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「人は動物」これを知ることが、哲学の第一歩 /渋沢栄一💩くらえ

人は動物
警察官などという仕事を人がこなせるはずがない
マスコミが真実を伝えるはずがない
西洋人だからといって市民社会を実現できてなどいるはずがない
科学技術を良いことにだけ使うはずがない

人は動物
誕生後に環境に合わせて免疫の働きを調整する中で多数が失敗して死んでいくしかないという命の不都合を乗り越えて、乳幼児死亡率を劇的に低下させることなどできるはずがない
異性をみだらな目でみないはずがない
肉体を超えた存在であるはずがない

人は動物
ビジネスのために生きる存在ではない
善行のために生きる存在ではない
多くの人を集めて善政を行うことができる存在ではない

明治6年に象徴される近代国家への衣替えが、現代文明の正体を明らかにする。
『逝きし世の面影』に描かれたような、人の適当さ、生き物としてのあわれ、生きとし生けるものとしての共感を前提とする生き方を捨てさせたのが、この国を世界規模の経済活動に組み込んだ明治維新であった。

アメリカで、オーストラリアで、アフリカで、先住民の子供たちが親から引き離されて、親の生き方を否定する価値観を学校で教え込まれたことと同じように、日本にも義務教育が持ち込まれて、伝統的な価値感を否定しながら、より優れた労働者、経済システムの推進者になるための教育が施された。

植民化とともに普及された一神教は、人の肉体性・動物性を忘れさせて、ありえるはずのない精神性・完全性を夢想させることで、人は、経済活動に組み込まれたことの苦痛を自らの未熟さのためと思い込み、我慢するようになった。

一方、そうした世界とは無縁だった、ヘアーインディアン、ピダハン、アボリジニ、ピグミー、ブッシュマン、ヒデ族などの先住民の暮らしは、世界経済の配下から訪れた研究者らに、安堵を感じさせた。ピダハンは伝道師を無神論者に変えてしまったほどであった。

先住民たちの生き方は野蛮で、短命で、現代文明の基準からすれば犯罪行為がまかりとおる生き方である。けれど、彼らの生き方こそ本来であると知ることで、現代文明は、大衆を家畜化して野生動物よりは快適に暮らすことができるようにしながら、結局のところ家畜として利用することしか考えられていないのであるという真の姿が見えてくる。

民主主義などというものは存在せず、かつてはあった地域密着の生き方は不可能になり、ただただ世界規模の経済活動の中で生き残るために、人は無理を重ねる。地方自治などというものは存在せず、世界規模の経済活動のために作られた国家という枠組みの中で、経済発展のための都市と、利用価値のないへき地とが作られていく。

意外と思われるかもしれないが、現代よりも江戸時代のほうが地方自治でも、民主主義でも実質的に存在していたと私は見ている。村の寄り合いは、現代の市町村議会よりも地域に関する事案の解決について実質性が高かったはずである。寄り合いに参加するのも、選ばれた人ではなく、村人たちであった。

医療や、教育、冠婚葬祭、土地の使い方など、生活のあらゆる面で、江戸時代は現代よりもずっと自治的であった。押し付けられた法によるのではなく、地域の都合に合わせて運用することができた。就職や失業について悩む必要もなく、よりよい生活のために、資格をとったり、勉強に励んだりする必要もなかった。

こうした暮らしが失われたのは、世界規模の経済活動が、人の動物性を否定しながら、ありえるはずのない民主主義や法による支配などの概念を悪用して、社会はよりよくなっていくと人々をだまして頑張らせるようになったからである。今も、LGBT、女性の自立、福祉の充実などという言葉を使って、大衆をだまそうとしている。こうした言葉は、家畜化や自己犠牲を進める役割しか持たない。こうした言葉を信じ込むことで、世界はますます窮屈で生きにくい場所になっている。

 

 

 

(この記事は、新サイトにも掲載しました)

 

 

 

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