毎日出てゐる青い空

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脳が発達し、事実を観測して、アニミズムが滅び、人がヒトでいられなくなる

ヒトの脳が他の動物たちよりも発達しているのは事実であるらしい。

 

 

脳の発達は、視覚の発達を伴って周辺の状況を確認する能力を上げる作用や、個体識別と複数個体による協力を可能にする作用、道具を操る能力、言語能力などをもたらしたようである。私たちが視力に頼る動物になったことも、私たちの脳を発達させた一因だったのだ。

 

脳が発達することで、生存に有利になった面があったことは事実だろう。しかし、脳が発達しなければ生き残ることができないわけではなく、脳を発達させるための時間や栄養摂取を省くことで生き残りに成功している種もいることには留意が必要だろう。

 

さて、どうやら脳の発達という点で、現生生物種中では最先端を行っていると思われる人類。これは、素晴らしいことなのだろうか。

 

最近私が感じるのは、生物にとって重要なのは、客観的事実ではなく、主観的な事実であるという点である。子どもが庭の石ころや月、雲のような自然現象、そのほかすべてのものに自分と同じように生命や心があると考えるアニミズムの世界に生きているように、生命は本来、アニミズムの世界に生きる存在なのである。ところが、脳の発達が言葉を生み、定住が知識を蓄積させて、アニミズムの世界を捨てるように私たちに迫っている。

 

それは性能の低いレンズを使って見ていた世界が、おとぎ話の世界のようであったのに、性能の高いレンズに変えたことで、いろいろな不都合がはっきりわかってしまったことに似ているかもしれない。筆の跡も荒々しい絵画には、リアリスティックな絵画にはない味わいがあることにも似ているかもしれない。

 

 

どう表現すればよいのかわからないが、オランウータンやゴリラの家族が楽しそうにすごしている様子をみれば、そこには、私たちが本来持つべき時間があるように見えるのである。ヒトの暮らし方であってみても、科学技術の発達していない社会には、アニミズムが息づき、ヒトはまだ生きる力にあふれているように見えるのだ。

 

精霊を信じ、多くの人々が一緒になって川の対岸に精霊の姿を目撃するというピダハンは、犬と同じ食器から食べて平気でいる。そんな社会で、人は幸福感に満ちて暮らしている。

 

人は物質によって構成されているが、物質として扱い続ければ人ではなくなってしまう。ならば、別のありかたを探るしかないのではないだろうか。

 

 

超高層ビル群 変る景色が意味するものは...

漢字やひらがなで名前の書かれた店の入居する温かみのある建物が立て替えられて、英字で名前の書かれた店ばかり入居するガラス張りの冷たい超高層ビルになる。テレビや新聞は新しい超高層ビルが開業するたびに華々しい出発を報道する。

 

資本が投下されて超高層ビル群ができあがっていく背景を知らなかった頃であれば、私もおなじように街の発展を喜んだかもしれない。しかし、今ではまったく違う風景に見えている。

 

テナントの顔ぶれや価格帯を見てわかるのは、そこにあるのは、一般庶民が安心して利用できる店ではなく、高い給料を得て働いている都市労働者たちをターゲットにした店ばかりであるということである。飲み会や買い物に万札を使うことに抵抗のない、金銭労働者たちが、その地位を確認するために買い求める商品が並び、地に足のついた生活をしたい者たちは置き去りにされている世界である。

 

それは格差を必要とする世界であり、冷たさを選民思想によって合理化した世界である。

 

JP、JR。アルファベットが象徴するのは、それが日本のものではないということだ。国際○○と名の付くビルも目立つ。日本の財閥系の名前を冠したビルもあるが、実のところ日本の財閥自体が明治以降に外国勢力によって育てられた存在でしかないのだ。

 

こうして高層ビル群の姿を見れば、もうそこは日本国内ではなく、この国を実質支配している国外の存在たちがその勢力を誇示する姿でしかなくなってしまうのだ。

 

これを知ってみれば、超高層ビル群の本当の姿が見えるはずだ。

格差を産み、貧困を作り、人を締めだす冷酷な社会を作る者たちが、人権や福祉を叫ぶ矛盾に気づくはずだ。

 

生きること自体が不合理なのだ

『人間に未来はあるか』は、現代をBiological time bombといい、時限爆弾が爆発するように生物学に基づいた科学技術の発展が爆発的に進み出す時期がまもなくくるところで、どのように対処すればよいのかを問うている。

 

たとえば、何十年も前に死亡した男性の精子を使って人工授精によって誕生する子どもをどう扱えばよいのかとか、感情や思考を外部から操作することに対してどう対処すればよいのかという問いである。

 

現実の世界でも、この本で問題にしていたような問題が出初めている。

・整形美人・美男は結婚詐欺といえるのか。

・精神を病んで整形を繰り返す人に対して、要求されるままに整形手術を施すことは許されるのか。

向精神薬の多用は、人の感情の操作を既に実現してはいないか。

・体型がくずれることを嫌って出産や母乳による育児を避けることは生物的危機ではないか。

・帝王切開や出産直後のビタミンK注射など、人類はもう自然な出産ができなくなっていきつつあることの証拠ではないか。

 

動物たちの様子や、動物に近い生活を送る狩猟採集者たちの生活と、私たちの生活とを比べてみたときに、明らかになるのは、生きるということ自体が非人道的で、人権という考えにそぐわないという事実である。

 

私たちは肉体なくしては存在できず、肉体がなければ感情も生れず、記憶もなく、思考もない。肉体は鍛えなければ衰え、生殖を経なければ死滅する。生物は互いに依存し合い、したがって喰い食われたり、寄生されたり、争ったりもする。そのような環境にうまく適合して、相互依存を許す生物だけが生き残る。

 

ヒトが上記のような医療行為を続けていった先にあるのは、奇妙な世界である。

・短命になりがちな男という性を排除するかもしれない。

・妊娠出産の危険を回避するために人工子宮による出産が普通になるかもしれない。

・出産直後から医療機器を装備して一生を送ることになるかもしれない。

・感情の調整を体に装着した機器を通じて行うようになるかもしれない。

・思考もまた外部から制御されることになるかもしれない。

・記憶のメカニズムが解明されて肉体の外部に記憶装置を持つようになるかもしれない。

・体のほとんどを人工臓器に入れ替えて生きることになるかもしれない。

 

私たちが考えなければいけないのは、「文化的な生活」、「人権尊重」、「福祉の充実」という言葉と、本来危険で不衛生で不平等な生物の世界とは相いれず、前者を追究していけば私たちはもう存在する意味をなくしてしまうのだという事実である。

 

文明の恩恵などなさそうな生き方をしている人々の暮らしと、私たちの暮らしを比べたときに見えてくるのは、私たちが、もうかなりの程度まで、存在意義を失ってしまっているということである。それは、私たちが生物として生きることを許さなくしている価値観によって法が作られ社会が作られるようになったからであり、その傾向が強まったのは西洋発の世界システム*が覆い尽くして以降である。

 

私たちは世界システムが用意した学校教育やマスメディアによって価値観を植え付けられてしまったために、生命とはどのようなものであるのかを問う機会を奪われ、私たちが生命であることもときとして忘れ去って生きるようになってしまった。

 

それ自体が不合理な生命を生きるには、生命に囲まれて、生命としての活動に専念していくしかないのだと思えるのだ。

 

* 

 

書評 『世界システム論講義: ヨーロッパと近代世界』

 

 

 

 

 

 

ソシュールおよびレヴィ=ストロースと言語学、人類学、生物学、人類史

私はホモ・サピエンスに代わる概念としてホモ・ラングアを提唱したが、すでにおなじことを主張していた人物(私の嫌いなレヴィ=ストロース)がおり、彼によるとホモ・ロクエンスと名づけるのが正当らしい。

 

それはそうと、

言語学言語学として学ぶことはやはり無意味である。

言語学は人類学・生物学・人類史とからめて学んでいくしかない。

そうしてみると言語が何であるのかがはっきりとしてくる。

 

まず、言語は累積的な技術を可能にした。

これは、言語を用いて伝達することで初めて、針を作ってから網を作り、漁網を仕掛けるといった作業が可能になったことを意味している。

 

これによって、人は野生動物であった状態から脱して、同じ肉体を持ちながら保温性の高い家を作ったり、服を作ったりすることで、熱帯から寒帯まで分布できる動物になったのであった。

 

言語を利用して作られた船と定置式漁具によって、人は定住が可能になった。桟橋から丸太船をこぎ出して内海や湖、川のよどみで漁をすれば、一年中同じ場所にいながら食料を得続けることができた。

 

定住は道具の発達を可能にし、ハンディキャップを負った仲間(老人・障害者)の介護を可能にした。こうして言葉を持った人類は、はじめて、ほとんどの生物は老いを迎える前に死ぬのだという状態を抜け出した(しかし、本来は若くして死ぬ個体が多くなければ種を維持できないという生物の法則から脱することはできない)。すなわち、言語を持ったことで、人は生物の法則を抜け出したと勘ちがいするようになったのである。

 

遊動する狩猟採集者たちの暮らしは、言語を持ちながらも本来の大型霊長類にほぼ即した生き方であるとみると、定住した人類の暮らし方は、言語を持つことで多くの資産を保有するようになった暮らしであり、言語が作りあげてしまった魔界である。

 

言語がなければ、資産が相続されることもなければ、独占されることもなかっただろうが、言語を持つことで、資産を持つことを正当化する理由が考え出され、人々が悪だくみを働いたり、協力して支配的な集団を構成したりすることが可能になった。言語の大きな役割の一つが、こうした理屈づけと、理屈付けした概念を伝達し合っていく、そして悪だくみに使うことにあるのである。

 

言語を持つことで、世代を超えて続く支配階級が登場する条件が生れたのだが、言語があることだけが作用しているのではなく、定住して畑を耕し、収穫物を保存するという生活の仕方と言語の機能とが相まってこれが実現されていることに注目する必要がある。遊動する狩猟採集者たちには、支配階級は生れないのだ。

 

さて、私たちは言語と生業とが相まって形づくられた現代社会に住んでいるわけであるが、私たちの生活を大きく規定しているのは、動物としての私たちの本性であることを、陰謀論や世界システム論は教えている。つまり、生命は自らの子孫を増やすことにやっきになる存在なのであるが、言葉を持たない生物は、その肉体の限界によって影響範囲が限られているために、全体としてバランスがとれる状態になっている。一方、人類は言語による技術力の進歩と、言語による理屈付けの進歩、そして言語による経済活動の拡大によって、一個体の影響力が人類全体、地球全体に及ぶところまで来てしまった存在なのである。

 

こうして振り返ってみると言語の主要機能は3つある

・累積的な技術を推進する機能

・概念を伝達する機能

・理屈付けによって作りあげた虚構と実社会の相互作用によって虚構を実態化していく機能

 

あくまでも生物としてしか存在できない動物であるヒトが、言語という道具を手に入れた結果どうなっていくのかは明確である。もし、この道具の危険性を放置しておけば、一握りの個人によって生物界全体が牛耳られるデストピアが実現するのである。

 

ソシュールの抽象概念遊びもレヴィ=ストロースの分析する世界もくそくらえなのである。

 

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はかない生

社会に貢献すること

夢をかなえること

大勢の人が葬式に列席するような立派な人物になること

お金持ちになること

 

 

そんなことが大事だと思い込んでいるのは、

生と死を意識しない環境に投げ込まれているからではないだろうか。

 

 

動物たちは

母と子の密接な時間を過ごすことで

心を成長させていき、

思いっきり遊ぶ時間を過ごすことで

生きる知恵や身体能力を身につける。

 

 

文明は、そのような機会を奪う方向にばかり進んでいはしないだろうか。

 

 

季節と向きあい

自然と向きあい

生の意味と向きあうためには

 

私たちの投げ込まれた社会は

あまりに束縛が多すぎはしないだろうか。

 

何かが間違っているはず。

 

ピダハン』や

奈良時代の貴族と農民』や

間引きと水子』や

子どもの文化人類学』のヘアーインディアンや

世界システム論講義』や

逝きし世の面影』や

人間が好き』…

 

これらの本にももちろん

人を束縛するばかりの価値観の影響はある。

しかし、本当の生き方を思い出すヒントもたくさんある。

 

文明社会に縛られたとき

私たちは死んで大地に帰ることさえ

できない。

 

 

「変わらない」ことを前提に生きる

共産主義を信じ、

小泉改革を信じ、

果てはニュータイプ(ファースト・ガンダム)を信じる。

 

奴隷制や植民地支配の時代、

子どもの間引きや姥捨ての時代、

いけにえや人身御供の時代が

過去のものとなったことを信じる。

 

人は、自分よりほんの少し前に生きている人々について、

遠い過去の人であるかのように錯覚する。

その一方で、自分自身は、まったく新しい時代を切り開く気になっている。

 

文明の支配者たちが付け込むのはそこである。

幻想を追わせながら、人々のエネルギーを吸い上げていく。

 

しかし、私たちは動物以上の何ものでもない。

陰謀論は文明から支配者がいなくならないことを語っている。

当たり前である。

動物はより多くの子孫を残そうとする存在なのだから。

 

共産主義

小泉改革

ニュータイプガンダムファースト)も

アセンション

人類の精神の成熟も

嘘なのだ。

人が変わることはないのだ。

 

私がそれなりの年数を生きて知ったことがこの事実だった。

 

人と動物の間に本質的な違いはない。

ならば、人は動物のように、つまり狩猟採集者たちのように

生きるしかないはずなのである。

文明社会を外れるほどに人は現実主義者になっている。

言葉が「明日」や「昨日」を作り、「大地」や「大空」を作る

「ことば」の課外授業」を読んだ。

面白い話が書いてあった。

 

人間は、音声だけ、ことばだけで、自分が直接知覚できない世界のことを、他人に伝えることができるというのである。「いま池袋でこんなことをやっている」とか「大阪では今、面白いイベントをやっているよ」といった内容である。さらに、まだ来ない時間や、もう過ぎ去った時間の中でのことも、音声によることばだけで伝えることができるという。「十日前にこんなことがあった」とか「来年はオリンピックが開かれるよ」といった内容である。

 

たしかに、人間が使っているような音節を持つ言葉を使わないで「明日」や「池袋」を伝えることは難しそうである。有名なミツバチのダンスでも方向や距離は伝えることはできても、場所を特定したり、ずっと先または前の日時を伝えることはできない。「ことば」の課外授業」ではこのあたりのことも考察されている。つまり、人間以外の動物も人間顔負けの記憶力を持っていたり、近い過去や未来、身近な地域での出来事について伝えあっていたりする可能性はあるが、それを声で伝え合うことはできないというのである。

 

こうして見ると、「明日」を表現できる言葉を持ったことによって初めて、明日という概念を共有できるようになったという事実に思い当たる。子どもの頃のことはもう忘れてしまったが、私も「あした」という言葉の意味をわからず親にたずねたことがあったかもしれない。親は「夜になって寝て起きたらあしただよ」とでも説明したかもしれない。言葉によって概念を教えられることで、ヒトはそれほど苦労することなく、新しい概念を得ていくことができる。

 

「ことば」の課外授業」には、もう一つ面白い表現があった。この世界はのっぺらぼうだというのである。

人間が頭の中で捉えている世界は、根源的にはのっぺらぼうで、ただそこに起伏と明暗があるだけですよね。人間はそこに、やはり頭の中で、さまざまな線引きを行うわけです。そして、ある物を別のものと区別する。これは後で話すことになると思いますが、言語というものが持つもっとも重要な性質なんですよ。

「年」、「日」、「池袋」をはっきり区切るものは何もなく、時計や暦を作り、地図を作って境界を設けることによって初めて区切りができるのだ。

 

言葉の持つ作用を意識していないならば、一年や一日という時間を区切ることに疑問を持つことはないだろう。昼と夜、夏と冬は実際に定期的にやってきているのだから、日を区切り、年を区切ることは世界をより詳しく知ったことや「真実に近づいた」ことであると考えるだろう。しかし、事実は逆であることを私たちは動物を通じて知ることになる。

 

動物たちはのっぺらぼうな世界を生きている。月曜日もなければ、午後3時もない。6歳も60歳もない。会社や学校に行くこともなく、選挙権を与えられたり、年金をとられたりすることもない。本来、そんなもののない世界を言葉で区切ったことで、私たちは生命にとって随分不自然な生き方を受け入れているという事実に行き着くのだ。

 

時間や年齢だけではない。男や女といった概念もまたのっぺらぼうな世界を区切ったものでしかない。動物たちであれば、自分がオスであるのかメスであるのかを意識することはなく、ホルモンの働きや周囲の個体・環境との相互作用の中で行動が決まっていく。しかし、人は、男女を区切ることで男としてのありかた、女としてのありかたが決められていく。

 

海や川、空や大地という概念もまた同様である。動物たちにとっては、そこにあるそのままの存在だ。言葉を持った人は言葉によって意味づけを行い、他者と共有してしまう。動物たちが見たり、感じたりする世界とは既に違っているのだ。言葉は、私たちの意識を遠くへ幻想へと誘ったり、私たちの生き方を特定の枠組みの中に入れこもうとするばかりで、いまここにいる私たち生命そのものには重きをおかせないようにしてしまう。

 

人間は言葉を持ったおかげで宇宙の真理を探ることができるようになった。しかし、言葉によって明かされる真実は、究極的には、私たちが生物として生きる上で何の意味も持たない真実である。宇宙がいつ作られようが、素粒子が存在していようが、遺伝子が命を伝えていようが、私たちの命とはまったく関係がない。むしろ、そんな真実を追究すればするほど、私たちは生きることから遠ざかっていく。 

ジョン・ゼルザンのような原始主義者(primitivist)は、われわれを仲介なき純粋経験から切り離しているとみなされるものを除去しようと試みて、ほとんどあらゆるものを抹消してしまう。ますます影響力を持ちつつあるゼルザンの仕事は、言語、数学、時間分節、音楽に加え、あらゆる芸術/表彰形式を拒絶する。それすらすべてを疎外の形態として非難した挙げ句、残されるものは、存在しえない類の進化論的理想なのだ。真に疎外されていない人間とは、もはや人間でさえない。一〇万年前に生息していたかもしれない、ある種の完璧な猿である。(『アナーキスト人類学のための断章』135ページ)

ここで、ゼルザンの主張は、ありえないものとして退けられているが、 言葉のない世界における生命のあり方、特に概念を他者に伝えることの難しさについて考えていけば、ゼルザンの主張はまっとうなものとなる。概念を他者に伝えることが難しいからこそ、惑わされることや期待すること、無駄に我慢することもなく、地上の生命を生き残らせてきた法則に身をゆだねることができるのだ。言葉のない世界こそが生命にとって本来の世界である

 

私たちが言葉を持ったことは、やがてこのような社会を形作ることを意味していたかもしれない。ゼルダンなどが、言葉の無い状態こそ本当だとどんなに主張したところで、それは絵空事であるかもしれない。しかし、厳しい環境に暮らして、餓死の仕方や凍死の仕方を知るという『子どもの文化人類学』に描かれたヘアー・インディアンの世界は、言葉を持ちながらも生命の法則に従うことができる可能性を示してもいる。

 

 

 

 

 

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