはねるための仕掛けである。

 

人は生を楽しみ性を楽しみ、そして苦しむ存在であり、労働者でもなければ大衆でも、信者でもない。

 

 

 

夜の暗さが人を正気に戻すと信じたい

曇り空の上には青空がある。

人工照明に囲まれた街も、皮相でしかない。

 

鉄の塊を操って渋滞に突っ込む日々、あるいは、人であふれる電車に乗り込む日々。

もしくは、厖大な事務作業、次々襲い掛かるテクノロジーに忙殺される日々。

 

人は静けさを失い、暗闇を失い、自由を失って、

その事実に気付かないように

次々と目にし、耳にする、世の中の重大事(と思い込まされた)に合わせて思考を奪われる。

 

今の社会に生きるには、その世界に合わせていくしかないことは私も重々承知している。けれど、一歩引いて、そのような社会が皮相であり、私たちが生きるべきは、夜が暗く、鳥や獣の声を身近に聞き、風に吹かれて生きる、人権とか法律とかテクノロジーとか開発費とか人類とかグローバル経済とかとは無縁の世界であると念じながら人々が生きるようになれば、コロナ騒動など成立しえず、五輪に熱中することもない、新しい世界が誕生すると、私は信じたい。

西洋先進国という幻想を植え付けて人をアンドロイド化していく支配者たち

西洋文明は奴隷の存在を前提とする文明である。

中世の西洋から近代の始まりまで、西洋の庶民がひどい暮らしを続けてきたことは、事実である。

幕末の日本を訪れた西洋人たちは、全部ではないにしても、多くの農民や町民が彼らの祖国の庶民と比べて、非常に幸せであることに驚いたのであった。

 

茶の本を書いた岡倉天心が、西洋人は、日本が平和のおだやかな技芸に耽っていたとき、日本を野蛮国とみなしていたものである。だが、日本が満州の戦場で大殺戮を犯しはじめて以来、文明国とよんでいる。と指摘しているのも、西郷隆盛が、こんな国を作るはずではなかったというしかなかったのも、日本と西洋の文明の本質的な違いを表している。

 

寂しい山の中に小さく人の姿を描いた山水画は、人という存在のちっぽけさ、悲しさを象徴している。そうした前提があるからこそ、日本や東洋の文明は、足ることを知ることを大切にし、欲望に生きることを軽蔑することができたのである。これに対し、西洋文明が広げるのは、人の生命としての本質を隠して、まるで万能の存在になれるかのような言説を広め、人々の欲望を肯定し、競争を後押しするような価値観である。

 

学校教育やマスコミは、世界を支配した西洋文明に牛耳られているため、西洋先進国という幻想を与え続ける。実際には、町民文化をはぐくむこともできなかった野蛮な西洋文明を先進的で民主的伝統を持つ文明であると教え込み、西洋には成熟した市民社会が存在しているのだと思い込ませる。これを信じ込んだ人々は、共同体の失われた社会に自治を信じ込み、個人の発言が意味を持たない社会に民主主義を信じ込み、行動の制限されつくした社会に自由を信じ込み、そうした社会をさらに強める方向に努力することを人類の進歩に貢献したと思い込む。

 

ここまで来て見えてくるのは、私たちの社会は西洋化とかグローバル化という方向へ進んでいるのではなく、マスコミと教育によって、望ましい生き方を教え込まれたロボットのような存在を作る方向へ進まされているという事実である。野山に暮らし、動植物を取って生きるような暮らしは否定されて、衛生観念を持ち、医療を否定せず、体の声よりも知識を重視して、社会の基準に従って生きる。できるだけ軽薄な娯楽を選び、金を中心として生活する。そういう生き方を選べと言われているわけである。

 

こうした動きをつくっているのは、奴隷を前提として発展してきた文明であり、世界各地で残虐行為を働いてきた文明である。この点が、私たちの生きる現代を分析するうえで決定的な重要性を持つ。

 

彼らは、限度というものを知らず、遠慮や共存という言葉も知らない。彼らは利用できるものを利用し、利用価値がなくなれば何の躊躇もなく捨てていく。

 

彼らが世界を支配して文明は進歩したかもしれない。そして文明の恩恵を否定することは馬鹿らしいと思われるかもしれない。しかし、生命としての自分が欲しているのは文明の恩恵ではなく、文明によって劣化されていない環境のほうなのだ。

 

話題のダイエット方法