毎日出てゐる青い空

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故郷の川を破壊したのは、明治維新を強行した西洋文明だった

学校やテレビや新聞から得た知識を信じ込んでいた以前の私。

 

30年以上前、高校の下宿先から実家に帰るたびに乗るバスから見る故郷の川は、いつも工事が繰り返されて茶色く濁っていた。なぜ、そんなにも工事が繰り返されるのかは知らなかったが、新聞も教科書も公害問題を取り上げ、自然保護をうたい、西洋の進んだ自然保護の在り方を伝えて、民主主義の成熟が、こうした乱暴な工事を次第に修正していってくれるものと、私は思いこんでいた。

 

あれから、ずいぶん時が過ぎ、私はようやく、真実を知った。

 

幕末に西洋文明の配下に入れられたトタンに、この日本列島で自然破壊が激しくなり、経済最優先の道を歩むことを余儀なくされてきたのだということを。

 

西洋文明が長州藩出身者たちに作らせた政府は、重税を取り、労働者を教育し、土地を私有化し、貿易を拡大し、多くの兵器を購入し、鉄道を敷設して、西洋文明の要請にこたえていった。中央集権化を進め、銀行を作り、新聞を作り、電信・郵便制度を整えることも経済のためであった。

 

私が子どもの頃、まだ家は薪で飯を炊き、風呂を沸かしていた。家電製品といえば、電灯とアイロンくらいであった。それから扇風機、洗濯機、冷蔵庫、ラジカセ、テレビと電気製品が増えていき、 子どもたちを高校までやるためにと父は山仕事をやめて自動車免許をとり、プロパンガス会社に就職してボンベを担いだ。母もすぐに月曜から土曜まで働きに出るようになった。

 

地方自治をうたいながら、実際には地方から自治を取り上げて強化された中央集権は、地方を周辺化し、地方の文化の芽を枯らし、ただ中央の巨大企業の下請けとして、中央の決めた事業を請け負うだけの場所にした(テレビの伝えるニューズで地方のニュースといえば犯罪や事故がほとんどだ)。

 

かつての選挙権を持たなかった人々はしかし、会社に縛られることなく、勤務時間を管理されることも、勤務日を管理されることもない人々であった。平日に祭りを執り行い、地域のもろもろを話し合いによって解決できる人々であった。

 

現実の世界は、学校やマスコミが伝えるのとは逆に進んでいっている。民主化を謳いながらカネと正しさとで縛り付け、本当の意味での選択肢はなくなっている。地方自治を唱えてはいても中央すなわち国際金融資本が進める経済開発を拒むことは決してできない。誰もが英語を話し、グローバル企業に縛られて一生を過ごす。かつてあった、自由はすべて失われてしまった。

 

この文明社会は、経済活動を最優先させて富を築きたい人々がマスコミと教育を操って作り上げた世界である。だから、山も川も破壊され、水も空気も汚れ、生物は死んでいく。西洋文明が自然を守ったのではなく、西洋文明が自然を破壊することを強制して、世界はこうなったのだ。

 

私の50年の経験は、そう告げている。

 

人間は愚かだ

久しぶりの更新になります、いかがお過ごしでしょうか。

 

私は多忙な日々を送っておりますが、収入には結び付きにくい作業に時間を当てているので、貧乏暇なしを実感中です。

 

さて今日の件名は「人間は愚かだ」としました。

 

「人間は愚かだ」は、ペルーでM8.0が起きたので、太平洋プレートを取り巻く地震に関するこれまでのデータから次は日本だとした記事に対して書き込まれていたコメントです。

 

私も人間は愚かだなあとつくづく思います。

 

それを一番感じるのは、今の文明の限界を指摘しながら、ここから脱却していくための方法として、魂の成長による理想的な人間像を想定したり、共感能力や、想像力の発揮に期待したりするような思想ばかりに出会うときです。

 

動物たちの生き方や、狩猟採集社会の人びとの生き方を知れば、文明社会の価値観など、虚構でしかないことがわかってきます。そして、国際金融家や世界システムというキーワードを元に文明社会の真の姿を見ていくと、そこにあるのは言葉を持ったがゆえに能力を飛躍させたものの、本質的に他の生命と何の代わりもない生命であることが見えてきます。

 

肉体を離れて精神は存在せず、利己性が優位でなければ子孫を残すことなどできない。だから、文明社会は、特定の勢力を利するように作られていき、大衆は騙され続け、時代を下るほどに締め付けが厳しくなっていくだけ。

 

そうした重要な部分を見ないで、文明社会の支配者たちがばらまく、人の精神性や、利他性、共感能力といったものに重きをおいて、明るい未来を夢見る。その結果、さらに支配は強化されていき、生きづらさばかりが増していながら、いままでになく進歩した社会に生きて、この社会の発展に貢献していると思い込む。

 

人間はつくづく愚かだと、私もその一員であり、何もできない無力な存在として、実感します。

 

猫の心


ハナの心

 

この子は、ハナちゃん(三男)、今年の夏で5歳になる男の子です。去勢していません。

隣の黒猫はクロちゃん(次男)。ハナちゃんと一緒に生まれた兄弟です。去勢していません。オスばかり3匹生まれ、長男(タロちゃん)はもらわれていきました。

三匹は小さいときから性格の違いがはっきりしていて、タロちゃんはおっとり、ハナちゃんは人懐っこく、クロちゃんは野性的でした。

オスばかり3匹だったので、将来は『猫になった山猫』にあるように兄弟で協力し合う姿が見られるかもしれないと思っていましたが、大人になるにつれて仲が悪くなり、毛を散らす喧嘩もするようになってしまいました。MAKOMAKOさんや、ももと天さんのように穏やかな関係にならないのは、飼い主たちに似たせいかもしれません。

この動画では、ハナちゃんがくつろいでいるところに、食事を終えたクロちゃんがやってきて少し緊張感が走りましたが無益な戦いはどちらも希望するところではなかったらしく、同じソファの上で少し離れて休むことができました。

豆腐作り/中国のユーチューバー 李子柒

最近知ったYotuberの動画です。李子柒

 

 インタビュー記事があります。

galapagosfrog.hatenablog.com

 

故郷に戻った後、生計を立てるために淘宝(タオバオで自分のネットショップを開き、宣伝のために動画を公開することにしました。予想外だったのは、結果的に動画の方が人気になってしまったこと。結局、ネットショップの方は長続きせず止めてしまいました。

 

ネットでの活動をお休みしている間、出来る限り祖母に付き添っていたようですが、背に腹は代えられないわけで。生活を続けていくために当時できることと言えば、動画を撮影すること。それで撮影チームを作ることを決意します。

 

今では自分の会社を立ち上げて投資も獲得しているようです。現在動画の撮影は李子柒3人のチームで行っています。

 

彼女は十代で仕事のために故郷を離れ、7-8年の期間を外の世界を経験しています。レストランのウェイトレスやバーのDJなど経て今に至っています。

 

――バーのDJと昔風コスプレのブロガー。どうしてこの二つの事があなたに生じたと思いますか?

 

李子柒:ひとつには生きるため。お金を稼いで家族を養うため。もう一つは、自分の本当に欲しい生活を得るため。ただそれだけです。

 

 動画を見ればある程度予想できることですが、これは本当の生活ではなく、撮影用に昔風にコスプレをして撮影されたもののようです。ただし、道具の使い方を見ると、まったく経験がないわけではなく、普段からある程度使いなれた道具を使っているように思えます。

 

今日は、ここまで

 

 

 

 

 

 

「人は動物」これを知ることが、哲学の第一歩 /渋沢栄一💩くらえ

人は動物
警察官などという仕事を人がこなせるはずがない
マスコミが真実を伝えるはずがない
西洋人だからといって市民社会を実現できてなどいるはずがない
科学技術を良いことにだけ使うはずがない

人は動物
誕生後に環境に合わせて免疫の働きを調整する中で多数が失敗して死んでいくしかないという命の不都合を乗り越えて、乳幼児死亡率を劇的に低下させることなどできるはずがない
異性をみだらな目でみないはずがない
肉体を超えた存在であるはずがない

人は動物
ビジネスのために生きる存在ではない
善行のために生きる存在ではない
多くの人を集めて善政を行うことができる存在ではない

明治6年に象徴される近代国家への衣替えが、現代文明の正体を明らかにする。
『逝きし世の面影』に描かれたような、人の適当さ、生き物としてのあわれ、生きとし生けるものとしての共感を前提とする生き方を捨てさせたのが、この国を世界規模の経済活動に組み込んだ明治維新であった。

アメリカで、オーストラリアで、アフリカで、先住民の子供たちが親から引き離されて、親の生き方を否定する価値観を学校で教え込まれたことと同じように、日本にも義務教育が持ち込まれて、伝統的な価値感を否定しながら、より優れた労働者、経済システムの推進者になるための教育が施された。

植民化とともに普及された一神教は、人の肉体性・動物性を忘れさせて、ありえるはずのない精神性・完全性を夢想させることで、人は、経済活動に組み込まれたことの苦痛を自らの未熟さのためと思い込み、我慢するようになった。

一方、そうした世界とは無縁だった、ヘアーインディアン、ピダハン、アボリジニ、ピグミー、ブッシュマン、ヒデ族などの先住民の暮らしは、世界経済の配下から訪れた研究者らに、安堵を感じさせた。ピダハンは伝道師を無神論者に変えてしまったほどであった。

先住民たちの生き方は野蛮で、短命で、現代文明の基準からすれば犯罪行為がまかりとおる生き方である。けれど、彼らの生き方こそ本来であると知ることで、現代文明は、大衆を家畜化して野生動物よりは快適に暮らすことができるようにしながら、結局のところ家畜として利用することしか考えられていないのであるという真の姿が見えてくる。

民主主義などというものは存在せず、かつてはあった地域密着の生き方は不可能になり、ただただ世界規模の経済活動の中で生き残るために、人は無理を重ねる。地方自治などというものは存在せず、世界規模の経済活動のために作られた国家という枠組みの中で、経済発展のための都市と、利用価値のないへき地とが作られていく。

意外と思われるかもしれないが、現代よりも江戸時代のほうが地方自治でも、民主主義でも実質的に存在していたと私は見ている。村の寄り合いは、現代の市町村議会よりも地域に関する事案の解決について実質性が高かったはずである。寄り合いに参加するのも、選ばれた人ではなく、村人たちであった。

医療や、教育、冠婚葬祭、土地の使い方など、生活のあらゆる面で、江戸時代は現代よりもずっと自治的であった。押し付けられた法によるのではなく、地域の都合に合わせて運用することができた。就職や失業について悩む必要もなく、よりよい生活のために、資格をとったり、勉強に励んだりする必要もなかった。

こうした暮らしが失われたのは、世界規模の経済活動が、人の動物性を否定しながら、ありえるはずのない民主主義や法による支配などの概念を悪用して、社会はよりよくなっていくと人々をだまして頑張らせるようになったからである。今も、LGBT、女性の自立、福祉の充実などという言葉を使って、大衆をだまそうとしている。こうした言葉は、家畜化や自己犠牲を進める役割しか持たない。こうした言葉を信じ込むことで、世界はますます窮屈で生きにくい場所になっている。

 

 

 

(この記事は、新サイトにも掲載しました)

 

 

 

集団化することで有利になる

今日の話題は、集団化による生存競争での優位性の確保についてです。

生物は単細胞生物から多細胞生物へと進化しました。多細胞生物は、さまざまに分化した細胞を生み出すことで、生命の能力を大きく拡大しました。

もう少し大きいスケールになると昆虫たちがいます。

ハキリアリ』によると、アリ、ハチなどの社会性昆虫は、集団を作ることによって、優位性を獲得し、単独行動をする昆虫たちよりも、生存に有利な環境を占めているそうです。ここでも個体の機能は分化しています。

 

人間界を見ると、狩猟採集者たちは単独性が高く、農耕民たちは集団化が進んでいるとみることができます。ブッシュマンやヘアーインディアンは、1家族から数家族程度からなる集団を、そのときどきで組み換えながら広い土地にまばらな人数が住んで移動生活をしています。農耕民たちは、定住し、狭い土地に多くの人びとが住んでいます。前者は、制度や儀礼が未発達であることを特徴としており、分化が進んでいません。農耕民の社会では制度や儀礼が発達していき、階級が生まれきます。勝ったのは農耕民です。

 

農耕民の中でも、集団化が進んでいきます。『逝きし世の面影』に描かれた江戸時代の農民や手工業者たちは、作業時間をだれに管理されることもなく、自らの判断によって生産し、生きています。そうした暮らしは、文明化が進むほどに難しくなり、雇われて時間管理をされながら賃金を得る生き方を選ばざるを得ない状況が進んでいきます。多細胞生物の細胞や、社会性昆虫の個体のように、全体像を見えないままで割り当てられた役割をこなすだけの生活が待っています。

 

こうした集団化と民主主義とは根本的に相容れません。けれど、文明は集団化を進める者たちが牛耳っています。だから、民主的な社会など実現されるはずもなく、投票率が上がるはずもないのです。

 

 

 

この記事はるびりん書林統合サイトにも掲載しました。

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カラダがなければ何もわからない

光の強弱や温度の高低は現実に存在する。

私のカラダも明るさや温かさを感じる。

一方で、私が感じている痛みは、光や温度とは違い、

私のカラダが作り出しているものにすぎない。

もちろん、カラダの中の痛みも、何らかの物質が作用している点で

架空ではなく現実ではあるがカラダの外側には痛みはない。

 

甘さを感じ、心地よさを感じ、高揚感を感じることや、

苦みを感じ、不快を感じ、落胆を感じることで、

何がよいもので何が悪いものなのかを

習得しながら生物は生きている。

 

つまるところ、

私たちのあらゆる判断は私たちのカラダが基準になっている。

だから、カラダを無視して精神や魂を説いてみたところで無意味である。

カラダがないところに価値観はなく、崇高さや純粋さというものも

意味をなくしてしまう。

 

私たちの心も、カラダが生み出している。

たとえば、撫でられて気持ちよく感じるのは、

そのようにカラダが作られていったからである。

 

私たちは絶対的な真理を感じて生きているのではなく、

ヒトとして生きるうえで比較的適した感覚を持つ

カラダを通じて受け止めた世界で生きているにすぎない。

けれども、そんなカラダを当てにして生きていくことしか

私たちにはできない。 

 

 

この話からさまざまな考察が生まれて来る。

価値観の押し付けがひどい現代文明の在り方への反省。

言葉が力を強めた社会ではカラダの存在がおろそかになりがちであること。

そもそもカラダを前提として生きるとはどのような生き方なのかという疑問。

 

けれど、今回はここまでで終わりにしておきたい。

 

 

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