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毎日出てゐる青い空

日々雑感をつづります。ホームページでは本の紹介などもしています。

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文明化によって人の本来の生き方ができなくなっているという圧倒的事実

人が人として生きるためには、生後三年間の養育者との安定した関係が必要である(農耕を知らない間、人の出産間隔は長く、これが可能だった)。この三年間に十分に愛着することで、オキシトシンの分泌があり、人は愛を知るのである(『愛は化学物質だった!?』)。そして、自分を肯定的に受けとめ、生きることに希望を持つのである。

 

人が人として生きるためには、子ども時代の豊富な遊びが必要である(農耕を知らない間、子どもは働き手として必要とされず、十分に遊ぶことができた。さらに、自動車の普及は子どもたちから遊び場を失った)。この遊びを通じて、人は身体感覚を身に付け、自分の嗜好を知り、他者との関わり合いを知っていく。

 

人が生と向き合うためには、自然環境の中で多くの生死と出会うことが必要である。

・アマゾンの先住民は、生まれる前のことがわからないように死んだあとのこともわからないと言いきって平気である(『人間が好き』)。

・登山家は雪崩に巻き込まれて死にかけながらもまだ登山を続けている(『アルピニズムと死』)

・多くの死と向き合った看取り士は、「死は怖いと思っていたのに、感動なのですね。とても清らかで……」と語る若いスタッフの姿を描いている(『看取り士』)

チベット人は死期をさとると青空の下に出て死を待つという(『鳥葬の国』)。

生活の中に生と死がある世界でこそ人は人らしく生きられるのである。

 

人の本来の仕事は生きることそのものである。分業制の進む世界では人は全体を知るのではなく、生きることの一部だけを分担しながら暮らすことになる。その結果、人は全体像を忘れ、生きることの意味を忘れてしまう。

 

本来の暮らしを続けている人々に職業を問えば、「職業とは何か」と問い直してくるだろう。そして、職業などないというだろう。それが、人の本来の状態だったのだ。

 

私が羽毛ぶとんを使い、毎晩風呂に入ることができるのは文明社会に暮らしているからであることは知っている。私たちはこの便利で快適な生活をすぐに捨てることはできないし、この生活の中で職を得て暮らしていくしかないこともまた絶対的な事実であろう。

 

しかし、私たちの生き方が生物としての人間の持つ性質に適した本来の生き方からますます離れていっていることを常に意識の片隅に置いて私は生きていきたい。多くの人々がそのような意識を持って暮らすようになれば、私たちの進む方向は「民主主義」や「経済発展」といった虚構を脱して、生命としての存在に基づく方向へと軌道修正されていくのではないかと、私は期待しているのである。

 

支配者の存在を前提とする金融社会の中で、本来の生き方に戻ることはできないとすれば、人は支配を脱するために、子を産まないことを選択するかもしれない。たとえそうなったとしても、人生を主体的に生きることのできない文明社会に漫然と生きるよりはずっと主体的な選択であるかもしれないのである。

 

 

 

 

カネのことを真剣に考えたら、人類史が見えたという極めて重要なお話

人類史は、遊動する狩猟採集者→定住した狩猟採集民→支配者と農産物納税者→支配者と金銭納税者の歴史

 

遊動する狩猟採集者

人の本来の生き方は、大型霊長類の一種であることや、歩くことに適した身体を持つこと、大脳が発達することを前提とすれば、群れを作って一定の縄張りを持ち、この縄張りの中を遊動しながら狩猟採集生活を送る生き方であるといえそうだ。しかし、ほとんどの人は定住生活をおくっている。どうしてだろう。その背景には、おそらくホモサピエンスになって言葉を獲得し、水産資源を本格的に利用するようになったからだろう(なぜ人類は今回に限って文明を生んだのか/文明はヒトを幸せにしたのか - 毎日出てゐる青い空)。それまでは、季節に合わせまた獲物の減少に応じて移動する必要があったが、舟で出漁すれば広い面積を移動でき、漁の成果も比較的安定していたのだろう。また、移動生活につきものの、病やケガで動けない仲間を見捨てていかなくてはならない状況を回避できるようになった点も大きかったかもしれない。

 

支配者と定住した狩猟採集民

定住生活は、大型霊長類としての生物にとって不自然であり、多くのデメリットをもたらしてしまう。しかし、大型の道具を利用できるようになる点や、多くの道具を利用できるようになる点が、遊動生活を続けるよりも便利で快適なことは間違いないだろう。こうして、定住生活を送ることのできる環境では定住生活が広がっていったようである。遊動する生活においては、平等性が重視され、人々は強制力を持つリーダーの登場しない気軽な生活を送っていた。定住は、私有の範囲を広げ、富の蓄積をもたらした。しかし、一度定住生活を初めてしまった人々が、遊動する狩猟採集生活に戻るには、もはや知識もなければ、たくましさもなかったのであろう。こうして、定住生活者は広がっていった。

 

支配者と農産物納税者

定住によって近隣の山野から植物資源が減少する一方で、農耕を開始する条件が整い、農耕が可能な地域の定住者たちは農耕を開始した。農耕は、放置しておけば森林に返るような土地に人が利用するための野菜や樹木を栽培するために多くの労力を必要とする。しかし、定住しつつ多くの植物を摂取するには農耕に頼るしかない。日々の世話は大変であっても、人工的な環境の中に身を置き、身近な場所で食料を得られるという点で、人々に快適さももたらしたのであった。より多くの食料を生産してより多くの子孫を残すという取り組みが可能になった契機でもあった。農耕の拡大は、定住によって生まれた貧富を差を拡大し、搾取されながら生きる人々を生みもしたが、農耕社会の拡大を阻害するほど支配者たちは愚かではなく、人々にそれなりの生活環境は提供されたのであった。 こうして人々は土地に縛りつけられ、野山に暮らす知恵も失われた

 

支配者と金銭納税者

こうして人々が土地に縛りつけられ、野山に暮らす知恵も失われたところで、人口増加、技術の蓄積、支配者の富の拡大と勢力の拡大を受けて、金融の時代が到来した。その全段階としては、一帯を支配する支配者が、物質的な価値の低い貨幣を作り、これを支払いの対価として流通させる試みがあった。また、貨幣の誕生に先立って利子をとって金を貸す商売も生まれていた。しかし、金融の時代が本格的に始まったのは、最初の株式会社がつくられた1602年頃からであろう。それまで土地に縛りつけられていた人々はカネに縛りつけられるようになっていった。カネのために工場に勤め、カネのために学校に通い、カネのために都会に出ていくことになった。農耕の時代にそれなりの生活環境が提供されていたように、カネの時代にもそれなりの生活環境は提供されている。頑張れば生活を改善できるのだという希望も提供されている。しかし、実態はといえば、支配者たちの意図の中でカネに縛られた生活でしかないのである。

 

農耕社会とカネ社会

農耕の時代の支配者たちは、土地を支配していた。カネの時代の支配者たちは、金融の仕組みを支配している。土地という具体的なものではなく、金融の仕組みという抽象的なものを支配することで、金融の支配者たちの姿は見えにくくなっている中央銀行や株式制度、著作権、特許など、金融の支配者たちによって作りあげられた仕組みは広く社会を覆っている。人びとは、この現代社会がカネ社会であることに気づかず、支配者たちの繰り出す嘘に騙されていく。土地から切り離されて自由になったかに見える人びとは、カネに縛りつけられただけなのである(明治六年に導入された地租改正で金納が課されたことがカネ社会の到来を象徴している)。

 

 

とほ徒歩トホホ

歩くことで

私たちはあっというまに

太古の世界に戻ることができなる。

 

自動車や電車を使って1時間もあれば行けた場所が、

一日を要する遠い場所に変わる。

 

服装や持ち物も考えなくてはいけない。

 

一日歩き続ければ喉も乾けば汗も出る。

腹だって減るだろうし、

足に豆ができるかもしれない。

 

持ち運ぶ荷物も絞り込まなくてはいけない。

食品の腐敗に気を付ける必要もあるだろう。

 

何より、歩いている間は、他にほとんど何もできないという事実がある。

 

移動手段を徒歩だけに変えて見れば、

私たちは本来一日にわずかな行動しかできない存在なのだ

ということがわかってくる。

 

わずかなエネルギーを消費し、

本当に必要なことに絞り込んだ活動に従事し、

大きな荷物を運ぶよりは自分からその場所まで移動する。

 

昔の人たちが足早であった理由も納得がいく。

とにかく、徒歩は遅いのだ。

 

歩くことは、歩く暮らしを思い出させる。

人間にとってスイカとは何か』と問えば、

スイカさえあれば人は生きていけると答えが返る。

 

歩くことは、太古と現在との違いを明らかにする。

 

多くの物を動かす必要のある現在の世界は、

エネルギーの大量消費なしには成り立たない。

エネルギーを大量に作り出すためには、

たくさんの物を動かす必要があり、

たくさんの資源を消費する必要もある。

 

資源の限られた世界に住み続ける限り、

こんなあり方が続かないことは誰の目にも明らかだ。

 

それでも、人はエネルギーの消費を拡大していく。

エコロジカルな暮らしを続けて来た人々は、

文明の支配者たちによって征服されて

殖産興業へ(ロスチャイルドが暗躍した江戸→明治)、

経済発展(ハワイ王国)へと追いやられる

(名目上はよりよい生活のためである)。

 

子どもの遊び場はなくなり、

子どもの遊び時間もなくなり、

家族のだんらんも地域活動もなくなって、

すべてがグローバル企業の商業活動に組み込まれていく。

 

寿命が延びようが、

娯楽が増えようが、

徒歩の暮らしにあった安らぎや

直接的な経験はほとんど失われているのである。

 

これまで手つかずだった資源に手をつけて、

人が一日に可能な経済活動を拡大させることで、

支配者たちの身入りを拡大した世界ができあがったのだ。

 

決して続くはずがなく、

決して幸せでもないが、

地球環境を確実に破壊していく。

 

資源の限られる地上に生きる私たちは、

大量の資源を消費する輸送力に頼ることはできず、

歩くことしかできなはずの存在である。

本来歩くことしかできない私たちにとって可能な生き方は、

極く限られた生き方でしかないはずなのである。

 

 

 

 

 

 

 

一年半前に考えていたこと↓

todo-todo.hatenablog.com

一度切りであるということ

一度切りであるということについて考えている。

 

これを考えるようになったのは、我が家の猫たちの生き方や、動物に関する本などから学んだからであった。

 

動物たちの生き方は、まさに一度切りの事象の積み重ねである。親子の関係にしても、他の個体との関係にしても、なわばり争いにしても、それぞれ異なる状況に合わせてそれぞれの個体がそれなりの答えを見つけて生きている。「親子」という言葉もなければ、「兄弟」という言葉もなく、オス・メスという言葉もないが、集まり、分かれ、交尾し、争い、襲い、逃げ、食い食われて、それなりの調和を作って生きている。

 

親とはこういうものであるとか、子はこういうものであると誰も教えてなどいない。私たちと猫たちの関係にせよ、ヨソの猫たちとの関係にせよ、誰にも教わらない中で状況に合わせて築いている。

 

私たちの暮らしもそうではないか、それぞれがそれぞれに工夫して生きているのだという人もあるだろう。しかし、動物たちと私たちには決定的な違いが存在している。それは私たちは、自分で答えを見つけだすのではなく、社会によって生き方の基本が定められているという点である。

 

国民として、成人として、社会人として、私たちは、生き方を規定されている。

 

たとえば、私たちは学校に通うことを義務付けられ、学校で教え込まれる知識が予め決められている。紛争を解決するには決められた手続きに従わなければならず、勝手に川遊びをすることも、貝を掘ることもできない。

 

もっと、根本的な問題となるのは、私たちがこのように枠にはめられて生きることについて問うことを、私たちの暮らす文明社会は嫌っているという点である。

 

たとえば、狩猟採集者たちには許されている、生まれた子を育てないという決断や、老いた親を見捨ててキャンプ地を移動するのだという決断は、私たちには許されていないが、許されていない理由を私たちは知らない。

 

もし私たちが動物たちのように生きていくのであれば、私たちは決められた枠組みに解決策を求めるのではなく、当事者として納得のいくように解決することができ、自分なりの価値観を作って暮らしていくことができるはずだ。しかし、現実は違っている。私たちには動物たちのような本来の当事者としての自由は持ち合わせていないのである。

 

抽象概念は詐欺師への第一歩で記したように、私たちの生活を規定している理論など、実際には詐欺師の言葉と大差のない嘘ばかりである。それなのに、当事者である私たちに大きな制限を加え、私たちの生きる時間の大半を、医療費、住居費、学費、水道光熱費、税金、年金、義務教育、勤労義務などの形で奪っている。私たちは当事者として重要なのではなく、大規模な経済活動を展開し、利益の大半を吐き出してくれるコマとして必要とされているだけになっている。

 

別の視点から見てみよう。生命の本質を見つめていくと、多様な生命が誕生し、毎回白紙の状態から答えを見つけながら生き、次の世代にその答えを伝えることなく死んでいくことの繰り返しが、生命であって、ただいつかは消滅する過程でしかないことがわかってくる。目的などなく、完成することもない。ときの経過によって変わっていく登場人物たちに合わせて二度と繰り返されることのない模様を変えながら続いているにすぎないのだ。

 

生命の本質が変化だとすれば、私たちには、外から与えられる価値観など無意味である。私たちが向き合う状況は一度限りの普遍性のない状況なのであり、誰かが見つけた処方箋は役に立たないのだ。しかもその処方箋は私たちから当事者能力を奪うだけの処方箋であったりもしている。

 

私たちが必要としているのは、作りあげられた枠組みや、これを裏付ける理論体系などでも、そのような理論体系を覚えこむよう要求する社会でもない。当事者として関わることができ、実情に合わせて柔軟に変化する社会である。それに近いのは、強制力を持つリーダーも裁判所や警察もないピグミーら狩猟採集者の社会である。また、知識を一方的に与えられる社会ではなく、『子どもの文化人類学』に描かれたヘアーインディアンのように誰もが「自分で覚えた」と意識するような社会である。

 

 

 

 

 

野生の世界

【残酷な狩りの動画を下部に埋め込んであります。】

 

愛嬌のある犬のような動物(リカオン)が、

かわいらしい声をあげながら

生きた獲物の肉を食いちぎる。

 

群れを作る動物たちは、

息の根を止めるのではなく、

草食獣の下腹部あたりに噛みつき、

生きた獲物の肛門周辺を噛み破って食べ進めるようだ。

 

草食獣たちはこのような攻撃を受けると、

振り払うことも、突き飛ばすことも、

前足でけることもできず、

犠牲になっていく。

 

あるいは、生まれたばかりのシマウマやインパラが

あっという間に肉食獣の餌食となる。

 

ガケに安住の地を求めたヤギたちも

イヌワシにとっては格好の獲物になってしまう。

 

ヒヒも無抵抗なインパラの子を

殺しもせずに食べ、

親を軽くあしらうのである。

 

こうして野生の世界を見ていくと、

私たちも間違いなく同じ生と死の世界に生きていることを

教えられる。

 

人工的な世界に暮らすうちに、

人は、何かのために生まれてくるのだとか、

苦難に耐えていればいつか良い日が来るのだとか

妄想するようになってしまったが、

事実はまったく違うことがわかってくる。 

 

生ははかないものであり、

老いを迎えることは僥倖に過ぎず、

いつ終止符が打たれても

何の不思議もないものなのである。

 

こう考えると

社会は、多くの人々が老年期に達する前に

生を終えることを前提として作られている

べきであることがわかってくる。

 

たとえば、狩猟採集民アンダマン島民の社会を見ると、

確かにそのような社会が作られているのである。

 

共同体社会と人類婚姻史「 狩猟採集民アンダマン諸島人の子供の家族間移籍 」

●村の子供
村の子供たちはほとんど区別されない。みんな、本当の母親だけでなく村のどの母親にもいじくられ、かわいがられ、乳をもらう。乳離れするのは3、4歳になってからであり、その後は「村の子供」と見なされるが、ずいぶんたらいまわしにされる。
その後さらに顕著な分散が起こる。6、7歳以上の子供が両親と暮らしていることはまずない。既婚者がある家を訪問すると、その家の主人に子供を一人養子にくれというのが、礼儀であり友愛のしるしであると考えられているからである。この申し入れは通常同意され、以後、子供は養父と住むことになる。実の両親も他の知り合いの子供を養子にするが、始終実子を訪ね、2、3日その子を連れ出すこともある。
何人養子を迎えようと自由であるが、やさしく、思いやりをもって接しなければならず、すべての面で実の息子や娘のように扱わなくてはいけないし、養子のほうも孝養をつくさねばならない。そのうちさらに別の友人が養子にくれと頼むことも希ではなく、それもすぐ許される。
思春期を過ぎると、男子は両親や養父母の小屋を出て独身者小屋で生活を始め、結婚までそこにいる。

●結婚
アンダマン諸島人の結婚のルールは、社会組織の他の側面と同様、散漫かつ曖昧にできている。近親婚は禁じられているが、その禁止は極めて明確に規定されているわけではない。男性が姉妹や異父母姉妹、伯(叔)母や姪と結婚してはならないことは明らかだが、イトコとの結婚の可否に関してははっきり定まっていない。
里子の場合、幼時に孤児としてもらわれていれば真の親族とみなされ、養子先の近親者と結婚することはできないが、前述の習慣に従って、もっと大きくなってから「借りてきた」子供であれば、もらわれた先の家の子供と結婚しても構わない。実際、この種の養子はふつう、里親のところの兄弟(姉妹)との婚約につながり、双方の両親はそれを期待している。
結婚の大半は、異なった地域集団のメンバー間で行われ、地域的外婚の傾向がある。
結婚の習慣の特色の一つは、レヴィレートと呼ばれる習俗で、夫が死亡すると寡婦は、亡夫の弟か弟に相当するイトコと結婚する。これと表裏をなす習慣、ソロレートもやはり行われており、男やもめは、亡妻の妹と結婚することになっている。この習慣によって、寡婦や男やもめを社会的に保証し、二家族間の結合を維持している
アンダマン諸島人の結婚は、非常に一夫一婦主義的であり、夫婦のどちらの不義もきびしく非難され、処罰される。しかし、結婚は結婚式によって完全に成就するとはみなされず、子供の誕生によって決まる。
結婚前には、若者たちは自由に性的な実験に参加する。

 

一つ一つの事実を積み上げていくと、私たちは人工環境に囲まれていることで大きな誤解をしていることがわかってくる。人類は生命の法則を脱したと思い込んでいるが、人が生物である限り、生命の法則から脱することはできないのである。

 

生命の法則から脱することができないということは、雑菌に囲まれて生きるしかなく、先天的な障害と付き合っていくしかなく、危険な獣と共存していくしかなく、やっかいな寄生虫や害虫と共存していくしかなく、肉体を駆使して生きていくしかないことを意味している。

 

多くの知識人が文明社会を疑うことをせず、まだ人と動物の違いを信じ、人工社会の中で培われた価値観を信奉する姿を知るたびに、私は大きく否定したくなるのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

生きた証

人は自分が生きた証を欲しがる。

 

私は思う。

証を欲しがるのは

人が偽りの生を生きるようになったからなのだと。

 

アマゾンの先住民は知っている。

人は何もなさずともよいのだということを。

(『人間が好き―アマゾン先住民からの伝言』) 

 

いや、人は何もなさないわけではない。

 

生まれた時と同じ自然を死ぬ時もそのままにするように、

自分自身の生き方を制御して主体的に生きること。

それが、アマゾンの先住民たちが実現する偉業である。

 

アマゾンの先住民たちは祖先の残した自然の中で

祖先の眠る大地の上で生きる。

 

日々祖先を思い出し、

自らの死後も、子孫たちの心に

日々蘇る自分を確信する。

 

そう、自然を身勝手に利用せず、自然に従って生きてきた

人類誕生から今も残る、狩猟と採集に頼る生き方だけが、

人に生きた証を問わせない生き方だったのだ。

 

 

 

 

お金がなくては生活できない社会をつくりあげよう

金融の仕組みを作った勢力は、人々が金に依存しなくなっては困るから、あらゆる手段で金への依存を高めている。

 

 

・かつては村民であれば誰でも無料で落ち葉や下草を利用できた、藩主の所有する林を廃して利用できなくしてしまおう。

・広葉樹の森のままにすれば、あけびやきのこ、野いちご、ヤマイモなどたくさんの恵を無料で与えてしまうから針葉樹を植樹してしまおう。

・井戸やわき水を利用されていては水道代が無料になってしまうから、水質基準を厳しく定めて利用できないようにしてしまおう。

・民間医療を認めておいては医者にかからなくなってしまうから、医療行為には資格を必要とするようにしよう。

・徒歩は無料だから、自動車を利用させよう。

・自給自足を目指されては困るから農地を取得できにくくしよう。

・ゴミを各自で燃やされては困るから燃やせなくしよう。

・田舎でも、浄化槽を義務付けて金がかかるようにしよう。

・プロパンガスを自由に販売していては、金のかからない生活を目指しやすくなるから、プロパンの個別販売を禁じよう。

・とにかく学歴を付けなくては就職しにくい社会にしよう。

・住宅取得費用は高く維持させよう。

・年金や介護保険料、国民保険料を支払わせよう。

 

お金がなくても暮らせる世界を提案しようとしたとき、私たちの社会を支配する者たちがいて、お金に縛られない暮らしの実現を全力で阻止しようとしていることが明確になってくるのである。

 

 

 

 

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