飢えて死ぬものがいるとしても、
飢えて死ぬものがいるとしても、
森を切り開かねば命を救えないのなら、
森を守ることを選べ。
森を切り開くことを選べば、
やがて森はなくなり、
空気は乾き、
土は舞い、流れ去り、
命を育む場所はなくなる。
殺虫剤を撒き
除草剤を撒き
除菌していけば、
私たちの体は不調を訴え始める。
それは、私たちが雑菌のない場所には
住めない存在だから。
なぜあなたは山に登るのか。
山に登るときのつらさや危険は、
生物が生物として存在するために
必要な厳しさだからだ。
厳しい中で生きることでしか
生物は生物として存在し続けられないのだ。
放送局や学校の中は、
こうした現実を無視した
絵空事にあふれている。
生命の姿を知って(欲望の水準を下げる)
『葉っぱのフレディー』という有名な本がある。
春に生まれた葉っぱのフレディが、自分という存在に気づき、成長し、「葉っぱに生まれてよかったな」と思い、「葉っぱの仕事」を終えて冬に土へとかえっていくまでの物語。
死を怖がるフレディに親友のダニエルが答える。「変化するって自然な事なんだ…死ぬというのも 変わることの1つなのだよ」。フレディの番が来て、地面に降りたとき、初めて自分の命を作った木の全体の姿を見て、そこに永遠の命を感じる。そして、フレディ自身は知らなくても、やがて土にかえり木を育てる力になる――。
「生まれること」「変化すること」が「永遠の命」へとつながる意味を、フレディとダニエルの会話を通してわかりやすく語りかけている。写真だけでは硬くなりがちのところを、ページをめくるごとにフレディの変化していく様子が、にじみのあるやわらかさで描かれ、バランスをとっている。著者はアメリカの著名な哲学者。子どもから大人まで、すべての年齢層向けの絵本。(加久田秀子)
私はまだ読んでいない。
葉っぱは、仕事を終えて冬になって土へと帰っていくことになっている。でも、私たちの生命の世界はもっとずっと厳しい。
たくさん卵を産む魚などは、一回の産卵で何千何万という卵を産んでも親になるのは、ほんの一握りでしかない。
魚だけでなく、私たちも同様だ。
200年も遡れば、生まれた子どもの半分が成人前に死んでいく世界が存在していた。だから、子どもには本来の名前を付けず、天からの預かり物として、いつ返すよう言われてもよいように覚悟しながら育てていた。
今人類は、こういう命の世界を抜けて、大部分の命が成人を迎え、大半はそのまま80歳までも生きるような世界を作ろうとしている。そんな状況が実現しかけて見えてきたのは、命の法則に従うしかないという事実だ。
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分譲マンションの自治会で、1階の住民がエレベーターの管理費を平等に分担することに不満を持ち、利用率に応じた負担に変えようとしたことがあったという。自治会にかけたところ、上層階の住民の団結によって、かえって1階の住民の負担を増やす案が通ってしまったという。
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文明の進歩によって、たくさんの高齢者が生まれ、たくさんの障害者が生き残るようになったとき、そうした人々の発言を尊重していけば、結局、元気で健康な人たちが一番割を食う。誰も生きることの意味を見いだせなくなり、精神を病んでいく。リベラルであることなどできないのだ。
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現代のヨーロッパ人の歯は5万年前のネアンデルタール人に比べて50%も小さく、2万年前のクロマニヨン人と比べて20%小さいという(『食の考古学』19ページ)。食べやすく加工する技術が顎を弱くするのであろう。これに限らず、肉体の外に解決策を見つけだす人類の能力は肉体の劣化を加速していく。
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穀物支配という言葉がある。穀物を作るようになって支配者が誕生したのである。支配者の誕生は数字を生み文字を生み法を生んだ。私たちの文明社会を見れば、こうして生まれた法によってがんじがらめにされてかつては可能だった山や辺境へ逃げることさえできなくなったという現実がある。
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『サバンナの動物親子に学ぶ』には、次のように記されている。
動物も人も死を避けるために、いろいろ工夫をします。 しかし、その工夫は「生」全体のあくまで一部なのです。 そんなことばかり工夫していては、「生」の楽しみを忘れて しまいます。 死はせつないけれども、必要なもの、大切なものなのです。 いまこそ、私たち人間は、「生」と「死」を見つめ直す時間 なのかもしれません。
本来は、まだ幼いうちに、大部分が失われるはずの命。そうすることで、強い者だけが生き残り、何とか続いてきた命。この世はただ偶然生まれてきた命が、受け継いだ体質や、周囲の状況に応じて、命の絶えるまでのほんの短い間だけ、いられる場所。しかも、ほとんどの命はまだ途上で失われるべきもの。
そういった命を受け入れることでしか命が続かないとすれば、私たちはお金持ちになる必要も、経済発展や研究開発に力をいれる必要もない。ただ「生」を精いっぱい楽しむだけでいい。そんな動物的なあり方をしたときに限って、生を楽しむことのできる世界が蘇る。
熱田神宮と白鳥庭園
熱田神宮と白鳥庭園に行ってきました。
大台ケ原に行ったときに感じたようなすがすがしさを味わうことができる場所が熱田神宮です。熱田神宮を象徴する大きな楠があり、他にも多くの常緑広葉樹の大木があって、街の中にありながら、森の冷気を感じることができます。東山動植物園と熱田神宮とで迷いましたが、より自然な森を楽しみたくて熱田神宮にしました。
ちょうど七五三にあたっていたので、たくさんの参拝者たちで溢れていました。屋台も並んでにぎやかでしたが、やはり落ち着いた雰囲気があるのは、森のおかげでしょう。森の落ち葉は、人の通る場所こそ掃き清めてありますが、森の中ではできるだけそのままにしてあるようで、湿気を保ってくれているようでした。
境内にある宮きしめんも熱田神宮を訪れる楽しみの一つです。行列はできていましたが順調に進んでいくので、長く待たされることもなく順番が来ます。きしめんの提供速度と食事を終える速度のつり合いもちょうどよく、いつも少しは空席がある状況が続いていました。
熱田神宮に参拝した後は、白鳥庭園に行きました。熱田神宮から徒歩5分ほどです。平成元年作られた新しい庭園ですが、草や木が適度に雑然としており、また美しい景色を生み出すように巧みに設計されているため、逝きし世の面影に描かれた古い日本の町や郊外を思わせるものがありました。
古い本を読むと昭和になっても皇居のお堀の水は澄んでいたといいます。名古屋の堀川でも80歳くらいの人たちが子どもの頃は泳げたといいます。
経済発展の背後に、世界システムや国際金融家たちがいて、教育やマスコミも牛耳ながら人々を経済活動に追いやっていたと知ると、失ったものと得たものとでは、失ったものが圧倒的に大きかったことがわかります。
今日も熱田神宮では、参道の脇の溝を流れる水をみつけて七五三に参拝に連れてこられた男の子がさっそく遊ぼうとしていました。そんな水の流れる場所ももうめったに見なくなりました。
私は、森が蘇ることを熱田の神にお願いしてきました。
自然に帰れではなく、正常に戻れ
言葉によって作り上げられた私たちの社会。
言葉によって作り上げられた私たちの社会は、あらゆる生物にとって不都合であることで、あらゆる生物の存在を許される生命の世界を破壊するものである。
言葉を得た人類(20万年ほど前に登場したホモサピエンス)が行ってきたことは、人類にとって不都合な世界を、人類にとって都合のよい世界へと変えようとする営みだった。
植物を育て、動物を飼い、耕作地を増やし、森を切り開き、道を作った。
その動きは加速して、ワクチン接種、遺伝子操作、さまざまな手術、電力の利用、自動車の利用、コンピュータの発達など、ますます多くの不都合を解消できるようになっている。
そうして不都合を解消することで、見えてきたのは、不都合を不都合として受け入れることでしか、生物は存続できないのではないかという事実であった。
たとえば、多く生まれて幼くして多く死ぬ状況は確かに不都合である。しかし、そうした社会は活力があり、子育てを学ぶ機会を生み、子どもたちが遊ぶ時間を作っていた。また、日々を大切にすること、命を大切にすることを自然に学ぶことができた。そのうえ、そうして生き残った人たちは肉体的にも精神的にも強く、厳しい生活が生きる喜びをもたらしてくれていた。
乳幼児死亡率が低下することで、社会は子どもの数を減らして活力を失い、人々は子育ての場面を体験できないまま大人を迎えることになり、子どもたちは過保護過干渉を受け、人生は長いと思い込み、肉体的にも精神的にも弱いままの大人になり、文明の利器に支えられて生きながら生きる喜びを感じることができなくなっている。
人が殺し合うことは不都合であるだろう。しかし、殺し合うことが可能であった社会は、救いのある社会でもあった。一方、殺し合うことができなくなった社会は、なすすべを奪われた救いのない社会でもある。
人は文明と野生、自然と人工を対立させて、どちらか一方を理想世界であると考えようとする。
事実は上で見たとおりである。
つまり、文明・人工は、言葉を持った人類が人類にとって都合のよい世界を作り上げようとする過程であり、それは、不都合があるおかげで成り立っている世界を破壊しようとする異常な状態である。
一方、不都合を不都合として受け入れるしかない人類のあり方も存在している。それが遊動する狩猟採集生活だ。遊動の必要性が社会や制度の発達を阻害し、科学技術の発展を制限してくれる。そのおかげで、遊動する狩猟採集者たちは、自然に近い生活を続けてくることができていた。
生物にとって正常な状態とは、都合の良い世界を作り上げたいという生物が本来持つ欲求が、多くの制限によって抑制されている状態である。それが自然であり、野生である。
自然に帰れとは、なすすべのない状況を甘んじて受け入れよ、そして正常な状態に戻れということだ。決して、文明の支配者たちから逃れて、快適で楽しい自然界へ戻れということではない。
どんなに不都合でも、電気も自動車も使わず、身近で得られるものだけに頼って生きていくときに、人は正常な状態を取り戻すことができ、そこから逃れようとすればするほど異常性を増していくのだ(甘んじることが可能かどうかはわからない)。
ともかく、私たちは自然/人工や野生/文明ではなく、正常/異常という視点から人類史を見る必要があると私は思う。
5万年前
たくさんの変わった動物たちが住んでいた。
シベリアのマンモス
北米のマストドン
南米の巨大なナマケモノやアルマジロ
オーストラリアのディプロトドン
ヒトだって、そうだった。
ネアンデルタール人(主にヨーロッパ)
デニソワ人(ロシア・アルタイ地方)
ホモ・フローレスエンシス(インドネシアのフローレス島)
そうした生物たちは、
いつの間にか少しずつ姿を消していったのだろう。
普通に見かけていたのが、
めったに見なくなり、
痕跡も消えて、
いつの間にか地上から姿を消す。
(ゾウ、サイ、キリン、カバ、チンパンジー、ゴリラなどの大型の動物が生き残ったのは、こういった動物たちの生息域の関係や、豊かな生物相を背景に、狩りにくい獲物として生き残ることができたからだったのだろうか。)
まだ現生人類が地球全体で500万人に満たなかった頃でも
動物たちは人知れず滅んでいった。
時代が下るほどに豊かさは失われているようだ。
逆が正解→大切なことは、規模を拡大しないこと【衆院選挙によせて】
スモールイズビューティフル
まだ読めていない本だが、石油危機の到来前に書かれ、原子力を扱うことの恐ろしさをすでに指摘した本として、再読を促されている本でもある。
さて、私がつくづく思うのは、規模の小ささこそが大切だということである。
私たちが、自動車を利用したり、電気を利用したりしようとすれば、私たちの住む場所では得られない資源に依存することになる。
私たちが、高度な医療を欲したり、珍しい食べ物を欲すれば、やはり他の地域に依存することになる。
こうして依存することで作られる世界では、経済こそが力となり、政治は見せかけだけのものとなる。だから選挙など無駄なのだ。
皆が、よりよい明日を目指した結果は、経済によって縛りつけられた人々が「主権者」として丸めこまれ、経済ではなく政治を語って、まだ夢を追いかけている世界であった。
電気や自動車、医療という「恩恵」を受けるためには大きな経済を必要とし、その結果として、私たちは経済のいいなりにならざるを得なくになった。
ならば、どうすればよいのか、答えは簡単だ。
恩恵を捨てて、他の地域への依存をできるだけ低下させた、ちいさな社会を第一の目標とすることだ。
経済を拡大しなくては得られないものをすべて諦めて、小さな社会でも実現できる暮しを受け入れる。
そうしてやっと、私たちは経済の呪縛から解放される。
ブックマーク名古屋 円頓寺 一箱古本市
2017年10月14日、10年目の今年で最後になるというブックマーク名古屋の一環として開催された一箱古本市に参加させていただきました。今年で3年目、円頓寺では2年目です。
去年は、50円くらいの本もないといけないと考えて持って行った雑本しか売れませんでしたが、今年は高めの本も少しだけ売れました。
『子どもの文化人類学』が2年続けて売れました。子育て中のお母さんにお勧めしたい本です。また見かけたら仕入れてこようと思っています。
雑本以外で、そのほかには、『身体の人類学』、『偽情報退散! マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』、『猫になった山猫』、『世界あやとり紀行―精霊の遊戯』をお買い上げいただきました。ありがとうございます。
こういったお勧めの商品に興味を持っていただいた方を中心にチラシも30枚以上配布しました。
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翌日の15日には、古書会館で開催されていた即売会に足を運び、ついでにブックオフにも寄ってきました。
そうしてたくさんの本と向き合って見ると、やはり、独自の価値観に沿って本を選んで紹介することに大きな意味があると感じました。
普通に暮らしていると出会いにくく、しかもおそらくほとんどの人にとってとても重要な意味を持つ本。そうした本を選び出して紹介することで、いつか、人類全体に見えてくるものがあると私は思っています。
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そうした貴重な本たちの価値を正しくわかりやすく伝えていくことが私の目標です。まだまだ力不足で本の魅力を十分伝えることができないのが悩みです。
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また、語り過ぎたくなっていますが、控えましょう。
円頓寺では、毎月第一日曜日にご縁市も開かれています。
古本市がなくなったので、ご縁市への出店を考えています。