毎日出てゐる青い空

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「「おばあさん」がいるのは人間だけ」なのか「人間だけが「おばあさん」になる」のか

「人間以外の動物は、繁殖可能な状態ではなくなると死んでしまう。人間だけが「おばあさん」になっても生きているのは、おばあさんの知恵があることが生存に有利に働いたからだ」という。

 

JOG(447) 「おばあさん」がいるのは人間だけ!?

 

 

ところが事実はどうやら逆であるらしい。

 

動物たちは、いつまでも生殖能力を失わない。人間でいえば70歳を超えた犬もメンスを迎える。植物も、たとえば老木になっても花を咲かせ、実を付ける。

 

もし、ヒトだけが生殖能力を早めに失ってしまうとすれば何が原因なのだろうか。

 

自然食の効力」で、「人間本来の食事さえとっていたら、精力がなくなることもメンスが止まることもない。(118-119)」とある。(自然の食べ物に頼って生きる狩猟採集者たちは、50歳を超えても生きるものが少ないだけに、この記述が当てはまるのかどうかわからない。)

 

 

「自然食の効力」から類推してみると、食べ物を加工することが影響しているようにも思える。焼いたり、煮たり、発酵させたりした食品である。ヒトだけでなく、肉食動物でも草食動物でも、加工された食品を食べることができる。そのままでは食べることのできない穀類も、加工を加えることで食物になる。

 

加工された食品された食品は、消化しやすくなっており、寄生虫や、細菌も少ないため、肉体に対する負荷が低くなっている。肉体は負荷をかけられることで強靭になり、負荷が低ければ弱くなる。

 

長い間、食べ物を加工して食べ続けた結果、人は早くに精力を失うようになってしまったのではないだろうか。

 

 

別の説もある。それはヒトだけが短い周期でメンスを迎え、一年中生殖可能であるということである。その結果、早くに卵子が枯渇してしまうのかもしれない。調べてみると、思春期を迎える頃の卵子の数は20万個ほどらしい。その後、月経を迎えるたびに1000個程度減っていく。であれば、200回の月経で枯渇することになる。規則正しく月経を迎え、一度も妊娠しなければ、17年ほどでなくなってしまう。

 

 

人だけが月経を持つようになったのはいつ頃のことなのか不明だが、もしかすると7万年ほど前に2000人程度まで減少してしまった時期なのかもしれない(「パンドラの種子」)。

 

 

いずれにしても、人間だけが生殖能力を失っても生き続けるというよりは、人間だけが早くに生殖能力を失うようになってしまったと考えるほうがよさそうである。

 

 

人間だけが早期に生殖能力を失うとすれば、それは人間の異常性を象徴しているようにも私には思える。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

オリンピックといううまい仕組み

オリンピックというほんの短期間の、一度切りのイベントのために、人は、不都合を強いられる。

 

貧民街は取り壊され、あるいは隠され、国内の大きな問題(放射能汚染など)が後回しにされる。オリンピックを口実に外国人労働者を増やしたり、看板を多国籍化したりする。

 

オリンピックは、万人のためのものではないから、オリンピックを商売に利用するには金を支払う必要がある。

 

オリンピックの開催地を決めるとき、こうしたオリンピックを口実とした政策が最も効果を発揮しそうな国が選ばれる。そしてオリンピックが終わると、一気に経済崩壊に到ることも多い。1940年に予定されていた東京五輪が幻に終わったのも想定内のことだっただろう。

 

オリンピック開催を名誉、栄誉とすることで、オリンピック開催に反対する声をあげにくくし、さまざまな問題を隠しながらオリンピック開催が強行されて、「奴ら」の懐がうるおうとともに、世界統一政府へ向けた取り組みを進めることができるのだ。

 

オリンピックという仕組みを考え付いたとき、「奴ら」は満足したことだろう。

 

陰謀論と出会って、現代社会が植民地支配の延長線上にあることを知った私にとって、オリンピックは、盛大なまやかしにしか見えない。

人も生きもの(波乗りジョニーは会議室から海へ)

多くの現代人が文明に押しつぶされようとしている。

 

ネクタイをはめて満員電車で会社に通い、夜遅くに帰宅する。

休日の多い職を得ながら仕事に意味を見いだせないでいる。

人が決めただけの日付と時刻に追われて生きる。

食費、光熱費、住宅ローン・家賃、学費、医療費、車の支払い。

 

そうして人を押しつぶす文明を学校では開化と教え、

テレビでは我が国にこうした文明を押し付けた西洋を礼讃する。

 

文明社会が海を埋め立て、川を汚し、地下水を汚染する前の世界では、

人は生きることに直結する活動に大部分の時間を費やしていた。

そうした世界を、学校教育やテレビ・新聞は、人の権利が尊重されない、

不衛生で、ろくな医療もない世界であると描く。

だが、それは、物事を一面しか伝えてはいない。

「人は生きもの」であるとい現実を踏まえてなどいない間違った情報である。

 

カラハリ砂漠ブッシュマンや、カナダ北部のヘアーインディアン、

コリーン・M・ターンブルの描くピグミーの暮らしを知ることで見えてくるのは、

生きることに直結した生活の確かさである。

生は理想ではなく現実であって、ずるく利己的に社会はできているが、

社会の規模が小さいことと、他者によって生き方を縛られないことによって、

人は生きることに直結した活動に専念できている。

子育てを楽しみ、生業である狩猟を何よりも楽しみにする。

他の生きものたちと同じであることに何の疑いも持ちはしない。

 

 

文明社会が人を押しつぶすのは理由があってのことである。

人はエゴイストであることを免れず、非道であることを免れない。

生命としてのヒトが、巨大な社会を作り上げた文明世界では

大衆は生きものとして生きるのではなく、

教え込まれた枠組みに従って活動する機械になることを要求されている。

その枠組みを作るのは、エゴイストである文明の支配者たちである

(金融の仕組みを作り、法を整備し、学問もメディアもその配下にある)。

 

増えすぎた人口を調整するために多くの労働者には、

ぎりぎり生活できるだけの収入しか得られない社会が作りあげられる。

文明の真実を見抜こうとする者は、情報の流通から疎外されていく。

そうして、嘘だらけの情報ばかりが大量に流通して人は生きものであることを忘れる。

 

経済格差が拡大し、心を病む者が増え、子どもたちが遊ぶことも難しい状況を生むのは、「人は生きもの」であるという現実から目をそらしているからだ。

 

素晴らしい指導者、素晴らしい文明、素晴らしい技術。人は生きものであることを前提とすれば、こんな言葉はどれも嘘であることがすぐにわかる。権力は乱用され、制度は私腹を肥やすために利用され、技術は悪用される。「人は生きもの」であるという事実を徹底的に踏まえれば、そんなことはすぐにわかる。わからなくさせているのは、「人は他の生きものたちとは違うはずだ」という、文明社会の支配者たちによって植え付けた価値観のせいなのだ。

 

私たちを押しつぶそうとする文明の正体は、生きものであるヒトが作り上げた、「素晴らしい」社会である。素晴らしくあることをやめ、本来的であることを求めていくことが道を開く。

 

 

島人の居場所を奪い、海を汚して、小さな幸せを破壊するキリスト教「民主主義」

フィジー留学で体験したお金で買えない価値。現地の生活が勉強になりすぎた話。 | 俺やで、バナやで。”マンツーマン美容師 ばなのブログ”より

 

『なぁ、若僧。フィジーってどうゆう国だったか知ってるか?

 

そう遠くない昔まで、人食ってたんだぜ?!カニバリズムって奴さ。

 

だけどある時イギリス人がやってきて此処は俺たちの植民地だって言い出したんだ。

 

その時からさ、うちらが人食いを辞めてキリスト教徒になったのは。

 

そんで次はサトウキビ畑作るからそこで働けって言ってきてさ、イギリス人が遠くから連れてきた、インド人と一緒にね。

 

今じゃ彼等(インド人)はかなり増えてしまった。

 

うちらフィジアンが53%、インディアンが45%、残りが中国人って感じだね。

 

なんで中国人が増えてるか知ってるかい??

政府との癒着さ。

 

今や国のトップはインディアンに持ってかれちまった。

 

そしたら彼等(インディアン)は自分達の良いように国を変えてしまうんだよ、此処は俺たちフィジアンの国なのに。

 

最近は中国人が街やインフラを整備してくれてるんだけど、見返りに政府は中国人にやりたい放題されても黙認なんだ。

 

何を?

 

マグロ漁さ。マグロ漁。

どんどん綺麗な海も奪われてるし、スバ(首都)の沖は中国の漁船で一杯だよ。

 

街にも中華料理店や中国人経営のクラブばかり。

このままだと俺らの国は、俺らの村はどうなる?

今はまだ人口の過半数はフィジアンだ。

 

たけど、これからまた中国人が増えてきたら???

俺たちがマイノリティーになるのか?

 

俺たちの国で?

 

絶対にそれはダメだ、

 

これ以上、インディアンの、(中国人も)好きにはさせてはいけないんだよ。

 

最近じゃ国旗のデザインも変わる事が決まってしまった。凄い勢いで国が変わってきてるんだよ。』

 

 

私たちの暮らしは、資源を採掘すること、海を埋め立てて工場を作ること、ゴミ焼却炉や原発を貧しい田舎に押しつけることなど、「この地を守りたい」という願いを一方的に無視できる法律を作った結果としての、地球を破壊する経済活動を基盤として成り立っている。

 

狩猟採集者や、焼畑農耕、小規模な遊牧生活など、巨大権力から逃れる暮らしを続けてきた人々を調べていくと、人は、小さな島や、険しい山に暮らしながら、不便や、不条理を受け入れながら、小さな幸せに満足して、小さな暮らし故の豊かさを得ていたことが見えてくる。

 

それは、漁師とMBAに語られてた漁師の生活である。医療や、大金や、学問は望めないけれど、自分たちのことを自分たちで決めていくことができ、生きている意味を実感できる生活だった。命である私たちが、命の持つどこまでも浸食していき勢力を拡大しようとする欲望を抑えながら、そうした欲望に突き動かされた他者からの浸食を防ぐという、これ以外に選びようのない生き方だった。

 

私たちが学校で教えられる文明開化の意味を、この観点から捉え直してみれば、文明開化とは、小さな幸せを持ち続けることをできなくして、住民の意志を法の力で排除して、巨大権力の思うままに土地を収奪し、労働を押しつけ、公害を垂れ流すことを可能にするための仕組みの導入でしかなかった。それは、浸食に負けた生き方だった。

 

シベリアの森で、カラハリの砂漠で、オーストラリアで、アメリカで、ブラジルで。人は、生命として生きる幸せを「野蛮だ」「人権無視だ」と非難されて放棄させられ、ほんの一握りの人々を豊かにするようにあらゆる制度が作り上げられた文明社会で、生命活動とは乖離した経済活動にできるかぎり専念する存在として、自決権のない「民主主義」を信じて生きるよう強制される。漁師として生きるのではなく、大規模な会社の従業員として海を汚し、かつての仲間を見捨てて生きることを選択しなければ、子を持つことは難しい。

騙されてはいけない。

 

 

 

6月2日、西枇杷島町の祭りにて

背の高い山車を多数の提灯が照らし、若い衆たちの力でゆっくりと動く。

提灯の明かりは柔らかく、風や山車の動きに連れて動く様は

霊魂が浮遊しているようでもあった。

 

先頭にはカクシャクとした数人の老人たちの正装。

 

山車を押すのは、若い筋肉質の男たち。

 

からくりが動き、山車に乗った奏者たちによるお囃子の音が包む。

 

 

 

土手にかかる坂の下まで来て、山車は止まった。

山車の中から若い女性たちが降りる

続いて男性たちも降りてきた。

お囃子の主である。

 

明日の祭りに備えて一晩明かすのか、

それとも坂の上の保管庫まで上げるのかわからないが、

一旦休憩のようである。

 

 

地元の女性たちによって、

関係者にふるまい酒が薦められ、

山車は明りをともしたまま休息の時を過ごしている。

 

 

呼び物の打ち上げ花火が続き、

いよいよ大玉が盛んに打ち上げられて佳境を迎え

少し落ち着いた頃、

意外にも、お囃子が再開された。

 

お囃子の音とともに、山車も動き始めた。

 

まず、向きを変える。

 

お囃子隊を乗せた山車のかつぎ棒を若者たちが肩に乗せて車輪を上げ、

つっかえ棒を差し込みながら、その場で山車を180度転回させる。

 

方向転換を終えた山車は、

土手の坂を登り始める。

 

機械の力を借りるのかと思っていたが、

すべて人力だ。

 

少しでも軽くするために人が降りるのかとも思ったがそうではなく、

中に人を乗せて演奏を続けながら動かすのだ。

 

曳き綱を付けるわけでも、

わらわらと男たちが押し寄せて押すわけでもなく、

少人数の若者たちが山車を坂の上まで押していく。

 

力の限り押しながら「押してー!、押してー!!」と叫ぶ若者たちに合わせて

自分も思わず声が出る。

若者の声にも、子どもや若い女性が遊び半分に梶棒の端を押すだけであったが、

山車は無事頂上まで登りついた。

 

========

 

私が目にしたのは、

『逝きし世の面影』に描かれたような歌を歌いながらの労働でもあり、

効率性ではなく、祭りとしての有り方を大切にしている場面であり、

賑わいの底から静かな思いが浸みこんでくる、

この地の人々の信じてきた精神世界でもあった、と思う。

 

ただ機械的に押し上げればよいと考えていた私を恥じながら、

どうにも感嘆するほかなかった経験だった。

 

 

 

 

 

動物たちは遊び、死を知り、判断し、個性を持つ、命である

 「死」の概念を人が知ったのはネアンデルタール人になってからだという。しかし、アフリカスイギュウたちが孤立したライオンを襲う様子を見ていると、アフリカスイギュウたちは、仲間を殺すライオンに復讐していることがわかる。

 

人が声を出すことができるのは、水中生活を経て呼吸を調整できるようになったからだという人もいる。しかし、ホッキョクグマの様子や、ライオンを溺れさせようとするシマウマの様子を見ていると、水中では息ができないことを十分にわかっている。しかも、呼吸を調整する方法は多くの動物が生来持つ能力のようである。

 

チーターやヒョウは、怪我を負わせた獲物を子どもにまかせて狩りを教える。それは本能というよりも、自らの記憶や、子どもたちの能力を踏まえた行動のように見える。道路や川を渡るサルは子ザルの通行を補助する。動物たちは相手の能力を推測する能力を持つように見える。

 

ベンガルトラがゾウの上に乗った人を襲う動画がある。ベンガルトラには、人がゾウを操っていることがわかっている。

 

猫たちは互いに舐めあい、匂いを嗅ぎ合って関係を作る。我が家の猫たちは、それぞれに個性を持ち、私たちとの関係の持ちようもそれぞれに異なっている。「猫」としてよりも、個性を持つ命として、強い存在感を感じさせ「猫」という分類に入るのかどうかさえあやふやに思わせるほどである。

 

カラスたちは餌を見つけると声を上げて仲間を集める。カラスたちがそんな行動をとるのは、カラスもまた個性を持ち、個々に生きる存在だからなのだろう。ゆるやかな集団を作り、キャンプ地を移動しながら暮らすブッシュマンたちと同様なのだ。

 

人をホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)と名付けようとする人がいる。しかし動物たちを見ていると、遊びはヒトだけのものではないことがわかる。ホッキョクグマも、カラスも、ネコたちも、おどろくほど遊び好きで、新しい遊び方を考え出す工夫の天才だ。

 

動物たちの本当の姿を知ってみれば、人と他の動物たちに本質的な違いはまるでない。

 

自然に囲まれた暮らしの中で、人は動物たちと人に本質的な区別をつけず、むしろ優れた能力を持つ者たちとして憧れを抱いたり、祖先に位置づけたりしていた。

 

ところが、農地を作り、家畜を飼い、集落ができ、都市が生まれて拡大するに連れて、拡大した人口環境は、人と動物の距離を広げ、人は動物と人を区別した。さらには、人だけは優れた存在であるとうそぶくようになった。

 

事実は、人も動物も本質的に変わらない存在である。素晴らしく見える面もあれば、愚かに見えたり、野蛮に見えたりする面もある。死を知り、敵を知り、時に助け合い、時に裏切り、何よりもまずご都合主義的で利己的な存在である。

 

 

私たちの生きる世界もまた、人工環境と文明によって本質を見えなくされている。

 

生まれて間もなく肉食獣の餌食になる草食獣の子どもや、海に向かう途中に次々と食べられていくウミガメの姿を見れば、命のむごさを思う。しかし、そうした生き方の中にしか命の本質はなく、ヒトの作り上げた人工環境のほうが幻想である。

 

肉体の美しさは物理的な厳しさのたまものであり、生き物の種類の豊富さは、せめぎあいの中から生まれて来る。平和で豊かな世界などどこにも存在してはいない。

 

こうした命の本質を知って見れば、権利や義務などという言葉を生み出す一方で、架空の金融システムやグローバル企業に支配された文明社会はむなしいだけの生き方だ。動物や植物の生態を知り、生と死の近さを知って生きていた未開生活にこそ本物の生き方がある。

 

文明社会に暮らす中で、このことが忘れられている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

動物たちが教えてくれる、言葉の怖さ

カレンダーや時計に従って考えることに慣れてしまった私たち。

 

本当は、日曜日も月曜日もなければ、単調に刻まれる時間もない(私たちにとって重要なのは物理的な時間ではない)。自分が何歳であるのかを知る必要もない。

 

「罪」という言葉がなければ「罪悪感」を持つ必要もない。

「悪」も「善」も「美」も言葉があるから、私たちは言葉にとらわれる。

 

動物たちは、こうした概念を生み出すことも、伝えることもできないことで、大きな恩恵を受けている。

 

法律に縛られることもなければ、金銭労働も必要なく、世界観を植え付けられもしない。

 

私たちは命であり、命は本来的に身勝手である。わずかな隙間にももぐりこみ、生き残りを図る植物の様子に命の姿が現れている。どこまでも自らの力を拡大しようとする命。そうした命に、技術力が大きな力を与えれば、火災旋風をまきおこしてすべてを滅ぼしてしまいかねない。

 

そんな命が言葉を持ち、理性、権利、民主主義などの概念を作り上げつつ、技術力を得てできあがったのが文明社会だった。つまり、文明社会には、実態を隠す嘘にあふれている。文明社会を支配する命たちは、自らの勢力拡大のために、事実を隠して嘘をふりまく情報だけを広く流通させていく。 

 

日本が世界システムに組み込まれた時期である明治維新に、政府が急いだのは、学校教育と新聞社の設立だった。教育とマスコミで嘘を教えるためであった。

 

そうして嘘を教え込まれたことで、私たちは、命の本来の姿を見えなくされている。人は、他の動物たちと同じように命であり、理性によって大きな社会を運営するなどといった芸当は決してできない存在なのだ。

 

言葉があることで私たちは嘘を信じ込み、義務を負わされ、生き方を決められる。個々に言葉の怖さがある。言葉などないほうがましなのだ。

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