カラダがなければ何もわからない
光の強弱や温度の高低は現実に存在する。
私のカラダも明るさや温かさを感じる。
一方で、私が感じている痛みは、光や温度とは違い、
私のカラダが作り出しているものにすぎない。
もちろん、カラダの中の痛みも、何らかの物質が作用している点で
架空ではなく現実ではあるがカラダの外側には痛みはない。
甘さを感じ、心地よさを感じ、高揚感を感じることや、
苦みを感じ、不快を感じ、落胆を感じることで、
何がよいもので何が悪いものなのかを
習得しながら生物は生きている。
つまるところ、
私たちのあらゆる判断は私たちのカラダが基準になっている。
だから、カラダを無視して精神や魂を説いてみたところで無意味である。
カラダがないところに価値観はなく、崇高さや純粋さというものも
意味をなくしてしまう。
私たちの心も、カラダが生み出している。
たとえば、撫でられて気持ちよく感じるのは、
そのようにカラダが作られていったからである。
私たちは絶対的な真理を感じて生きているのではなく、
ヒトとして生きるうえで比較的適した感覚を持つ
カラダを通じて受け止めた世界で生きているにすぎない。
けれども、そんなカラダを当てにして生きていくことしか
私たちにはできない。
この話からさまざまな考察が生まれて来る。
価値観の押し付けがひどい現代文明の在り方への反省。
言葉が力を強めた社会ではカラダの存在がおろそかになりがちであること。
そもそもカラダを前提として生きるとはどのような生き方なのかという疑問。
けれど、今回はここまでで終わりにしておきたい。
この記事は「るびりん書林」にも掲載しました。