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はだかの起源と言葉と世界観

言葉を話すことのできる動物は人だけである。

『はだかの起源―不適者は生きのびる』によると、人のなかでも、現生人類につながる20~30万年前の祖先だけが、のどの構造の変化によって言葉を発することができるようになったようである。本書では、そのとき、同時に体毛も失われたのではないかと推測されている。

 

はだかの起原―不適者は生きのびる

はだかの起原―不適者は生きのびる

 

 

他方で、人の言葉を理解する能力は、ヒト科の動物であるボノボにもあるらしい。

人の言葉を理解するとは、単語に対して条件反射的に応じるだけでなく、「カギを箱に入れて」といった文を理解し、そのように行動する能力があることを指している。

 

現生人類だけでなく、近縁の種も言葉を理解する能力を持つことから、ネアンデルタール人なども言葉を理解する能力を持っていただろうと思われる。しかし、実際に言葉を使うことができるようになったのは私たち現生人類だけであった。言葉を持つことによって初めて複雑な技術の伝達が可能になった。

 

この本の著者、島氏は、はだかになった人びとが生き延びるために家と焚火を必要とし、それを守る特別な社会構造を作って、これを維持する方策をとったことから、人はみずからを文化の家畜と化していったと推論している。

 

島氏は、現生人類以前の人類では一つの種が存続する間、数十万年にわたって石器の進歩がなかったのに対し、現生人類では10万年の停滞の後、文化的発展の見られる5麺年があり、そして新しい文化が陸続と続いて加速してきたと述べた後で次のように続けている。

 

だが、人間の種としての感性は遺伝的に決まっているので、ラスコーの洞窟壁画を現代美術と並べて観賞することができる。文化がそれをとぎすますことはあっても、人類の感性にまったく新しい何かを付け加えることはない。

だが、言葉は違う。それは事実を心の中に生み出し、現実にする。それが文字となるとき、言葉は編実になる。それは無限のときを超えて生きるもうひとつの生命となる。

しかし、言葉ほど不完全なものはない。それはうつろう影に過ぎない。言葉は、果てしない変化、変貌、変容、メタモルフォーゼ、分岐、異化、差別化、生々流転、消滅、そして創生の運命をたどる。それは数十億年の時に耐えてきたタンパク質による遺伝的暗号に比べると、非常にもろく、崩れやすい儚い夢、幻である。

こうして、私たちの文化はいつも両面を持つ。脆弱な影の側面と累進的な力を生み出す強力な現実の側面と。それはまた、巨大化した前頭葉の両面でもある。(263-264)

 

この後、島氏は、今ある問題の広がりと深さを確実に理解するためには、自然科学がどうしても必要であると主張している。

 

 一方で、『ピダハン―「言語本能」を超える文化と世界観』には、これとは異なる言語の側面が記されている。人間は客観的世界にだけ生きるのでも、社会活動のなかだけで生きているのでもなく、特定の言語に左右されている部分が大いにあるというサピアによる言葉(『科学としての言語学』)を引用し、次のように議論が展開されている。

 

 

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

 

 サピアによれば、言語は物事を見聞きするわれわれの知覚に影響を与えている。サピアの見解では、わたしたちが日常目にしたり耳にしたりするものは、わたしたちが世界について語る方10によって決定づけられるというのだ。こう考えると、ピダハンとジャングルを歩いていて枝が揺れたとわたしが見たとき、彼らには枝を揺らしている精霊が見えるというのがなるほどと理解できる。サピアはさらに、わたしたちが世界をどう見るかは言語によって構築され、われわれが見ているものが何であり、それが何を意味しているかを教えてくれる言語というフィルターなしに感じることのできる「現実世界」なるものなど存在しないとまで言っている。(304)

 この後、しばらく議論の展開が続き、次のような記述に至っている。

ピダハンは深遠なる真実を望まない。そのような考え方は彼らの価値観に入る余地がないのだ。ピダハンにとって真実とは、魚を獲ること、カヌーを漕ぐこと、子どもたちと笑い合うこと、兄弟を愛すること、マラリアで死ぬことだ。そういう彼らは原始的な存在だろうか?人類学ではそのように考え、だからこそピダハンが神や世界、創世をどのように見ているか懸命に探ろうとする。

しかし面白いことに物事には別の見方もある。西洋人であるわれわれが抱えているようなさまざまな不安こそ、じつは文化を原始的にしているとは言えないだろうか。そういう不安のない文化こそ、洗練の極みにあるとは言えないだろうか。こちらの見方が正しいとすれば、ピダハンこそ洗練された人々だ。こじつけがましく聞こえるだろうか。どうか考えてみてほしい―畏れ、気をもみながら宇宙を見上げ、自分たちは宇宙のすべてを理解できると信じることと、人生をあるがままに楽しみ、神や真実を探求する虚しさを理解していることと、どちらが理知をきわめているかを。(378-379)

 つまるところ、現在の人類の危機的な状況は、言語を持った存在であることに根本原因があるのではないといえそうなのである。ピダハンのような世界観とそれに即した言語を取り入れることによって、日々を幸せに生きながら、生態系を脅かすこともなく存在し続けることができそうなのだ。

 

人生をあるがままに楽しめなくしているのは、私たちの価値観と社会である。このような観点から社会を捉え直してみれば、物事がすべて逆に見えてくる。農耕を教えられても続けることのないピダハン。食物を貯蔵することのないピダハン。ピダハンからすれば私たちのほうがつまらない生き方をしながら、生態系を壊し続けている。

 

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