毎日出てゐる青い空

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自然に帰れではなく、正常に戻れ

言葉によって作り上げられた私たちの社会。

 

言葉によって作り上げられた私たちの社会は、あらゆる生物にとって不都合であることで、あらゆる生物の存在を許される生命の世界を破壊するものである。

 

言葉を得た人類(20万年ほど前に登場したホモサピエンス)が行ってきたことは、人類にとって不都合な世界を、人類にとって都合のよい世界へと変えようとする営みだった。

 

植物を育て、動物を飼い、耕作地を増やし、森を切り開き、道を作った。

 

その動きは加速して、ワクチン接種、遺伝子操作、さまざまな手術、電力の利用、自動車の利用、コンピュータの発達など、ますます多くの不都合を解消できるようになっている。

 

 

そうして不都合を解消することで、見えてきたのは、不都合を不都合として受け入れることでしか、生物は存続できないのではないかという事実であった。

 

 

たとえば、多く生まれて幼くして多く死ぬ状況は確かに不都合である。しかし、そうした社会は活力があり、子育てを学ぶ機会を生み、子どもたちが遊ぶ時間を作っていた。また、日々を大切にすること、命を大切にすることを自然に学ぶことができた。そのうえ、そうして生き残った人たちは肉体的にも精神的にも強く、厳しい生活が生きる喜びをもたらしてくれていた。

 

乳幼児死亡率が低下することで、社会は子どもの数を減らして活力を失い、人々は子育ての場面を体験できないまま大人を迎えることになり、子どもたちは過保護過干渉を受け、人生は長いと思い込み、肉体的にも精神的にも弱いままの大人になり、文明の利器に支えられて生きながら生きる喜びを感じることができなくなっている。

 

 

人が殺し合うことは不都合であるだろう。しかし、殺し合うことが可能であった社会は、救いのある社会でもあった。一方、殺し合うことができなくなった社会は、なすすべを奪われた救いのない社会でもある。

 

 

 

人は文明と野生、自然と人工を対立させて、どちらか一方を理想世界であると考えようとする。

 

事実は上で見たとおりである。

 

つまり、文明・人工は、言葉を持った人類が人類にとって都合のよい世界を作り上げようとする過程であり、それは、不都合があるおかげで成り立っている世界を破壊しようとする異常な状態である。

 

一方、不都合を不都合として受け入れるしかない人類のあり方も存在している。それが遊動する狩猟採集生活だ。遊動の必要性が社会や制度の発達を阻害し、科学技術の発展を制限してくれる。そのおかげで、遊動する狩猟採集者たちは、自然に近い生活を続けてくることができていた。

 

生物にとって正常な状態とは、都合の良い世界を作り上げたいという生物が本来持つ欲求が、多くの制限によって抑制されている状態である。それが自然であり、野生である。

 

自然に帰れとは、なすすべのない状況を甘んじて受け入れよ、そして正常な状態に戻れということだ。決して、文明の支配者たちから逃れて、快適で楽しい自然界へ戻れということではない。

 

どんなに不都合でも、電気も自動車も使わず、身近で得られるものだけに頼って生きていくときに、人は正常な状態を取り戻すことができ、そこから逃れようとすればするほど異常性を増していくのだ(甘んじることが可能かどうかはわからない)。

 

ともかく、私たちは自然/人工や野生/文明ではなく、正常/異常という視点から人類史を見る必要があると私は思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

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