姥捨て山
多分、小学生の頃、昔の貧しい生活の象徴として、姥捨て山の話を聞いた。
その当時、どんな感想を持ったのかよく覚えていない。
最近、狩猟採集の暮らしについて調べるようになって、
世界中どこにでも、姥捨てが存在してきたことを知った。
オーストラリアの『アボリジナル』、南米の『グアヤキ年代記』、
北米の『極北の放浪者』。
動けなくなった老人たちは命を奪われていた。
もちろんそれは、老人たちの命を奪う者たちの将来の運命でもあった。
私たちは文明社会に暮らすおかげでそのような残酷な行為を免れている。
しかし、本当にそうなのだろうか。
だれが老人の介護を希望するのだろうか。
ただ、立場の弱い人たちに押し付けられているだけではないのだろうか。
福祉を重視することは、楽しく暮らすことのできるはずの年代に、
賃金労働にあけくれることしか許さない結果を招いてはいないだろうか。
地上の限りある資源は、人類を含むあらゆる生物が分け合っている。
老人たちの命が延びれば、一人あたりの取り分を減らすなり、
人口を抑制するなりしなければならないはずである。
人は子孫を残すことより、老人の幸福を望んでいるのだろうか。
コリン・ターンブルの言う小規模な社会であれば、
人々はこのような問題を自分の問題として実感し、
答えを出そうとするだろう。
私たちは、本当は野生動物たちと同じ、残酷な世界に生きているのでは
ないのだろうか。