毎日出てゐる青い空

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祟りと権利

ネットから拾った文章を2種類

 

『井戸を壊したり埋めると、末代迄呪われる怖い話は本当です!!』 - 欠陥建築バスターズ

 

『井戸を壊したり埋めたりすると、死人、病人、破産、自殺者…』

 

建築に関わる人なら、誰でもこう言います!!

『井戸を壊したり埋めたりしたらアカン!』

『末代迄、呪われ、祟られる!』

 

…こんなの迷信だと思いますか? でも、私は信じます!

『実際に、多くの悲劇を見て来たからです!』

 

実例その1

…ある場所で、先祖代々地主として富を得て、市会議員を4期も勤めた上に、マンションを2棟にパチンコ店1件を持ち、大豪邸に住んでいた男性が居りました。

ところが…

…庭にあった、先祖から代々使用して来た井戸に蓋をしてから、悲劇は起こりました。

『井戸の蓋には、通気用の穴があったのですが、こんなのは、気休めでしかありません! ついに、呪いは実行されたのです。』

 

…この元市会議員は、22億円を越える資産があったのですが、井戸に蓋をしてから、たった2年で破産してしまいました。

『現在、この元市会議員の居所さえも不明です。風の噂では、ヤクザに殺されて埋められたのではないかとも言われています。』

 


実例その2

…ある旧家が遺産相続で、宅地400坪が売却されました。そして、その土地にマンションが建設されたのですが、その時に古い井戸を壊して埋めました。

『マンションは完成し、分譲されましたが、完成した年だけで、2人の飛び降り自殺があり、翌年には、マンションの一室で焼身自殺までありました。』

『更に、このマンションを販売した会社の社長も、不可解な死に方をして、マンションの施工業者の社長も、川に飛び込んで自殺しました。』

 


実例その3

…ある会社の敷地に、古い井戸があったので、この会社の社長は、神社の神主にお祓いをしてもらってから、空気抜きのパイプをさした状態で、砂で井戸を埋めました。

『すると、それまで、景気が良くて、会社は右肩上がりに売り上げを伸ばしていたのに、井戸を埋めてからは、一転して経営危機が続き、社長と社長の妻、それに娘2人が精神病になり、会社も倒産しました。』

 


…これらは、全て、私が良く知る人達の悲劇です!

『私は、必死に、井戸を壊したり埋めたりしない様に、アドバイスしたのですが…』

 

結論…

『井戸は絶対に、壊したり埋めたりしてはいけない。』

『蓋をしたり、空気抜きをしても、井戸の呪いや祟りからは逃げられない!』

『神主のお祓いも、何の効果もない!』

 

 

 

 

小学校社会 6学年 下巻 - Wikibooks

裁判所の仕事[編集]

 
裁判所のしくみ。判決に納得できない場合は、何回か上級の裁判所にうったえることができます。
裁判所の種類
 最高裁判所 




高等裁判所
地方裁判所
家庭裁判所
簡易裁判所

裁判(さいばん)では、国民どうしのあらそいごとを解決させたり、犯罪をうたがわれている人の罪のあるなしを決める。

裁判(さいばん)を行うことができるのは裁判所(さいばんしょ)だけである。

裁判を行う権利を司法権(しほうけん)と言う。司法権は裁判所しか持つことが出来ません。


国民は、だれでも、裁判を受けられる権利をもっている。しかし、裁判をひらくことのできる権利をもつ組織は、日本では裁判所だけである。

裁判を受けるということは、けっして罪(つみ)や罰(ばつ)ではなく、権利なのです。
たとえば、もし裁判を受ける権利がないと、どうなるかというと、いきなり、だれか偉い人から「オマエは死刑だ!」とか「あしたからオマエの払う税金が年間に1000億円だ!」とかアナタが言われても、もし裁判がなければ、さからうことができません。
でも、裁判の制度があるから、「私には、そんな義務はありません! 税金を1000億円も払う義務は、私には、ありません! 死刑にされる義務なんて、ありません!」と、裁判所で主張する事ができるわけです。
だから裁判を受けることは、権利なのです。


さて、さきほど言ったように、裁判を行う権利のことを司法権(しほうけん)と言います。司法権は、裁判所しか持つことが出来ません。

国会も内閣も、裁判には口出しできないのです。

 

「祟り」も「権利」も抽象概念です。

「祟り」があると信じることと、「権利」があると信じることは、

どこに違いがあるのでしょう。

 

祟りを信じる人々を、愚かで、合理性のない人々であると考えるなら、

権利を信じる人々も、同じく愚かで合理性のない人々です。

 

「権利」があるように見えるのは、

「権利」があるかのように社会制度が

仕立て上げられているからにすぎません。

 

 

 

現実を見て見れば、「権利」という言葉は、

人間を労働力として利用することに使われました。

解放されたはずの女性は労働者になり、

夫も家事に育児にと多忙になり、

睡眠時間は経る一方です。

 

権利という言葉は、土地を奪って経済活動に利用するために

発明された言葉のようにも思えます。

裁判を起こして国や企業にとって都合のよい判決を下せば、

合法的に土地を占有できます。

かつて存在していた土地の総有という概念は一顧もされませんでした。

『平等と不平等をめぐる人類学的研究』

 

 

また、『イシュマエル―ヒトに、まだ希望はあるか』にあるように

この世界は人の都合に合わせて作られてなどいません。

そのため人の都合で「権利」などという言葉を作りあげてみても

現実には意味を持ちません。

むしろ、権利などという言葉のなかったときのほうが、

平等性が高かったり、

生命の不都合さに沿った

本来的な生き方ができていたりもします。

 

 

「祟り」と「権利」という2例が示すように、

抽象概念を発明し、物語を作ることで、人は

事実がどうであるのかを見るのではなく

描かれた絵のほうを信じ込んでしまっています。

 

 

 

抽象概念の有害性を利用して、

支配者は大衆を操作していきます。

 

 

 

 

 

 

 

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