海で
30年ぶりの海水浴
前回泳いだときのことは覚えていない。
今回は、シュノーケルを付けて、あまりよくは見えない海底をみながら、1メートルほどの深さの岸辺で泳ぐ時間を多くすごした。
100円ショップで売っている小さな浮き輪を頼りに水に浮き、ゆっくりと移動する。
バタ足の力は思った以上に弱く、手の力も加えてやらないと進むこともままならない。
水に顔を付けてしまえば、どちらが陸でどちらが沖なのかも判然としなくなり、沖のほうに行きすぎたかもしれないと不安に顔を上げ、足を伸ばして見れば、かえって陸に近付いているという落ちが付く。
私が顔を付けて泳いでいるそばを別の海水浴客が通って水底に落ちる光をさえぎると、巨大な魚が迫ってきて暗くなったように錯覚し、ここでも気弱になるのである。
しかし、水につかってさまざまに動きを楽しんでいると、1、2時間の予定だったはずの海水浴が、あっという間に3時間を超えてしまっている。それは、肉体が新しい運動を覚えていく楽しい時間でもある。
さっきより少し深いところへ行ってみたり、速く泳ぐ工夫をしたり、もぐってみたり、ただ浮いてバランスをとってみたり。
そういえば、海底から真水がわき出す場所でもあったようで、部分的に海水の温度が低かったのも面白かった。
日常生活では感じない、自分の体に備わっている能力の程度を感じ、命に対する不安感を覚え、子どもの頃のようあっという間に時間が過ぎ、空腹も忘れている。
ヒトが文明を発達させるまでは、ヒトも動物として生き、こうした時間の過ごし方だけが存在していたはずだ。
楽しみの中で食べ物を得、厳しい自然と対峙することもまた楽しく、遊びの中に暮らしがあり、厳しさの中に楽しさがあったはずだ。
「身体の人類学 カラハリ狩猟採集民グウィの日常行動」には、自然の恵みに全面的に依存して生きる人々がいることに感動と驚きを覚え、人間はもっとべつな生き方ができると感じ、母国の生活で衰弱した自分が「元気」をもらえるのだという内容が記されている。
現代社会は、実際には、奴隷制、植民地支配の延長線上にある。金融システムや、著作権、法人、特許、裁判制度などによって人は金に縛りつけられている。しかし、学校教育やマスコミは、民主的な社会へと向かう現在を強調し、自由や自己実現が可能な社会であると思い込ませていく。人は、社会に貢献することや、富を手に入れることを目指し、自ら進んでこの牢獄を強化・発展させていき、支配者たちの利益追求に利用されていく。そしてますます多忙になり、根本を思索する時間をなくし、動物たちの持つ自由を失っている。
こうした支配社会に疲れた私たちだから、支配をのがれていた狩猟採集者たちから元気をもらえるのだ。
私たちを幸せにするのは、長寿や文明の利器ではなく、動物的な生き方が可能な、小さな社会である。