毎日出てゐる青い空

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私は今の若い人たちよりも先にこの世を去れて幸せだ

私の50年の人生を振り返ると、

一番良い時代は、祖父母の時代だったのだと感じる。

戦争もあり苦労もしたけれど、

大家族の中で、

60歳にもなれば引退を決め込んで

十分な年金ももらい

楽しく老後を送っていた。

 

父母の時代になると、

核家族化が進んで同居が減り、

子どもたちも生活が大変になって、

老人も定年後も働かなければならなくなった。

それでも、年金が出るおかでげ

頻繁に旅行にこそいけないが

苦しい暮らしでもないのだった。

 

私たちの時代は厳しさが増している。

正社員が減り、

年金の額が減り、

支給開始年齢が遅くなって、

老いた体を使って稼ぐしかなくなっている。

それでもまだバブルを経験しているだけ

ましかもしれない。

 

下の世代は可愛そうに思う。

正社員になれなければ

一生低収入であることが確定し、

格差が拡大する中で

かつてよりもずっと

みじめさを感じながら生きていかなくてはいけない。

 

しかも、

社会はどんどん国際化させられて

日本人の地位は国内でも低下していくだろう。

 

このすべてを招いたのは、

民主主義や個人の権利、自由な生き方というお題目だ。

 

少し前まで平気で奴隷貿易をさんざんやらかしていた

人々が急に改悛などするはずもなく、

やり方をかえただけなのだ。

 

気づいてみればよい。

日本国民の年金を持ち去ったのは誰なのか。

貿易の不平等が維持され続けるのはなぜなのか。

言論人が怖くて批判できない相手は誰なのか。

 

 

学校教育やマスコミがある限り

人々は現状を肯定する情報ばかりを受け取って信じ込むため、

状況の改善は見込めないだろう。

 

何しろ、本当のことは決して伝えることができないように

管理されているのが教育やマスコミなのだから。

 

 

奴隷として使われ、生き残るためには主人に迎合していくしかなかった

黒人たち。

私たちが置かれている立場もそれと大差ないのだ。

生き残り、子孫を残すためには、母国語を捨て、迎合していくしかないのだ。

 

私たちとは外見の大きく違う

外国人たちによる支配がさらにあからさまになって

日本人の暮らしがさらに惨めになる前に

この世を去れることを若い人たちに対して

申し訳なく思う。

 

可能性があるとすれば、

欧米に有利に作られている制度の廃止を主張したり、

地域の独立性こそが民主的な社会の前提なのだという当然の事実を指摘する

日本人があらわれ、

マスコミや学校教育の廃止を主張できるようになったときだろう。

 

日本の若者にはまだそれに気づく聡明さがあると

私は期待はしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

飼い猫にひっかかれる

ウチの四匹の猫のうち、

クロネコはあまり慣れておらず

抱くことができません。

 

まだほんの赤ちゃん猫のとき、

移動させようとしている途中で

手から落としてしまったことが

恐怖感として染みついていているのかもしれません。

 

クロネコを捕まえようとすると、

私たちでさえ平気でひっかいてくるので、

無理に捕まえることはできません。

(かといって、撫ぜてやるともっとぜるようせがんだり

腹が減っているとエサをねだってすりすりしたりするので

まったく慣れていないわけではありません)

 

他の猫たちはそんなことはなく、

猫が寝ているところを移動させようとして

持ちあげたりしても短く鳴いていやだというくらいで

結局はおとなしく移動させてくれます。

 

猫たちは

私たちのことを

ひっかいてはいけない相手なのだと知っています。

 

私はそこに不思議を感じます。

 

また、猫は決してかわいいだけの動物ではなく、

小動物たちにとっては残忍で恐ろしい存在です。

 

その一方で、こうした心の動きも持っています。

 

進化の過程の中で、

その場しのぎ的に

または実務的に

ときには残忍になり

ときには相手を見て気配りをする

という心が成長してきたのでしょう。

 

そしてそれは私たちの心にも言えることなのでしょう。

 

「生き物はみんな友達だ」というのも嘘なら

「野生動物は獰猛だ」というのも嘘で、

両方を含みながらしかしどちらにもならない状態を

続けるのが進化の生み出した心の動きなのでしょう。

 

動きたがらない猫を抱き抱えようとするたびに

猫の気配りを感じていたので、

少し考えてみました。

 

 

 

ヒトが本格的に火を使い始めたのは、10万年ほど前からだ(北京原人ではなく私たちと同じホモサピエンスになってからだ)。北京原人を持ち出すのは、ミスリードの印象を受ける。

 

火の使用は、暖をとること、獣から守ること、調理することを可能にしたという。 本当だろうか。

 

パタゴニアに住んでいたヤーガン族は火を利用することで、南米南端に毛皮をまとうだけで暮らすことができたのだ。衣服の着用がヤーガン族を絶滅させたのではないかともいう。(服を着たせいで滅んだ裸族!?ヤマナ族とは… - NAVER まとめ) どうやら暖をとるために火が役立ってきたのは事実だ。

 

獣から守るために火を使ったというのはどうだろうか。ヒグマの実験では、火を恐れないことがわかっている。

ライオンが出没した後でブッシュマンが行うのは、騒ぎ立てて追い払うことである。

チンパンジーは棒を武器として使うことがある。

これらのことを踏まえると、人は手と道具を使って野獣を追い払っていたと見るほうがよさそうだ。火を獣よけに使っていた考えるのは思いこみなのではないだろうか。

 

最後の火による調理だが、WikiPediaには次のようにある。

火の使用は栄養価の向上にも繋がった。タンパク質は加熱することで、栄養を摂取しやすくなる[1][8][9]。黒化した獣の骨から分かるように、肉も火の使用の初期から加熱調理されており、動物性タンパク質からの栄養摂取をより容易にした[10][11]。加熱調理された肉の消化に必要なエネルギーは生肉の時よりも少なく、加熱調理はコラーゲンのゼラチン化を助け、炭水化物の結合を緩めて吸収しやすくする[11]。また、病原となる寄生虫や細菌も減少する。

チンパンジーが生肉を食べることはよく知られている。カバも死んだ動物の肉を食べることがある。

死―宮崎学写真集』を見ると、私たちなら即座に腹を壊しそうな腐敗した肉を、小さな動物たちが食べていて驚かされる。こうした事実を知ると、実は火による加工を経ることが私たちを脆弱にしているように思える。

 

炭水化物については、「穀物は「空腹を満たす物」としては優れているが、「食料」として優れているわけではない」という事実もある。(『炭水化物が人類を滅ぼす 糖質制限からみた生命の科学 (光文社新書)』)日本人の歴史をみると穀物に大きく依存するようになったことで、健康状態が低下したことが、骨に記録されてもいる。 WikiPediaに記載されている内容は、火の使用の肯定面のみにすぎないのだ。

 

人類史と火といえば、火起こしの技を持つことがマッチやライター、火打石に頼らない時代の人々にとって必須の技術だったと思い込んでいる誤解もある。アフリカのピグミー族やセンチネル諸島民の中には火の起こし方を知らない部族もいて、移動の際に火種を持ち歩いたり、自然発火した火を大切に守っていたりしていた。しかし、さすがに火を知らなかった部族はいなかったようだ(この点でもWikipediaの記載は間違っている)。

 

重機のない時代、火によって焼き払うことが大きな意味を持っていた。 アボリジニの話は以前にも書いたが、焼畑農耕も同じく火に頼っている。 農作物を栽培し、収穫を終えた畑には、蔓や茎、葉が残る。そんな残渣を処分するには焼いてしまうのが一番だ。焚書坑儒という言葉もあるように、焼き去るという機能もまた 火の重要な機能であったといえそうだ。政治が変わるとき、多くの資料が焼却された。 身近に火があった時代、人々は多くの物を焼却処分していた。

 

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201706091

東進文明と西進文明

東進文明(植物文明、環太平洋生命文明圏)とは、長江流域で誕生して東へと進んだ文明であり、限られた大地の資源を循環的に使うことによって持続可能な社会を構築することを目指した文明である。
西進文明とは、西アジアに誕生して西へと進んだ文明であり、未開野蛮の原野が存在することを必要とし、自然の資源を一方的に搾取する部っ名である。
森の日本文明史

 

東進文明に生まれた仏教は、その誕生以来身体性を追求してきた。
西進文明に生まれたキリスト教は、言葉を重視し身体性を排除してきた。
「阿修羅」の呼吸と身体

 

東進文明に疲れた文明人の心を癒すのは山水画であり、人の生活はほんの小さく描かれた。
西進文明に疲れた文明人の心を癒すのは宗教画であり、神々しさ、権力、敬虔が示された。

 

東進文明の描くのは桃源郷の夢であり、その行きつく先は諦めの世界であった。
西進文明の描くのはユートピアの夢であり、その行きつく先は管理社会であった。
どちらの文明にも描かれた哲人政治の夢の行きつく先は、独裁政治であった。
ユートピア/哲人政治/桃源郷/ピダハン

人の本来の生き方をしている人々には文明はなかった。
人の本来の生き方をしている人々の宗教は精霊信仰であった。
人の本来の生き方をしている人々は絵を描かなかった。
人の本来の生き方をしている人々は小さな社会で
多くの悪しき物を移動によって捨て去りながら生きていた。
人類史のなかの定住革命

 

 

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規模が小さいことが必要

『ことばの起源:猿の毛づくろい、人のゴシップ』(ロビン・ダンバー著、松浦俊輔、服部清美訳、青土社、1998)によると、霊長類の群れの規模は大脳の大きさに比例しており、私たちホモサピエンスにとって適切な規模は150人程度であるという。

 

現実を見れば、私たちは150人を大きく超える群れを作って生活している。私たちが大きな群れを作ることが可能になったのは、毛づくろいという1対1のコミュニケーションではなく、言葉によってコミュニケーションをとることが可能になったからであるらしい。

 

そして、ここに重要な鍵が隠されている。

 

ピダハンは直接経験の原則に基づく世界観を作りあげている。THINKER氏は、マスコミとお金が人間を不幸にしているという。

 

事実、私たちの社会は、マスメディアによる情報の洪水、教育による幼少期からの価値観の植え付け、大学などの権威による知識の独占と取捨選択によって作り上げられているのである。

 

コリン・ターンブルは『豚と精霊』の中で小さな社会でなければ人は精霊として生きられないことを指摘している。

 

つまるところ、私たちが不幸になるのは、間接情報に頼って生きるしかない大きな社会に住んでいるからなのである。

 

人類にとって適切な群れの規模は、その大脳の大きさが示すとおり、150人程度なのである。

 

 

 

 

普段、動物たちの目は穏やかなのかもしれない

羽仁進さんの本にあった、印象的な一説は、

草食動物たちの軽やかさだ。

 

書評 『サバンナの動物親子に学ぶ』

 

生と死が同じ時間の中にあるアフリカで、

食う側は食われる側のパワ ーには絶対にかなわない。

飛び跳ねる草食獣の子どもたちを見れば、

このパワーを感じられるというのだ。

 

この本を読んだとき、それ以上深く考えることはなかった。

しかし、最近になって私は、動物たちの目は、

思っていた以上に穏やかなのではないかと感じ始めている。

 

それは、ピダハンたちが穏やかな表情をしていることと似ている。

 

客観的に見れば厳しい環境に思えても、

耐えられないほどの場所ではないからこそ

世代をつないで生きる命がある。

客観的な状況ではなく主観的な状況が重要なのだ。

そしてまた、余計な心配をしないことで

軽やかにいられる。

 

私たちと同じような心を持った動物たちが

私たちと同じようにおおむね穏やかな日常を送っている。

厳しい環境を穏やかに生きることのできる

たくましさを身につけてもいる。

 

人の世界でも、動物に近い生き方をしている人々は

軽やかで穏やかだ。

 

ピダハンの子どもたちは、いたって肝の据わった、

それでいて柔軟なおとなになる。

そうしたおとなになれば厳しい世界も

楽しく生きていくことができる。

 

ブッシュマンもライオンの出没する土地で

ライオンを恐れながらも生き生きと暮らしていた。

かつては、ハームレス・ピープルと呼ばれてもいた。

 

 

 

 

弱肉強食の印象ばかりが強い

自然界の暮らしは、

ただただ弱肉強食の世界なのではなく、

穏やかな時間の流れることの多い

暮らしなのではないだろうか。

 

 

 

 

 

一方で、肉食獣たちの目は確かに厳しく見えることも事実である。

それはしかし、生活の厳しさを抱えているのは

草食獣ではなく肉食獣であることを示しているのかもしれない。

 

 

 

 

農民の反対を尊重した横暴な殿様と、住民の反対を弾圧する民主的な政府

逝きし世の面影』に、 病院建設のための農地を収用しようとしたが、農地を耕作していた農民が頑強に抵抗し、為政者側はこれを尊重して病院が建設されないままになっていた事例が出てきます。

 

平等と不平等をめぐる人類学的研究』には、その頃の日本では、土地の総有という概念があり、所有者の意志のみによって土地の使い方を決めることはできず、地域住民の同意が必要であったという事実が記されています。

 

こうした事実を踏まえて現在の法律の仕組みや実際に住民の反対を弾圧しながら強行されていく原発建設、基地建設、河口堰建設などの事例を見て見ると、江戸時代のほうが民主的で、法治国家こそが弾圧的であるという実態が見えてきます。

 

その理由を知る上で役立つのが、『世界システム論講義』や、『金融のしくみは全部ロスチャイルドが作った』、『偽情報退散! マスコミとお金は人の幸せをこうして食べている』であると私は考えています。

 

マスメディア、教育、宗教が管理され、理屈をこねることで事実とは大きく違う人間像や、生物像、世界観が植え付けられていきます。たとえば、人は理性的な存在であるというウソがまき散らされていきます。こうして、あたかも人類は次第に進歩し、理想に近付いているかの様に思いこませながら、実際には一握りの人々にとってだけ都合のよい社会が作りあげられているのです。

 

江戸時代に農民一揆が弾圧されたという事実があったとしても、江戸時代の農民として生きることが、今の世界に生れて競争にさらされながら生きることと比べて、一方的に不幸ではなかったはずです。権力者の価値観が反映されて庶民にゆとりがあり、世界でも珍しい町民文化が育った江戸時代の日本は、生物として生まれ生物として死んでいく宿命を持ち、つらく悲しいものになりがちな生を、できるだけそのまま受け入れながら、しかも少しでも生きやすくしようしていました。それは、西洋文明が一度も達成できなかった、生物としての在り方に即した生き方を高度に達成した世界でした。

 

 

ともあれ、事実関係を確認していけば、私たちが生きる現代社会は、人々の自治や主体性よりも、巨大な経済や権力が優先され、それに即した生き方だけが許容される、一部のものの利益に合わせて設計された社会でしかないことが見えてくるのです。

 

少なくとも、現代社会が民主的な市民社会であるという嘘を信じることだけはやめたいものです。

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