毎日出てゐる青い空

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小国寡民

10代の頃覚えたこの言葉をすっかり忘れていた。

老子と暮らす―知恵と自由のシンプルライフ』を読み、

小さい国の話を調べていて、

元の言葉は小国寡民であると知った。

 

私が福岡伸一さんの本を読んで、

地球環境を守るには、

各地にできた小さな社会が

その地域の環境の維持だけに専念するしかないと

思いついたことと、

老子の言葉とがここで結びついた。

 

地球全体を知る必要も

管理する必要もなく、

局地的な対処が連なることで

全体としてうまく機能するようになるのだ。

 

 

別の観点から、小さな社会でなければ

人は人らしく生きられないことを指摘しているのは

コリン・ターンブルである

(『豚と精霊―ライフ・サイクルの人類学』)。

 

世界システム論や陰謀論の立場からいえば、

小さな社会を徹底的に壊そうとしたのが

世界システムであり、

日本でいえば明治初期に実施された

さまざまな政策である(義務教育、徴兵令、地租改正、市町村合併)。

 

徳川期の日本は

支配者の姿がはっきりと目に見えていたが、

農民たちは年貢さえ納めておれば

自分たちのことを自分たちで決める自由を持っていた。

それは小さな社会のつらなりのようなものであった。

村は数百人規模の世界だった。

 

今の世界は

支配者はいないものとされているが、

実際には存在しており、

支配者たちだけが決定権を持つ。

私たちは、大きな社会の中で

自分たちのことを自分たちで決めることが

できなくなっている。

 

 

ピダハンの直接経験の原則は真実であり、

ほとんど直接経験の範囲だけで構成される小さな社会だけが、

私たちが主権者として存在できる

社会なのである。

 

アムネスティだかナショジオだか赤十字だか知らないが

世界規模の組織を作ることは

私たちから主権を奪うことでしかない。

 

自分たちの生きる小さな地域を自分たちの意志で守る小さな社会が

地球を覆い、

人々が主体として生きることを想像したとき、

現代社会の虚構(国連、マスコミ、開発、経済発展)が

まざまざと見えてくるのだ。

 

本当のことを知りもしないくせに

本当のことを知らないとは

 

直接見聞きしていないこともそうであれば、

与えられた答えを疑いのない事実であると受け入れることもそうである。

 

「人殺しはいけない」

無神論は恥ずべきこと」

「アジア人は民度が低い」

「人は動物とは違う」

 

ヒトラーは、「大きな嘘ほど民衆は疑わない」といい

「嘘も百回言えば真実になる」といったという。

 

私が陰謀論と出会って、

人の本来の生き方を探る中で

痛感したのがこれらの言葉である。

 

歴史上の出来事の真相が不明であるように

現代の出来事も真相は不明なのだ。

 

ただ一つわかっていることは

教育とマスメディアによって繰り返し「大きな嘘」が伝えられることで

人々は嘘を真実と思いこんでいるということだ。

 

私たちは本当のことを知らない。

 

本当のことを知れば

人類には救いが必要だとキリスト教を布教することも

マスコミは真実を伝えよと街宣車で町を騒がせることも

国境なき医師団赤十字に協力することも

世界遺産登録のために奔走することもないだろう。

 

私たちは本当のことを知らない。

何度も繰り返される大きな嘘を信じ込んで生きている。

 

 

 

 

 

ハキリアリが勢力を広げることと、西洋文明が世界を覆うことは本質的に同じ

ハキリアリ 農業を営む奇跡の生物』を読んだ。

 

人類の未来を考える上で多いに有用な情報を得ることができた。

・社会性の昆虫は単独生活を送る昆虫よりも優位である

・農耕に手を染めることで利用できる資源が増える

・葉を運ぶための専用の道を整備することで効率が高まっている

・ハキリアリたちの進化は比較的最近である

・分業制が進んだ社会性昆虫は、個体ではなくコロニー全体で1個体に相当する機能を備える

・高度に分業化が進んだハキリアリにはこのハキリアリの生産するキノコをただで横取りする寄生種のハキリアリがいる

などである。

 

社会性昆虫たちは、分業制の社会を作ることで、単独生活を送る昆虫たちとの競争に打ち勝ち、有利な場所を占めるようになっている。人類史も同じで、大きな集団を作り、統率のとれた側が勝利を収めるようになっている。だから、ヒトの本来の生き方は狩猟採集だといってみても、そして狩猟採集のほうが人々は幸せだったと言ってみても、密度を上げ、定住化によって統制力も上がっている農耕民に勝つことはできず、農耕民も都市を作り上げた人々の前には負けてしまう。

 

ハキリアリたちは延長された巣ともいえる専用の通路を地上に整備している。そうしたほうが、結局効率よく葉を運べるのだという。そのような習性は長い間に身について行ったものなのだろう。しかし、まるで頭で考えて地上にも通路を作っているように見える。それは人の思考によって生み出されるものも、この通路と似たりよったりなものであることを教えてくれる。

 

今のように生の葉を噛み切って利用するハキリアリたちが登場したのは、人類がチンパンジーらと分かれたと推測される800万年前のことである。アリたちも哺乳類と同じ時期に進化の道を進んでいるのだ。

 

こうしたハキリアリたちが単独生活の虫たちよりも幸せなのかといえば、そうでもない。社会性昆虫、中でも分業制の進んだ社会性昆虫らしく、個々の生ではなくコロニーが一匹の昆虫のような機能を果たしているため、一匹で完結している単独性昆虫よりもつまらない生のように私には思える。

 

これを人類に置き換えてみると、まったく同じことが見えてくる。競争に勝って主流となっていくあり方(社会の大規模化、分業化)が進むのは、それが個体の幸せとつながっているからではなく、より優位であるからでしかない。鉄砲を捨て刀に戻した徳川幕府は、さらに武器を強化することを目指した西洋文明の前に敗れてしまう。しかし、西洋文明に覆われた世界で生きることは、分業制が進んだコロニーの中で生きるハキリアリと同様の不幸を私たちにもたらす。

 

世界支配者たちが金融の仕組み、特許制度、貿易協定などを利用して支配を維持する仕組みを作り上げていくことは、極論すればハキリアリたちが換気、ゴミの処理、効率性などを反映した巣を作り上げていくことと大差ない。物理的な問題を物理的に解決していくことで、場所取りに勝ち、より多くの資源を利用して戦いを優位に進める生物が勝っていくにすぎない。知恵の勝利ではなく、生物たちの主体性と見えるものもまた、物理法則の一部なのだ。

 

ハキリアリの女王蟻が決して幸せではないのと同じように世界支配者たちも結局のところは、次々と卵を生む代わりに、さまざまな問題への対策に頭を悩まし続け、地位を失うことを恐怖し続ける存在でしかないのだ。

 

もし、人間に本当に知恵があるとすれば、分業制や大規模な社会へと進もうとする力学に抵抗して、主体的総合的に生きることを実現できるだろう。それは、狩猟採集者たちの作る小規模な社会に生きることである。

 

いずれにせよ、今の文明が表している人間の知恵など、ハキリアリの知恵と大差ないものであることを知ることに、私は大きな意味を感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「言葉」という欠陥ばかりの道具を象徴するのがマスコミだ

実際に自分が接している世界を、

それぞれに必要な範囲で

それぞれのやりかたで理解していくのが

言葉のない世界である。

 

自分が接したことのない世界の話を

誰かが考えた切り分け方の一つでしかない言葉を使って

こう理解しなさいと指示しながら共有していくのが

言葉のある世界である。

 

言葉のある世界では

言葉によって伝えられている情報と

現実に起きていることの間に

大きな乖離が発生することになる。

 

だから、放射性物質は安全で

格差社会はかつてとは違う国民主権の社会で

欧米各国は平和主義で、

キリスト教は愛の宗教となる。

 

こうした乖離を生み、持続させるために

どうしても必要になるのがマスコミだ。

 

 

 

 

虚像を作り繰り返し伝えることで現実を見えなくする。

 

言葉のない世界であれば当然であった白紙から考える行為を奪う。

 

 

 

 

 

私たちの生きる世界がますます窮屈でギスギスしたものになっているとすれば、

その理由の大半はここにある。

私たちはマスコミが伝えるような世界に生きているのでもなければ、

マスコミが伝えるような価値観を実現することで幸福になれる存在でもない。

そのことを知るには、マスコミから離れるしかないのだ。

 

 

私は今の若い人たちよりも先にこの世を去れて幸せだ

私の50年の人生を振り返ると、

一番良い時代は、祖父母の時代だったのだと感じる。

戦争もあり苦労もしたけれど、

大家族の中で、

60歳にもなれば引退を決め込んで

十分な年金ももらい

楽しく老後を送っていた。

 

父母の時代になると、

核家族化が進んで同居が減り、

子どもたちも生活が大変になって、

老人も定年後も働かなければならなくなった。

それでも、年金が出るおかでげ

頻繁に旅行にこそいけないが

苦しい暮らしでもないのだった。

 

私たちの時代は厳しさが増している。

正社員が減り、

年金の額が減り、

支給開始年齢が遅くなって、

老いた体を使って稼ぐしかなくなっている。

それでもまだバブルを経験しているだけ

ましかもしれない。

 

下の世代は可愛そうに思う。

正社員になれなければ

一生低収入であることが確定し、

格差が拡大する中で

かつてよりもずっと

みじめさを感じながら生きていかなくてはいけない。

 

しかも、

社会はどんどん国際化させられて

日本人の地位は国内でも低下していくだろう。

 

このすべてを招いたのは、

民主主義や個人の権利、自由な生き方というお題目だ。

 

少し前まで平気で奴隷貿易をさんざんやらかしていた

人々が急に改悛などするはずもなく、

やり方をかえただけなのだ。

 

気づいてみればよい。

日本国民の年金を持ち去ったのは誰なのか。

貿易の不平等が維持され続けるのはなぜなのか。

言論人が怖くて批判できない相手は誰なのか。

 

 

学校教育やマスコミがある限り

人々は現状を肯定する情報ばかりを受け取って信じ込むため、

状況の改善は見込めないだろう。

 

何しろ、本当のことは決して伝えることができないように

管理されているのが教育やマスコミなのだから。

 

 

奴隷として使われ、生き残るためには主人に迎合していくしかなかった

黒人たち。

私たちが置かれている立場もそれと大差ないのだ。

生き残り、子孫を残すためには、母国語を捨て、迎合していくしかないのだ。

 

私たちとは外見の大きく違う

外国人たちによる支配がさらにあからさまになって

日本人の暮らしがさらに惨めになる前に

この世を去れることを若い人たちに対して

申し訳なく思う。

 

可能性があるとすれば、

欧米に有利に作られている制度の廃止を主張したり、

地域の独立性こそが民主的な社会の前提なのだという当然の事実を指摘する

日本人があらわれ、

マスコミや学校教育の廃止を主張できるようになったときだろう。

 

日本の若者にはまだそれに気づく聡明さがあると

私は期待はしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飼い猫にひっかかれる

ウチの四匹の猫のうち、

クロネコはあまり慣れておらず

抱くことができません。

 

まだほんの赤ちゃん猫のとき、

移動させようとしている途中で

手から落としてしまったことが

恐怖感として染みついていているのかもしれません。

 

クロネコを捕まえようとすると、

私たちでさえ平気でひっかいてくるので、

無理に捕まえることはできません。

(かといって、撫ぜてやるともっとぜるようせがんだり

腹が減っているとエサをねだってすりすりしたりするので

まったく慣れていないわけではありません)

 

他の猫たちはそんなことはなく、

猫が寝ているところを移動させようとして

持ちあげたりしても短く鳴いていやだというくらいで

結局はおとなしく移動させてくれます。

 

猫たちは

私たちのことを

ひっかいてはいけない相手なのだと知っています。

 

私はそこに不思議を感じます。

 

また、猫は決してかわいいだけの動物ではなく、

小動物たちにとっては残忍で恐ろしい存在です。

 

その一方で、こうした心の動きも持っています。

 

進化の過程の中で、

その場しのぎ的に

または実務的に

ときには残忍になり

ときには相手を見て気配りをする

という心が成長してきたのでしょう。

 

そしてそれは私たちの心にも言えることなのでしょう。

 

「生き物はみんな友達だ」というのも嘘なら

「野生動物は獰猛だ」というのも嘘で、

両方を含みながらしかしどちらにもならない状態を

続けるのが進化の生み出した心の動きなのでしょう。

 

動きたがらない猫を抱き抱えようとするたびに

猫の気配りを感じていたので、

少し考えてみました。

 

 

 

ヒトが本格的に火を使い始めたのは、10万年ほど前からだ(北京原人ではなく私たちと同じホモサピエンスになってからだ)。北京原人を持ち出すのは、ミスリードの印象を受ける。

 

火の使用は、暖をとること、獣から守ること、調理することを可能にしたという。 本当だろうか。

 

パタゴニアに住んでいたヤーガン族は火を利用することで、南米南端に毛皮をまとうだけで暮らすことができたのだ。衣服の着用がヤーガン族を絶滅させたのではないかともいう。(服を着たせいで滅んだ裸族!?ヤマナ族とは… - NAVER まとめ) どうやら暖をとるために火が役立ってきたのは事実だ。

 

獣から守るために火を使ったというのはどうだろうか。ヒグマの実験では、火を恐れないことがわかっている。

ライオンが出没した後でブッシュマンが行うのは、騒ぎ立てて追い払うことである。

チンパンジーは棒を武器として使うことがある。

これらのことを踏まえると、人は手と道具を使って野獣を追い払っていたと見るほうがよさそうだ。火を獣よけに使っていた考えるのは思いこみなのではないだろうか。

 

最後の火による調理だが、WikiPediaには次のようにある。

火の使用は栄養価の向上にも繋がった。タンパク質は加熱することで、栄養を摂取しやすくなる[1][8][9]。黒化した獣の骨から分かるように、肉も火の使用の初期から加熱調理されており、動物性タンパク質からの栄養摂取をより容易にした[10][11]。加熱調理された肉の消化に必要なエネルギーは生肉の時よりも少なく、加熱調理はコラーゲンのゼラチン化を助け、炭水化物の結合を緩めて吸収しやすくする[11]。また、病原となる寄生虫や細菌も減少する。

チンパンジーが生肉を食べることはよく知られている。カバも死んだ動物の肉を食べることがある。

死―宮崎学写真集』を見ると、私たちなら即座に腹を壊しそうな腐敗した肉を、小さな動物たちが食べていて驚かされる。こうした事実を知ると、実は火による加工を経ることが私たちを脆弱にしているように思える。

 

炭水化物については、「穀物は「空腹を満たす物」としては優れているが、「食料」として優れているわけではない」という事実もある。(『炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)』)日本人の歴史をみると穀物に大きく依存するようになったことで、健康状態が低下したことが、骨に記録されてもいる。 WikiPediaに記載されている内容は、火の使用の肯定面のみにすぎないのだ。

 

人類史と火といえば、火起こしの技を持つことがマッチやライター、火打石に頼らない時代の人々にとって必須の技術だったと思い込んでいる誤解もある。アフリカのピグミー族やセンチネル諸島民の中には火の起こし方を知らない部族もいて、移動の際に火種を持ち歩いたり、自然発火した火を大切に守っていたりしていた。しかし、さすがに火を知らなかった部族はいなかったようだ(この点でもWikipediaの記載は間違っている)。

 

重機のない時代、火によって焼き払うことが大きな意味を持っていた。 アボリジニの話は以前にも書いたが、焼畑農耕も同じく火に頼っている。 農作物を栽培し、収穫を終えた畑には、蔓や茎、葉が残る。そんな残渣を処分するには焼いてしまうのが一番だ。焚書坑儒という言葉もあるように、焼き去るという機能もまた 火の重要な機能であったといえそうだ。政治が変わるとき、多くの資料が焼却された。 身近に火があった時代、人々は多くの物を焼却処分していた。

 

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