毎日出てゐる青い空

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「社会を大きくして暮らしと社会を切り離せ」と支配者たちは考えた

動物のように暮らしていた頃と大きく変わらないままで
近代まで続いていたのが集団の規模だ。

まだサルに近い生き方をしていた頃と比べれば、
1万数千年前に定住し、農耕を開始して以降、集団の密度は濃くなり、
日常的に関わり合う相手が少し増えたのは事実だ。

それでも、普段の暮らしは集落の中にほとんど閉じていて、
集落の規模は百人程度でしかなかった。

江戸末期、日本には3000万人ほどが住んでいたが、村の数は6万もあった。
単純計算すれば平均500人である。
その小さな村の中がさらに字名で分かれていたのだから、
その頃の集団のサイズは、私たちの大脳新皮質の大きさから推測される
最大サイズである150人とそう変わらなかったことだろう。

そのような村が一気に整理統合されたのが明治時代であった。

全国に7万以上あった村は一気に1万6千弱にまで減らされた。

同時に中央集権制により、江戸時代には村のことは村で決めることができていたのが、
村のことも村で決めることはできなくなった。

言葉さえ否定され、学校では土地の言葉を使えなくなっていった。
土地の総有という概念も否定され、住民は土地の用途に事実上口出しできなくなった。

民間医療は否定され、資格の持つ医師が許可された方法でしか医療を施せなくなった。
つつましい生き方は、競争原理を持ち込む近代化の前に生き残りが難しくなった。


私が、これらの点に気づいたのは、世界各地の先住民の「近代化」について知ったからだ。
『アフリカ最後の裸族―ヒデ族と暮らした100日』
ブッシュマン、永遠に』
他にも、同じような要素が世界各地の先住民に対する近代化において見えている。

ヒデ族は農耕民、ブッシュマンは狩猟採集民。生業は違うものの、つつましい暮らしに満足していた点では同じである。

そこに近代化が持ち込まれたとたん、人びとの「暮らし」は破壊されて、
大きな社会に帰属させられながら、貨幣経済に参加して暮らしを犠牲にしながら
より大きな収入を目指す生き方だけが可能になっていった。

私たちが学校で良いものと教え込まれている近代化こそが、
私たちから暮らしを奪っていたのだ。

暮らしを奪われた私たちは、
プライバシーが尊重され、
個人の意志で職業や生き方を選択でき、
よりよい教育を受けて人類の進歩に参加できる
近代社会の幻想を見せられながら、

実際には、暮らしを根本から破壊されて、
支配者たちを富ませ、より快適にさせるために
いいように使われていたのだ。

もう、答えは出た。

近代化などという馬鹿げた妄想を捨てて、
小さい社会を許容する人類の生き方を選ぼう。

病や死は避けられない。
飢えや争いも避けられない。
なくせないものをなくす努力をして
根こそぎ失う前に、
本来のあり方に戻そう。

私たちに必要なのは
民主主義というお題目ではなく、
小さい集団に帰属することを可能にするための
方策を探ることなのだ。

二つのあり方

世界を良くしていこうとするあり方と

世界をそのままに保とうとするあり方

 

私たちが投げ込まれた社会は前者だ

 

よりよい明日を目指して

こんなにも進歩した

こんな問題があるから解決しよう

こんな素晴らしいビジョンがあると聞かされる。

 

実際にやっていることは

死ぬべき命を救い、

生命のあり方をゆがめ、

世界中をヒトだけの場所にしようとして

ヒトさえ機械にしていくことだ。

 

世界をそのままに保とうとしてきた人びとのあり方は違う。

 

植物の育つにまかせ

実のなるにまかせ

動物の繁殖するにまかせて

すべてを無償で得ている。

 

できることは、待つこと、

まかせることであり、

遊動する生活から来る制限が

それ以上の人為を防いでくれている。

 

後者の生き方、すなわち遊動する狩猟採集者たちが作る地球は、

お金のいらない社会であり、

利己主義の影響を抑えることのできる社会である。

 

前者の生き方、すなわち農耕・牧畜民が作る地球は、

理想とは反対にすべての物が有償で

最も利己的な者たちの都合に合わせて作られた制度に縛られる社会である。

 

 

よりよい明日を作ろうとして始まった農耕・牧畜というあり方は、

手にしていた幸せをすべて失って

何もかもを破壊する明日を作る。

 

 

 

 

 

論理やデータに殺されかけた心を蘇らせる

私たちが水を飲んで「おいしい」と感じるならそれはセイレイの力です。
新鮮な空気を吸って「生き返る~」と感じるのもセイレイの力です。
深い淵や巨大な岩を見て、人を超える大きさを感じたり、朝露のきらめきを美しいと感じるのもセイレイの力です。

本当は、セイレイや精霊ではなく別の言葉を当てはめたほうがいいのかもしれません。私たちは物理的な世界を肉体というフィルターを通して処理します。そこにセイレイがいます。

今の人類はセイレイの声を聞くのではなく、論理やデータにばかり物を言わせています。しかし、それではいけません。

セイレイの声を聞けば、私たちは子どもが安心して思いっきり遊べる生き方を欲していることがわかります。経済発展ではなく汚染されていない環境を欲し、長寿よりも今を生きることを欲し、自動車の利便性よりも、自動車のない穏やかさを欲しています。

セイレイの声を聞くと、どうやら私たちは多くの生命に溢れる世界を望んでいるように思えもします。セイレイはスマホなんて大嫌いです。

このままセイレイの声を聞かないでいると、私たちは生きる意味を失ってしまいそうに思えます。

 

あやとりと精霊

世界あやとり紀行―精霊の遊戯』を読みました。

 

あやとりは自然発生的であると考えられており、オセアニアを中心に、世界各地で行われてきました。

 

不思議なのは、タイトルにもあるように、あやとりは精霊信仰の残る地域に分布していることです。アメリカやブラジルにもありますが、いずれも先住民のものです。

 

日本のあやとりは江戸時代に始まった300年ほどの歴史しかもたない遊びのようですが、世界のあやとりは、有史以前からあったという説もあるほど長い歴史を持ちます。しかも、聖なる人から与えられたものとして秘密にされていたり、物語と結びついて知恵を伝えるために利用されていたりしています。

 

こうしたあやとりは、西洋文明の普及と発展に伴って消滅していっています。

 

どんな因果関係があるのでしょうか。

単に時間がなくなって、あやとりを楽しむ余裕がなくなった?

抽象的な図形から具体的な姿を思い描く想像力を要することが要因?

核家族化や地域社会の崩壊が要因?

国が行う学校教育が問題?

 

あやとりの動画を見ると、ずいぶん難しいものです。私も子どもの頃あやとりをしましたが、もうすっかり忘れてしまいました。動画を見ていても、少しも思い出せません。このような複雑な遊びを伝えていくためには、親密でゆっくりとした、そして肌の触れ合う時間があったのではないでしょうか。

 

うまくまとめられませんが、あやとりと西洋文明の関係は、とても重要なことを教えてくれているのかもしれません。あやとり以外にもそのような現象は存在しているのではないでしょうか。そういったものを集めていけば、なぜ西洋文明が行き詰るのかを突き止めることができるかもしれません。

 

 

動物の名前は知っているが、動物の生き方は知らない

私たちはたくさんの動物の名前を知っている。

子どものほうが大人よりもたくさん知っているくらいに知っている。

 

けれど、動物たちの生き方はほとんど知らない。

 

私が動物たちの生き方を知りたいと考え始めてから知ったこともそれほど多くはない。むしろ、あまりにも情報の少ないことに驚いている。

 

定住生活の影響を知りたいと、ビーバーに関する本を探してみたが適当な本はなかった。

 

母ワニの子を思う心を知りたいと思ってもワニに関する本はなく、手を使うことのできる動物としてカンガルーについて知りたくても本はなく、ダチョウやフクロウのこともわからない。

 

動物の生き方を知らないから、

「人は動物と違って遊ぶのだ」という事実とは違う説を簡単に信じ込む。

動物もヒトも心が育つためには、身体接触が必要なのだという事実に逆らって、

子どもの自立心を育てるためには、一人で寝せなさいなどという学説を信じ込む。

生命ははかないもので、今を楽しむしかないという事実を忘れて、

一生を経済活動に奪われて気づかない。

 

仲よくだけすることなどできないという事実を忘れて、

すべての生物が仲よく暮らす世界を描いて平気でもある。

 

私たちは、身近で野生動物たちの繁殖活動や捕食活動が繰り返される世界に住まないと、生命の本当の姿を忘れていってしまう。

 

 

 

 

。。。で顔(シミュラクラ現象)

シミュラクラ現象

matome.naver.jp

いろいろなものを顔に観てしまうようにできている私たち。

それは私たちが物理的な事実ではなく、体を通して解釈した事実に頼って生きる存在であることを示している。

 

科学がどんなに否定しようとも、あらゆる物を生命として把握するアニミズムは、私たちにとって真実だ。

 

風や水、岩にも意志を感じ、関わり合いを感じる。

 

 

アニミズムを否定する宗教が存在するとすれば、その宗教は偽物だ。私たちの本質である生命を否定しているからだ。

 

 

 

 

風や水、岩に生命はないと言い切ってしまったとき、私たちは、生命として存在する必要性をなくす。文明社会の支配者たちは、利益を求めて生命活動の姿をゆがめ、経済に結び付けてきた。必要最低限のもので満足し、日々を楽しむという動物的な生き方を否定して、人道や、労働や、理性という概念で人々を縛りつけ、アニミズムの世界から宗教の世界へ、そして科学の世界へと進んできた。

 

私たちを救うのは、アニミズムの世界だった。

 

 

国際資本家たちを潤しながら乗っ取られた人生を生きる

ワクチン、輸血、電力、ガソリン、デジタル放送、スマートフォン、クレジットカード、遺伝子組み換え植物、インターネットビジネスなどなど、私たちの暮らしは、一方で、資源や権利、業界を独占する相手に対して、さまざまな形でいつの間にか収益を与えている。同時に、ワクチンや輸血、原発事故、大気汚染、電磁波、情報統制、危険な食品などの弊害をただただ受け入れるしかない立場に置かれている。

 

自覚のないまま生きていた頃には見えなかった現代の文明の実態は、人々を幸せにするかのように見せながら、かつての支配者よりももっと貪欲に民から搾取する見えざる支配者たちによって搾取される世界だった。しかも、今の民は、情報統制によって自分たちは幸せだと思い込み、支配者たちの意図に自ら意欲的に従おうとしている。

 

動物たちや、狩猟採集者たちが今を楽しみながら、どうにもならないことをどうにもならないものとして受け入れている姿を知ると、私たちの生がどれほどゆがめられ、つらいものにされているのかがよくわかる。

 

私たちにとって必要なことは、情報統制から抜け出して、生命にとって本来の生き方を確認し直すことである。私たちには、電気も、インターネットも、貨幣経済もいらない。死ぬ運命にある命をむやみに救おうとして、生命の世界をゆがめてはならない。

 

地面に腰をおろし、爽やかな風に吹かれ、安全は雨を身体で受ける幸せは、本来の暮らしによってしか実現されない。

 

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