雷様と雷
昨日の続きです。
物理的事実の世界で生きていれば、雷が鳴ったとき、これは放電現象であり、避雷針を使って避けることができるとわかります。
一方、生物としてのヒトの次元では、雷は、命のある何らか存在による怒りや暴力的な感情の発露であかのように感じ取ります。その結果、この怒りの矛先とならぬよう、急いで布団に潜り込むような行動もとり、雷が止んだときの安堵も大きいでしょう。
したがって、自分が生きていることの実感としては後者のほうが大きくなります。ですから、ヒトが生物である限り、ヒトにとっての事実は後者であり、これを見失ったときに、ヒトは精神を病み始めるのではないかと思えるのです。
この結果、物理的に正しいかどうかではなく、私たちは、その現象からどのような印象を受けるかを基本として、行動を決めていくことが重要になります。
たとえば、巨大ダム建設が物理的に可能かどうかではなく、自分たちの命を支える川や山を破壊するときに、生物としてのヒトは、警報を発しているはずであり、だったら、ダムなど建設しないという結論になるはずであり、たとえば、コインやお札を見ても、何も感じないことが生物としてのヒトの反応であると思えるのです。